【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

紅葉2016

2016-12-31 | 花だより
<2016年度紅葉>

奈良



11月11日撮影

宇治(源氏物語ミュージアム~平等院)







11月17日撮影

八幡(善法律寺~神應寺)









11月26日撮影

和束町(正法寺)







11月29日撮影


今年もあと半日。
「光陰矢のごとし」につきます。

皆さまはどんな1年だったでしょうか?。

来年もよろしくお願いします。

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MERRY CHRISTMAS

2016-12-25 | デジカメ紀行
サンタランとは・・・。

サンタクロースの衣装を着て、楽しく走って、参加費の一部で病気と闘う子ども達へ クリスマスプレゼントを贈るチャリティイベント。

バイク(ハーレーサンタCLUB)でパレードする児童虐待防止活動のサンタランも毎年開催されているようです。

ワンチャン部門もあるので愛犬にサンタコスプレをして参加できます。


バイクでサンタラン

24日、京都駅西の高架下で8人くらいのサンタさんに会いました。


車の中からカメラを向けているのがわかると、手を振ってくれました。



トナカイさんも・・・。





高架を抜けると東方面へ。



見ている人を笑顔にしてくれます。

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有明海のエイリアン

2016-12-22 | デジカメ紀行
ワラスボ
日本では有明海奥部の軟泥干潟にのみ生息する絶滅危惧II類に指定されているハゼの仲間です。
絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)。
体は著しく細長い。眼は退化して小さく、皮膚の下にかくれてしまっている。口は大きく、歯が口から出る。ウロコはほとんどなく痕跡を残すのみ。
その姿から「有明海のエイリアン」とも言われています。
名前の由来は、稲わらを束ねて作る筒の様な形に似るための名称と考えられているようです。

有明海沿岸域ではチワラスボとともに各地で食用にされ、満潮時は「あんこう網」、干潮時は「すぼかき」などの伝統漁法で漁獲されるんだとか。
「すぼかき」は棒の先に付けた鉤に引っかける漁法で、潟スキー(跳ね板)に乗って移動しながら捕るそうです。

映画『エイリアン』シリーズに登場する宇宙生物の頭部に似ていることから、メディアで採り上げられる際は、「エイリアンのような魚」と比喩されています。

お土産の干しワラスボ








勇気をもって料理(笑)。

金槌と料理ばさみを用意

金槌でたたいて柔らかくし、2,3㎝に切ります。
金槌でたたくと、白っぽくなります。



から揚げにします。



醤油、砂糖、酒を煮立たせ、からめます。いりごまを散らし出来上がり。


味は、見た目とうらはらで、大好評!。めでたしめでたし。

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ハリストス正教会

2016-12-20 | デジカメ紀行
京都ハリストス正教会


京都府での正教伝道は、明治13(1880)年。
京都市内では、明治22(1889)年に市の中心部「押小路通高倉西入る」に講義所を設立、伝道活動が開始されました。
明治34年12月には現在の聖堂、生神女福音(しょうしんじょふくいん=受胎告知)聖堂が完成、明治36(1903)年5月ニコライ主教の司祷により成聖された。
京都府庁旧本館を手がけた松室重光の設計で、東方正教会の流れをくむ日本ハリストス正教会の本格的な大聖堂としては、現存する最古のもので、京都市指定文化財になっています。

木造銅板葺
平面十字型、船型
ロシア・ビザンチン様式(八角塔とドーム屋根が特徴)

建築面積 217,78㎡
奥行 27,21m
鐘楼尖塔 22,3m

京都聖堂は帝政ロシア時代後期の、聖器物、燭台、シャンデリア、聖像(イコン)などを安置。日露戦争時のロシア兵捕虜が寄贈した奇蹟者聖ニコライの聖像(1905年)、明治期の聖像画家、イリナ山下りんの「至聖生神女之福音」聖像などが彩り、大扉の金具や鍵、ガラス窓のほとんどが、
1世紀余り昔の明治期の職人の手仕事だそうです。




玄関


斜めからみてみると

左手前方、啓蒙所。右手奥、聖所。

  
それぞれの尖塔です。



南側から


北側から



正面鐘塔



(パンフレットより)



内部は、聖人や最後の晩餐(ばんさん)などの出来事を描いた聖像(イコン)30枚を壁のように飾った聖障(イコノスタス)があります。
20世紀初頭にモスクワで制作され、移送されたようです。当時のものは、ロシアでは1917年の革命で多くが失われたとか。

聖障(イコノスタス)




(パンフレットより)


教会を出て近所の散策をしてみると・・・。

バナナ発見!




カフェのようでした。

10月30日、京都非公開文化財特別公開で訪れました。



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瑞泉山 正法寺

2016-12-18 | デジカメ紀行
正法寺(しょうほうじ)

京都府相楽郡和束町にある、天平年間の昔に創建された古刹です。臨済宗永源寺派の末寺。
天平年中(729-749)聖武天皇が安積皇子の冥福を祈って行基に開かせたもので仏法寺と称し、俗に幡寺と呼ばれていたそうです。
往昔は寺領も多く仏法寺山に大伽藍を構えていましたが、南北朝の内乱の際にしばしば武将の陣営にあてられ衰微、江戸時代にはいり、如雪和尚を中興開山にむかえ、後水尾上皇・東福門院の帰依によって寺観を整え、正法寺と名を改めています。

京都府南部を代表する紅葉の名所の一つとして知られ、秋の彩りが素晴らしい山寺として紹介されることも多いようです。
参道の石畳の脇や境内の周りには、臨済宗大本山永源寺(滋賀県)のヤマモミジが移植されており、秋には、ヤマモミジ、イチョウなどが見事に色づきます。

参道に。
 





階段の上に見えているんですが、開いていないので、こちらの道へ。

石畳が見えないほど落ち葉で埋め尽くされています。




阿弥陀石仏

石畳の途中に置かれています。

先代の住職さんが陶芸教室をされていたそうです。




境内に入ります。



手水舎


本堂


拝殿

「祈檮」と書かれた扁額が掲げられています。

鐘楼


茶畑を望む。

和束町は別名「茶源郷」とも呼ばれ、 日本のお茶文化を
発信する町だとも・・・。


角度をかえて撮ってみました。

本堂の後ろ側にまわると











十二支地蔵

境内にあるお地蔵様には、手作りの帽子とよだれかけが
かけられています。







 






  

  足元にシーサー。

 






境内を出ると









11月29日の様子です。
「ウェザーニュース」から紅葉情報の問い合わせがあるそうです。

説明は、ホームページより。




























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大根焚き「了徳寺」

2016-12-12 | デジカメ紀行
真宗大谷派 法輪山 了徳寺
京都市右京区鳴滝本町にある、正西法師によって建てられたお寺で、通称「大根焚寺」とも呼ばれています。



御本尊は、聖徳太子自ら桂の木を彫ってつくり、応仁の乱後、安置されたと伝えられる阿弥陀如来像です。
その阿弥陀如来像の横には鎌倉時代の仏師湛慶(たんけい)の作とされる親鸞聖人坐像が安置されています。

親鸞聖人の銅像


報恩講「大根焚」

鎌倉時代の建長4年(1252年)、浄土真宗の開祖である親鸞聖人が愛宕山中の月輪寺に師である法然上人の遺跡を訪ねた帰りに了徳寺を訪れ、村人たちに教えを説きました。その教えに感銘を受けた村人たちがお礼に塩焚きの大根を馳走しました。
親鸞聖人はそのもてなしに応え、すすきの穂の束を筆代わりとして、鍋の残り煤で「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」という十字の名号を書いてそのお礼として残されました。この故事に因んで行われる報恩講の通称が「大根焚」になります。

毎年、12月9日と10日に行う報恩講「大根焚」では3,000本の青くび大根を炊き、この大根をいただくと中風にならないと伝えられています。

9日お参りに。


門に「大根焚寺」の石碑があります。

門をくぐり、境内に入ると、目に入ってくるのは、樽に入れられた大根の山。



前日、早朝に掘り出された「京都府亀岡市篠町でつくられた青くび大根」約三千本が了徳寺の境内いっぱいに並べられ、御門徒による切り出しが始まります。




大鍋での焚込みです。

薪や使いこなれた道具が並んでいました。




お庭を拝見。







いただきました。

「おあげさん」にも味がしっかり。


はしがみの裏には
「祖師の御旧跡
鳴滝大根焚きに御相伴して家にかへり 日々聖人を偲び、今日無事の身の幸を喜ぶお箸です。」と書かれています。

大根を頂き、お庭も拝見した後は、周辺を・・・。

延命地蔵尊


「福王子」の交差点に立っている大根焚きの旗。


福王子神社(ふくおうじじんじゃ)。
光孝天皇の女御で宇多天皇の母である班子皇后を祀る。宇多天皇が仁和寺を開いたことから、仁和寺の鎮守神とされています。
神社名の由来は、班子女王が多くの皇子皇女を生んだ事に由来するとも言われているそうです。


鳥居、舞殿、その後ろに拝殿が見えています。
鳥居は石造、明神鳥居。

狛犬
 

手水舎


拝殿、後ろに本殿

拝殿は入母屋造、銅板葺。本殿は春日造、銅板葺。

重要文化財に指定の諚(おおせ)、由来




舞殿に置かれています。重要文化財に1973年6月2日指定。


説明は公式ホームページより。



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大根炊き「生駒聖天さん」

2016-12-10 | デジカメ紀行
宝山寺(ほうざんじ)
奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。

生駒山の中腹に位置し、商売の神様を祀る日本三大聖天のひとつ。1678年に湛海律師によって開かれ、現世利益を求める多くの人々の信仰の寺として、古くより栄えてきました。生駒聖天(いこましょうてん)、生駒の聖天さんとも呼ばれています。
鎮守神として歓喜天が祀られています。
生駒山中に約10年の年月をかけて完成した伽藍には、山中の寺院ならではの独特な寺院建築物が並び、そのそれぞれには様々な神様・仏様が祀られています。
毎月1日・16日は「歓喜天御縁日」で、商売繁盛など現世利益を祈願する人々が数多く参拝されます。

12月1日「大根炊き」

お下がりの大根を神酒で焚き上げ特別に調合したタレで召し上がっていただき体内のみならず精神的にも解毒していただく行事です、と。


大根は体内の毒を消すと古くから言われています。大根は聖天様の好物でご紋にも大根が使われています。
12月1日深夜0時とともに、大釜で炊かれ宝山寺味噌のタレをかけた大根がいただけます。

一の鳥居

石造りの鳥居としては、国内でも特に背の高いものとして
知られているそうです。

扁額に「歓喜天」の文字。
この「一の鳥居」は、もともとは近鉄生駒駅の近く(参道の入口)に建っていましたが、昭和50年代の駅前再開発事業により、現在の場所に移築されたそうです。

宝山寺のように、寺院で鳥居を見かけることがありますが、それはその寺院が天部の神様を祀っているからだそう。天部の神様とは、仏教成立以前のバラモン教の神々であり、仏教の成立後は仏教の守護神として位置づけられており、この天部の神様は穢(けが)れを嫌うことから、参拝者は鳥居をくぐり身を清めて参拝をします。

一の鳥居付近で

参道

生駒山ケーブル駅から、10分ほどの所です。

金剛殿

惣門の手前右手にあるお堂です。交通安全祈祷。
本尊はお不動さん。聖天さんの根本霊場です。


惣門へ向かいます。


惣門を横から見ると

薬医門と呼ばれる形状をしており、横からみると屋根を支える本柱が
中心より前にせり出しているよう。

薬医門とは。
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたとも、医者の門として使われたことからとも言われています。
倒壊しやすい棟門の欠点を補い、本柱の後方に控柱を建てた門。
本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束(つか)をのせて切妻屋根をのせた門。
棟は本柱の垂直線上から後方にずれています。

地蔵堂

惣門の正面にある階段の途中にあります。ここに並ぶのは、福徳地蔵尊像や融通観音像など6体の石像。福徳地蔵尊像と融通観音像は宝山寺ができた当初に寄贈されたもので、そのほか4体は昭和に入ってからこの場所に居られるとのこと。
この融通観音像、実は双子だと言われ、まったく同時期に制作された、よく似た姿のもう一体の融通観音像があり、そちらは奈良市三碓の添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)に居られると伝えられているそうです。直線距離で約5kmほどの場所から、互いが互いの方を向き合うかたちで立っているそうで、この場所から融通観音様が見つめられている視線の先には、奈良市のまちを見渡すことができるようです。

鐘楼


境内にはいります。

中央あたり、屋根がいくつも重なっているような建物が拝殿。
右手屋根が半分ほど見えているのが本堂。



しめ縄

12月16日に、一の鳥居に付けられるそうです。

鳥居

扁額には歓喜天と刻されています。

本堂

五間四面・重層の護摩堂様式。同寺で最古の建造物。
本尊として、宝山寺の中興開山者である湛海律師により作られた
不動明王像が祀られています。

不動堂という意味の「阿遮羅場」と書かれた額は、
東寺学頭大僧正賢賀の筆(明和5年/1768年)。
堂内では、護摩祈祷が行われていました。

拝殿

瓦葺きの本堂の隣には、檜皮(ひわだ)葺の聖天堂拝殿。
棟や破風の数が多い、「八つ棟造り」という様式で、寺院建築としては
非常に珍しい外観だそうです。
きらびやかな飾り灯籠で荘厳されています。
建物の手前が外拝殿、そのすぐ後方が中拝殿、
一番奥が大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天堂。

般若窟

本堂の後ろに見える岩壁。役小角が般若経を納めたと伝わっています。
弥勒菩薩が安置されています。

巾着袋のお賽銭箱



歓喜天が持っている巾着を模した賽銭箱です。歓喜天の好物で、
食べると身が清められる大根の絵柄が彫られている。

多宝塔

現在の多宝塔が建てられたのは、昭和32年(1957年)。中興開山の湛海律師はこの場所にこそ「多宝塔」を建てるべきと考えたが、その時期は将来にゆだねていました。そのころよりおよそ300年という長い年月を経て、故実に基づき建てられたのが今の「多宝塔」。
本尊は、清らかな愛の成就を祈る愛染明王像。


境内にはたくさんの石碑が建っていて、
そこに「永代浴油」と彫られています。
浴油とは、独特の供養法で、聖天さんの御像に杓を用いて真言や印で、加持をした油を潅ぐ供養法で、生駒では夜中の2時に
住職が毎日行っているそうです。

大きな釜で8000人分の大根が炊かれたそうです。





熱々の大根「ごちそうさまでした」。
11時半頃には、大釜の中は、空に・・・。


説明文は公式ホームページ等より






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八幡市散策

2016-12-04 | デジカメ紀行
秋の文化財一斉公開 11月26日、27日
石清水八幡宮とともに神仏習合の門前町として発展した八幡市は、茶の湯文化ともつながりが深い町です。
「お茶の京都」にちなんで、3つのお寺(正法寺、神應寺、善法律寺)が紅葉のこの時期に一斉に公開されます。

11月26日出かけて来ました。

  まずはこちらから


<善法律寺>

善法律寺は律宗の寺。
建物は本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天堂が配されている。本堂は、石清水八幡宮の社殿の材を用いて建立したものだそうです。
寺は石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間(1257~1259)に私邸を喜捨し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山したことに始まります。
室町時代には、善法寺通清の娘良子が将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満の母となりました。義満は神社信仰に篤く、特に八幡宮を崇敬したため、20数回も八幡を訪れているそう。以後の義教、義政も足繁く往来し、将軍家と善法寺家との密接な関係が続き、律寺も足利家の庇護を得て隆盛を極めました。
良子は善法律寺へ自分の好きな紅葉の樹をたくさん寄進したそうで、別名「紅葉寺」と呼ばれています。

表門(高麗門、江戸時代後期、京都府指定文化財)をくぐると


庫裡が見えます。



本堂

初めて一般公開されました。

八幡大菩薩(僧形八幡)

明治元年(1868)に神仏分離が行われるまで石清水八幡宮の殿内に
安置されていたようです。
等身大の座像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ平安時代の作。

不動明王像


愛染明王像


本堂内は撮影不可なので、パンフレットより。


本堂のお参りをすませ、庭などを拝見。



丸窓から庭を眺め・・・





亀の形に切られた窓がありました。


境内の様子。

大西坊墓塔











  







善法律寺を後にして、東高野街道を石清水八幡宮一の鳥居方面へ。

< 本妙寺>

華宗に属する日蓮宗真門派本隆寺末寺。
開山は室町時代の末期(1570年ごろ)。
日蓮上人像を安置。
松花堂昭乗を養育した竹内伊予守の寺。
所蔵の雲版は京都府指定文化財 。

<松花堂泰勝寺(しょうかどうたいしょうじ)>

松花堂旧跡を示す石柱が立っています。
松花堂昭乗(江戸時代の初期の僧侶、書家、茶道家)のお墓があり、
宝物館や日本百席のひとつに数えられている
茶席の閑雲軒などもあります。

<相槌神社(あいづちじんじゃ)>

石清水八幡宮の、参道東側入口、「七曲り」といわれる急な坂道の
登り開始地点にあります。
元は八幡宮境内の末社であったようですが、現在の場所に移され、
独立の神社となりました。


鳥居の扁額には「三条小鍛冶 相槌神社」と書かれ、平安時代中頃に京都で活躍した名刀匠「三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)」
ゆかりの神社であることが示されています。
三条小鍛冶宗近は、一条天皇の命を受けて稲荷神の化身である童子と共に槌を打ち、名刀を作り上げたといわれている人物(祇園祭の長刀鉾に付いている長刀を作ったことでも知られています)。
またこの槌を打つときに用いた水が、
神社右手にある「山ノ井戸」の水なのだそうです。


 
<途中で見かけた空き家>




道端の花等を見ながら・・・。






橋が見えてきました。


<安居橋(あんごうばし)>

大谷川が放生川と名を変える八幡平谷の買屋橋から京阪電車踏切手前の全昌寺橋までの約200メートルの間の中ほどに架かる
反り橋を言います。
江戸時代の放生川には、今よりも多くの橋が架けられており、川上から「五位橋」「安居橋」「六位橋」「高橋」という順番に架かっていたそうです。


広場には
< 能蓮法師歌碑>

「石清水清き流れの絶えせねば やどる月さえ隈(くま)なかりけり」

この歌は 文治元年(1185年)九月に催(もよお)された、
石清水八幡宮の歌合せにおいて、能蓮法師が詠んだもので、
千載和歌集(せんざい わかしゅう )に収められている。

現代語訳は「 石清水八幡宮のふもとを流れる放生川の清らかな流れが絶えなければ、川面に映る月も影がなく、美しく照り映えるであろう。」

<高良神社(こうらじんじゃ)>

八幡男山の西の麓に鎮座。
貞観3年(861)、大和大安寺の行教によって建立された古い神社です。
同社は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いによって消失、
が、明治15年(1882)に再建されました。
石清水八幡宮の摂社で、八幡の産土神(うぶすながみ)です。

社殿


御神木

クスノキ科、樹齢700年。



石清水八幡宮一の鳥居、右の道沿いにいくと、神應寺です。

<神應寺(じんのうじ)>

山門を振り返り

右に折れ、さらに階段が続きます。

境内に入ると「紅葉まつり」の立て看板が。
   
貞観2年(860年)、石清水八幡宮を勧請した行教建立の寺で、はじめは「應神寺」と言いましたが、天皇の号をはばかり「神應寺」と改められたそうです。
文禄年間(1592~1596年)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神官を望みましたが、神社側は恐れて命に服さず、秀吉は機嫌を損ねましたが、神應寺住僧の機転で、征韓の首途にはまず應神天皇の御寺に参詣すべきと進言。秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進しました。

本堂




薬師如来



本堂内は撮影不可なので、パンフレットより。

境内の様子












アーコレイド櫻

イギリスで改良された櫻だそう。


亥(い)の子餅


善法律寺が、寺を創建した善法寺家ゆかりの和菓子「亥の子餅」を、近くの和菓子店「走井餅老舗」の協力で再現。特別公開に合わせて本尊の八幡大菩薩像にお供えし、走井餅老舗店舗で販売されました。

亥の子餅は旧暦10月最初の亥の日に食べるお餅ですが、ゆかりの深い石清水八幡宮の祭神「応神天皇」が敵に襲われそうになったとき、イノシシに助けられたことに由来するそうです。

イノシシの肉を表現する赤飯の餅をあんでくるみ、クリとササの葉を載せる。クリは骨、ササの葉は牙を表わしています。

キリンさんトラック



家電の納品。電線にひっかからないようにうーんと「首」を伸ばして・・・。
どうやら、二階の窓から入れるようでした。


道路上で・・・。

消火栓蓋

黄色地に水玉模様、中央に「消火栓」の文字、上に市章入り、
受枠はV字模様の四隅が丸みを帯びた角型消火栓蓋。

汚水管マンホールの蓋

「安居橋」と市の花「サツキ」です。


八幡市 市章。道路舗装とマッチ。

八幡市市章
町村合併10周年を記念し、広く公募して制定しました。周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、中央の2羽の鳩は、八幡市の頭文字である「八」をかたちどるとともに、平和と友愛の精神を表現しています。竹と鳩は、八幡市にゆかりの深いものです。(昭和39年10月1日制定・昭和52年11月1日、市制施行に伴い町章を市章としました)

男山と安居橋です。

T字路等道の分かれるところ等に埋め込まれています。


説明は、八幡市観光協会、パンフレット等を参考にしました。




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