ミロク式

ミロクレコーズの雑記。

安酒には浪漫がある

2013-07-30 01:07:26 | 日記


文章を書くのはあまり得意ではないが、近い志をもっているレーベルと仕事をして、そのレーベルに声をかけて頂き自由に文章を記せるというのはとても嬉しい事なので筆を執る。


何から書けばいいかと迷う所ですが、とりあえず自己紹介を。
まず、僕が好きなものは漫画、大衆文学、テレビ番組、ゲーム。音楽については置いといて、煙草はゴールデンバットを吸う。
それとお酒にビールにラム。あと散歩が好き。

食べ物についてはあまり好き嫌いは無いがその中でも、と言える好物はみそ汁、蕎麦、カップ焼そば、梅干、オムライス、寿司。
順位をつけるとしたら一位は何だかんだ茶碗によそった湯気の立つ白いご飯。
食べ物について考えればいつでも幸福な気分に浸ることができる。
ご覧の通りいたって平凡な好みなので日常的な楽しみに困ることが無い所が恵まれているなと思う。

好きな物のエピソードなどが沢山あるのであれもこれも書きたいが、今回は笑える話とかはせず食べ物を好きな理由について詳しく書きたい。

想うだけで幸福になれるほど僕が食べ物を好きな理由は、多分美味しいだとか不味いという感覚を世間の流行、意向に関係なく自分の素直な尺度で感じれるからだと思う。食事をしている間とても正直でいられる気がする。

食べ物を題材にしたテレビドラマやグルメ漫画なんかも好きでよく見る。しかし沢山あるグルメコンテンツを見る中で残念だと感じる事がある。それは登場人物が格好よく、可愛く食べる時だ。
それはそれで見たい人がいるのでそのコンテンツを否定するのは検討違いだと思う。だけど、全然美味しそうじゃない。
素直に美味しければそんな角度でスプーンを口に運ばないし、わざとらしく手で口もとをぬぐったりしない。一口食べて身の丈に合わない飾ったコメントをしたりもしない。
繰り返しになるがキャラクターや脚本を見せるコンテンツを否定している訳じゃあない。
これはただ食欲という観点のみから見た暴力的な話だけど、食指を誘う食べ物、それにまつわる話、美味しそうな食べ方をされるから僕もお腹が空いて、うまそうだなぁ、と幸せな気分になる訳で、キャラクターに焦点を当ててこれは美味しい、と言ったからといってキャラクターが可愛い格好いいとしか思えないという事だ。

それはさておきミロクレコーズの雑記という事でミロクレコーズの話になる。

僕がミロクレコーズと一緒に何かをしたいと思うのは社長の大澤くんのシュミがとても正直だからである。
以前大澤くんちで二人で飲もうとなった時、あんまりお金無いけど沢山飲める方がいいかなと思い西友で一番安い合成清酒の鬼ころしを買って行ったら大澤くんは全然飲まなかった。買って来た責任を果たそうとべろんべろんになるまで飲んで、後日その話をしたら鬼ころし大嫌いと堂々と言われた。

音楽のシュミもそうだし、何よりもミロクレコーズをどうしたいか話を聞き、言葉だけじゃない働きを見ていてつくづく思う。
だから、世間の流行、意向に関係なく素直な尺度、さらにその上の思慮で物事を判断する大澤くん、ミロクレコーズの仕事が楽しみだ。
なので僕はミロクレコーズと仕事がしたいと思う。これからの仕事を考えると胸が躍って幸福になる。
それは、白いご飯の事を考えるのと同じくらい。

…と、まぁお後もよろしい所で食べ物の話ばかり書いてお腹が空いたので自己紹介おわり。
下手な文章だけど読んでくれてありがとう。
次お声が掛かる事があれば愉快な話をしよう。
それでは僕の初回はこれで。
またね。

ナカザワドアノブ

本歌取り精神

2013-07-08 23:26:34 | 日記

こんにちは、おおさわです。
さっき大瀧詠一の高田渡をゲストに迎えてのスピーチバルーンを聞いた。聞いてからミロクレコーズのやりたいことがはっきりと言葉になりそうなのでここに書くとする。

日本人は中国から文字を輸入して、さらに平仮名というふうに加工して文字を得た。さらに中国の漢文を「書き下し」という技で以て中国人でなくても読めるようにした。この一連の流れはとてつもない作業で、昔の人は偉大だなあと思う。中国に対して意固地になって「オリジナルの文字を作ろうぜ」とはならなかった。かといって卑屈になって「使わせていただいております」という態度とも思えない。そこに文字がある。なんか画数多いから崩して使っちゃおうという態度に僕は見える。とても主観的だけれどそう見える。
 
 文字が入ってきた時のような、自分にないものに対する吸収能力というのは音楽をやる上でもとても重要で、吸収という作業にどれだけ意識を向けて作品を作るかでかなり面白いものができるのではないかと思う。

 雑誌とかでよく見る、自分の個性を出したいとか、オリジナリティーとか言った言葉は本当にうんざりしてしまう。しょうもないミュージシャンがアーティスト気取りでそんなことを言ったりしているが、そういう思考の浅いやつに限って何年か前の人気バンドの劣化版のような曲ばかり。こいつぁ本当に思考力が欠けているのではなかろうかと思ってしまう。

 完全にオリジナルなんて無い!

ビートルズだってR&Bがもとにあるわけだし、はっぴいえんどもちゃんとしたバックグラウンドへのまなざしがある。マイケルジャクソンのBADにある「シャモア~」という合の手にもステイプルシンガーというバックグラウンドあるのだ。
天才であるからというだけでなく、それまでの歴史を体内に入れて作っているのだ。

今の日本人はアメリカのまねをして、パクるということに対して盗作だとか何とか敏感に言っているけれども、こんなにうまくパクることができる民族はいないんじゃないかと思う。他の文化知らないからそういっているだけだが。
まず短歌の本歌取りという技がある。もともとあった曲を抜粋して自分の詩に組み込むというものだ。パクって元の詩をリスペクトしつつ自分というフィルターを通し濾過して言いたいことや感情を表現する。大瀧詠一先生は本歌取りがめちゃくちゃうまい。
 ミュージシャンたちよ本歌取りの精神をもっとだせ!


じゃあいつまでたっても進化しないじゃないというかもしれないがそれは違う。
支流がたくさん合流して一つの河になってゆくように、自分がお手本にする音楽にその時代の流行りなどが支流として合流して新しい形が出てくる。
あるいは絶えず伝言ゲームを繰り返してもともとの形を変容させてゆくといってもよい。
この作用が新しいものの出現の構造だ。

話がそれるが、僕はちんどん屋が好きだ。ちんどん屋にもやっぱり川のように合流を繰り返して今に至っている。もともと管楽器などは使わなかったのだが、軍楽隊の人や、サーカスの楽士たちが混じるようになって管楽器が入るようになったらしい。三味線でやるようなお囃子の曲を管楽器が入ってなおやるので妙な雰囲気が出ている。

話を元に戻そう。
高田渡が明治期の演歌をアメリカのカントリーに乗せて歌ったように、もともとあったモノとモノを(それが何かしっかりと把握したうえで)編集するというのがやっぱり面白いものになる。
自分がしているのが何のまねかを把握しないまましたり顔でオリジナルですというのは本当に愚かしい。

ミロクレコーズでは本歌取りのうまい、面白い編集能力を持った音楽士の作品を出したいなあと思う。






読み返してみると本当に稚拙な文だなと悲しくなる。言いたいことの4割くらいしかアウトプットできていない。だけどブログ書くうちにうまくなると思うのでみなさんどうぞ耐えてくださいね。

あと、ナカザワドアノブのCDをディスクユニオンに置いてもらえることになったのでみなさん買ってねー。赤字なので人助けだと思って。功徳を積めば浄土に行けるので。


恥ずかしいポイント

2013-07-01 23:50:36 | 日記
みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕は元気にやっております。普段からぼーっと過ごしているのであまり書くネタがなく筆が滞っていました。

今日もいつものようにコーヒーを飲みながらぼーっとしていると、近くに座っていた大学生集団が聞いていてとても恥ずかしいことを話していました。内容はたぶん色恋沙汰のことだったような気がします。ないようはあまり覚えていなのですが、なんだか文化圏の差異すら覚える会話でした。僕は恥ずかしくてよくそんなこと言えるなーと感心してました。きっと恥ずかしいポイントの違いです。


 そこで今回は「恥ずかしいポイント」について書こうと思います。

 これも今日あったことです。僕が道をてくてく歩いていると学校から男の人が颯爽とスケボーに乗って出てきました。髪長くして、黒縁メガネにリュックといった少しいかした人でした。その人は学校の門を出ると華麗に降りてスケボーを跳ね上げキャッチしてすたすた歩いていきました。彼の顔を見ると少し得意気な顔をしていました。
僕は何でか直感的に「あ、だっせーこいつ。」と思いました。個人的な恨みは全くありません。なぜだろう。何でだせーと思ったのか考えてみました。

僕は小学校の時かっこつけマンでした。でも友達に「うわーこいつかっこつけてるー」とか言われるのがとてつもなく恥ずかしく、穴があれば入りたく思っていました。そのためか、鏡を見ているのを人に見られるのも恥ずかしくて嫌です。

中学高校でみんな色気づいてきて格好つけるのはみんなある程度当たり前の年頃になっても、僕は小学校の頃の感覚が抜けなくて格好つける=恥ずかしいこと。だとおもっていました。
だから今でも格好つけてる人を見ると「うわー恥ずかしいなこいつ」と感じてしまうのです。だから僕にとっては原宿渋谷などは恥ずかしい人の集まりです。変なところに恥ずかしいポイントができてしまいました。おかげで読モにモテるような格好のつけ方ができません。

しかし先ほどかいたスケボーマンはなんで恥ずかしいにとどまらずダセーとなったのでしょうか。

格好つける=恥ずかしい=ダセーという構図に気が付いた事件が高校三年のときにありました。
高校三年の文化祭の時、文化祭の実行委員の男の子に日頃から格好つける人がいました。

みんな夏休みも学校に通い文化祭の準備に精を出し、本番も少々のトラブルもありながらも何とかのりきりました。本番終了後最後のミーティングが行われました。

そこで僕にとっての事件は起きました。

その実行委員会の男の子が目頭を押さえスピーチを開始したのです。スピーチの内容も学園ドラマさながら、とてもバカみたいなことを言っていました。「ありがとう・・・なんか少しケンカとかもしたけどおれはみんなでこの劇を成功させられてめっちゃうれしい・・高校最後のクラスみんなと同じでよかったよ。」など虚飾なしでこのようなことを言っていました。本人は格好つけて喋っています。目頭を押さえながら。
少し感傷的になって泣いていた女の子もあまりの恥ずかしさに少し興醒めしてます。僕は本当にこんなことがあるのかと思わず失笑。格好つけるのってダッセー。くそダセー。と思いました。

 彼の恥ずかしいポイントは全く読めません。彼の恥ずかしいポイントはあまりにみんなとかけ離れていてダサいの域に行ってしまったのです。

少し極端なものですが、僕はこれ以来格好つけに付随する恥ずかしさ、ダサさにかなり敏感になっています。
僕は恥の文化に生きていますね。この事実もまた恥ずかしい。


もう一つ恥ずかしいポイントの違いについて。
大学一年生はひとりで学食で飯を食べるのを嫌がる人が多いようです。「ぼっち飯」というらしいです。
同じクラスの人に一人で飯を食べているところを見られるのが恥ずかしいそうです。
僕にはその恥ずかしいポイントが無く、なにが恥ずかしいことなのかつかめません。もっとも、学年が上がるにつれて恥ずかしいと思っていた人も慣れてくるようですが。

なんか他にもいろいろあるのですが、書くの少し疲れたのでこのへんで終わり。

また今度。