一燈照隅

日本が好きな日本人です

廬溝橋事件Ⅱ

2007年07月08日 | 支那事変
「師と友」昭和53年10月号の「中国共産党の軌跡」に廬溝橋事件のことが書かれています。

七月七日午後、第八中隊(三大隊所属)は豊台(ほうだい)を出発、廬溝橋(ろこうきよう)西北約千米の竜王廟(りゆうおうびよう)に到着、夕刻から夜間演習を実施、午後十時半前段の訓練を終り、中隊を集合させようとしていたとき後方から数発の小銃射撃を受けた。十時四十分ごろである。清水中隊長はこのとき、「実弾だ」と直感した。演習部隊は厳重に実弾の使用を禁止していたので、これはあきらかに日本軍以外のものからの射撃でなければならない。さらにこの後、数回にわたって散発的に射撃を受けたため、日本軍は応戦準備に移った。この間、第八中隊の兵一名が行方不明になったため捜索がおこなわれたが、行方不明の兵は程なく無事発見された。
ところで、牟田口連隊長の手記によると第三大隊長一木清直少佐からの電話による状況報告に対して、「日本軍と知って射撃した以上、更に隠忍を重ねることは、わが威信を失墜するものであり、もはや自衛権の発動は止むを得ない」と決心し、「やってよろしい」と命じたのは、午前四時二十分であったという。一木大隊長はこの命令にもとづいて戦闘行動をおこしたわけで清水中隊長の手記によれば、日本軍が、廬溝橋北側から竜王廟方向にむけて攻撃前進をはじめたのは、八日の午後五時になってからのことであり、中国軍の抵抗を排して竜王廟に進出したときは五時三十分であった。
 要するに、一般には、廬溝橋事件は七月七日に起ったとされているが、日中間に実際に戦闘がはじまったのは七月八日の早朝であったのである。
ところで、廬溝橋事件をおこした直接の原因は、夜間演習中の日本軍に対しておこなわれた射撃であるが、その射撃が果たして国府軍部隊がやったものであるかどうかという点になると疑問が残されている。そのときの廬溝橋城壁の弾痕は真北から射たれたものであることは、当時の調査によってはっきりしており、これは中国軍側からの射撃であることを明示している。事実、宛平(えんぺい)城内の中国軍の一部が、毎夜竜王廟付近のトーチカに進出しており、彼らによって射撃がおこなわれた可能性が最も強いのであるが、そうだとしても彼らが上級指揮官からの命令によってそれを行なったという証拠はない。当時の日本側関係者もその点については否定的見解をとっており、むろし第三者の陰謀によるものではないかという見方が強かった。すなわち日本と国府との間に戦いをおこさせて、それによって漁夫の利を得ようとする勢力が巧みに国府軍兵士に工作して、射撃をおこなわせた、とする見方である。その〃第三者〃とか、〃日本と国府との戦いによって漁夫の利を得ようとする勢力〃とかが、中国共産党を指していることはいうまでもない。そしてこの見方には、それを裏付けるような状況証拠があげられるのである。
難航した停戦協定は、七月十一日夜ようやく成立したが、七月十三日北京永定門付近で、使用を厳禁されていた爆竹を鳴らし銃声と疑わせて人心をまどわすものがあった。このようなケースは戦線の各所で頻発し、日華双方はたがいに相手側の不法射撃だとして非難しあい、不信の念をたかめる結果を生み出していった。ことの真相をつきとめるべく、日本の憲兵隊が中国人密偵とともに現地に潜伏して、一組の学生が爆竹を鳴らす現場をおさえたところ、学生達ははじめ彼らを同国人と感違いして、「われわれは北方局の命令でやっているのに、なぜ邪魔するのか」と喰ってかかったという。
これに関して、当時北京大使館付陸軍武官補佐であった今井武夫少佐(終戦時少将)は「当時この調査報告を聞いた憲兵隊長と特務機関は、北方局とかその責任者劉少奇とかいう氏名に大して関心を払わなかったが、その頃劉少奇は表面北京大学図書館に勤務しながら、実際は中国共産党北方総局第一書記として全権を握り、もっぱら華北の地下工作を指導していたことは戦後明かになったことである」と述べ、「当時日華両軍の責任ある当事者以外に、両者の離間衡突を待望したものがあったことは明瞭で、竜王廟で放たれた小銃弾は、たちまち両国間に充満していた危険ガスに引火して大事件に発展したものと考えざるを得ない」(「支那事変の回想」)と語っている。
ところで、中国共産党は、廬溝橋事件が発生すると直ちに要旨次のような通電を発した。
「七月七日夜十時、日本は廬溝橋において中国の駐屯軍馮治安部隊に対し攻撃を開始し、馮部隊に長卒店への撤退を要求した。(中略)全国の同胞諸君、北平・天津危し華北危し、中華民族危うし、全国民族が抗戦を実行してのみわれわれの活路がある。われわれに攻撃してくる日本軍に対し、ただちに断固たる反撃を加えるよう要求するとともに、新たな大事変に即応する準備をただちにすすめるよう要求する。全国の人びとは上下をとわず、日本侵略者に一時的な和平や安息を求めようとするいかなる希望や思惑をもただちに放棄しなければならない(下略)」
これは「日本軍の廬溝橋進攻に際しての通電」といわれるもので、七月八日に発せられたものである。すでに述べたように、正体不明の射撃がおこなわれたのが七日の午後十時四十分ごろであり、日華両軍の戦闘がはじまったのは八日の午前五時過ぎである。この通電がうたれた時間ははっきりしないが、戦闘がはじまった数時間以内では、日華両軍の間でさえも、まだ事態の真相や進展の予想についてはっきりしたものが正確にはつかめていなかったと思われる。そのようなときに、中国共産党が、全国にむけて廬溝橋事件を通電し、七月七日夜十時に日本が中国軍に対して攻撃を開始したといい切っていることや、対日即時開戦論を極めて激越な調子で主張していることなどは、中国共産党がこの事件を画策し演出したのだという推測を一層強めさせることになるのではなかろうか。
また、一九六四年七月十七日、毛沢東は佐々木更三を団長とする社会党議員訪中団に対して、「日本の友人たちは、皇軍が中国を侵略して申し訳ないといいました。私は〃いいえ〃といいました。もし、日本の皇軍が中国の大半を占領していなかったら、中国人民は団結してこれに反対して闘うことができなかったし、中国共産党は権力を奪取することができなかったでしょう。ですからわれわれにとって、日本の皇軍は立派な教師だったのです」と語っている。
日本が中国の大半を占領していなかったら中国共産党は権力を奪取することができなかった、という毛沢東のことばは、中国共産党が日中戦争を歓迎していたことになるし、それは中国共産党が廬溝橋事件を仕組んだ張本人だということを間接的に認めることにつながるのではないだろうか。廬溝橋事件の背後には中国共産党がいたとか、日中戦争は中国共産党の大謀略であったとかいう見方が、いまも根強く存在しているのも決して理由のないことではないのである。中国共産党と廬溝橋事件、中国共産党と日中戦争との間には、何か陰謀めいた関わりあいが伏在していることを強く感ぜさせずにはおかない。そしてもしも、中国共産党の陰謀説があたっていたとしたならば、日本と中国とをともに苦難の泥沼のなかに突き入れたのは、ほかならぬ中国共産党であったということになるであろう。
たとえ、そうでなくても廬溝橋事件は、対日戦争準備の一環を中国において完成させようとしていたコミンテルンにとって、天与のたまものであったと思われる。「西安事件後、全国的抗日態勢が整備され、国共合作が成立しょうとしていたとき、廬溝橋事件が発生したことはコミンテルンと中国共産党の思うツボであった。事件勃発後一週間を出ないうちに、コンミテルンの指令はクシの歯を引くように中国共産党に達した。その要点はつぎのとおりである。
①あくまで局地解決を避け、日中の全面的衡突に導かなければならない。②そのためにはあらゆる手段を利用して、局地解決や日本への譲歩によって中国の解放運動を裏切ろうとする要人は抹殺してもいい。③民衆に工作して行動を起こさせ、国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち到らしめなければならない(波多野乾一「中国共産党史」)。
ところで、蒋介石は七月十七日、廬山において演説をおこない、日本との交戦を避けないという中国の立場を明らかにしながらも、なお和平への望みを捨て去っていないことを表明した。この演説は十九日に発表されている。中国共産党の対応ぶりと比べてみるとき、蒋介石の慎重な態度に気付くであろう。
曲折を経ながらも事態は悪化の一途をたどり、日中両国はついに全面的な戦いに突入していった。蒋介石は中国の総力をあげて日本にあたるべく決意する。国民革命軍第八路軍に改編された紅軍も、抗日戦争に参加することとなったが、戦いにのぞんだときの毛沢東の方針は次のようなものであった。
「中日戦争は中国共産党発展の絶好のチャンスである。われわれの基本政策は全力の七分を中共の発展に、二分を国民政府との対応に、残りの一分を抗日に使用する」そしてこの政策はつぎのようなな三段階、すなわち「第一は妥協の段階で、国府に対し表面上服従し三民主義の遵守を示す。第二は競争の段階で二、三年を政治的軍事的基礎の建設に費し、黄河以北から国民党の影響を除去する。第三は攻勢の段階で、党の兵力を華中深く浸透させ、ついには国民党の手から指導権を奪いとる」(董顕光「蒋介石」)というものであった。この毛沢東の示した方針は、抗日戦争から国共内戦を通じて、ほとんどそのとおりに実施されていったのである。


日本人なら、支那の言うことを事実と捉えるより、日本から見た事実を主張しなければなりません。
廬溝橋や南京に行って謝罪するような首相は我が国の首相ではありません。






最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
盧溝橋 (小楠)
2007-07-09 08:32:19
今は丁度盧溝橋から70年ですね。
たった70年まえの日本の姿が今では全く信じられないようです。
マスコミは、自分たちの報道してきたことでも、平気で覆して恥じるところを知りません。こんなゲスな者たちが書く記事など、ばからしくて相手にできませんね。
Unknown (まさ)
2007-07-09 20:36:24
小楠さん。
大臣に身の清潔さや説明責任と言うなら、自分達が真っ先にしろと言いたい。

こんなマスコミの言うことを信じて将来の判断を間違えないように、国民も賢くならなければいけません。

コメントを投稿