Prologue
こんなことを書き連ねると自慢げに受け止められてしまうのだろうか、それともお馬鹿な女の物語になるのだろうか、どちらも不本意なのだけれど…。実は昨年末のことだった。暮れもいよいよという三十日の夜、突然電話が鳴った。電話は実家の母からで、なんでも兄嫁が突然ぎっくり腰になってしまった、今はとりあえず横になってはいるが、まるで動けないようだと言う。こちらだって、明後日に迫った元旦を前に、やっておかなくてはならないことがまだ残っている、とはいうものの放っておくわけにもいかない。とにかく行ってこいよ…と主人、その夜は遅くまでわが家の残り仕事に専念しておいて、一夜明けた大晦日の朝早く実家に駆けつけたわたしだった。
なるほど兄嫁さまは陸に上がったアシカ同然、ただうつぶせになったまま身動きできないと言う。春ちゃんごめんね…と情けない声。それでも大掃除はほとんど終わっていた。突然のぎっくり腰で、だからやり終えることが出来ずそのままにしていると言う換気扇、見ればフードの中にぽっかり四角な穴。まかせておけ…ってほどの意欲もなかったけれど、とにかくスカーフで髪を覆ってから脚立を登ってフードの中に頭を突っ込んだ。
フードの中も、シンクの脇に置かれたままのモーターの部分も、その他の部分も、幸い兄嫁がすでにきれいに仕上げた後だった、こいつはせめてものラッキーってもんだ。両手で機械をフードの中に差し上げて、北風が吹きこむ四角な穴にガシャンとはめ込んでからネジをしっかり締めた。羽根を取り付け、白い枠をはめ込み、コードをコンセントに差し込んでからフィルターをパチンとセット、これで完了、なんたってこんな古いタイプの換気扇、昔からすこしも変わっていないから分解と組み立てはお手の物だった、試運転の結果も上々、フードの周りのタイルを念のためにマジックリンで磨き上げておいた。
お手伝いさんの斉藤さんはもうすでに暇をもらっていて姿がなかったけれど、その後の元旦の準備は母があらかた整え終えていたし、門前には松も飾ってあった。最後の仕上げにと家中に掃除機をかけて回り、床の間の掛け軸を正月らしいものに掛け替え、年越しそばや元旦のお雑煮に使う輪島塗のお椀を丁寧に磨き終えたとき、馴染みの小料理屋からおせちのお重が届いた。それで年越しの支度はすべて終わった。父も兄もまだ帰ってきていなかったけれど、久々に母と二人っきりで遅い午後の一服ということになった。
茶箪笥から茶筒を取り出そうとして、ふとその上に乗せられた一通の封書に目が止まった。中身が多いらしく厚みのあるその封書には白い付箋が貼られていた。封筒に書かれた住所が間違っていたために、郵便局で住所を調べて書きなおした付箋のようだった。たいした意味もなく指先で付箋を持ち上げてみたら、そこには旧姓ながらわたしの名前が書かれてあった。
手に取って封筒を裏返した。差出人の名前には覚えがあった。このわたしがまだ女子大生のころのことだったのだから、かれこれ二十数年も前のことにもなろう、今ではすっかり記憶から消え去っていたけれど、こうしてあらためて目にするととても懐かしい名前だった。春…、母の呼ぶ声にあわてて封書をエプロンのポケットに押し込むと茶筒を取り出した。
あの彼との最初の出会いはなんだったっけ…、テレビが恒例のにぎやかな紅白歌合戦から一転して静かなゆく年くる年に変わり、やがて港の船から一斉に汽笛が吹き鳴らされて年が変わり、食べ終えた年越しそばの後片付けも終わって、ほんの数時間の眠りにつく、その前の暖かいベッドの中でわたしは封筒の中身を取り出しながら考えていた。
Chaper 1
ああ、そうだった…、電車の中でのことだった。女子大の校舎は横浜にあって、だからその朝は東京からの下りの特急電車に乗っていた。先行の電車が遅れているとかで、乗車していた電車も何度も速度を落としたり、ときには止まってしまったりしていた。車内は混みあっていてドアのガラスに押しつけられながら、のろのろと通り過ぎる駅のホームをぼんやりと眺めていたわたし、車内の人いきれのせいだろうか、突然気分が悪くなりはじめた。あ、貧血になる…、そう思ったとたん、目の前に金色の星が飛び交いはじめた。
そのころのわたしは、なにかというとこうした一過性の脳貧血に悩まされていたものだった。たまらず車内でしゃがみこんでしまったわたし、周囲の乗客たちがざわめいた。苦しくてどこかに座りたかった。と、そのとき、すぐ近くで誰かが席を立ったのを感じた。別の誰かに支え起こされて譲られた席に倒れ込んだ。ややあって不快感は峠を越しはじめたようだった。窓ガラスにもたせかけた頭が割れるように痛かったものの、意識は次第にはっきりしはじめた。
ハッとしてあたりを見回したのだろう、それで意識はしっかりもとに戻った。誰かから差し出されたハンカチを素直に受け取って額の冷汗を抑えた。気分、良くなってきたみたいですね…、ひとりの青年が顔を覗き込むようにして小声でささやいた。席を替わってわたしを座らせてくれたのは、ほぼ同年代のこの男性だと分かった。ええ、有難うございます、もう大丈夫です…、そんなやり取りがあったことだろう。
どうします、次の駅で降りますか…、次は…、平和島です…、ええ、一旦降りてみます…、たしかそんな会話があった。電車は間もなく平和島駅のホームに滑り込み、わたしはふらふらとホームに降り立った。ひんやりとした空気が美味しく感じられた。ふと、肩に手が回されて、それではじめて、青年もわたしと一緒に降りたことを知った。
医者に行きますか…、あ、いえ、もう大丈夫です、ほんとうに有難うございました、あの〜…、えっ…、あなたはここでお降りになるんだったんですか…、いや、そうじゃないんですが、なんだか心配で…。このわたしのことが心配で一緒に途中下車したのだと彼は照れ臭そうに言った。気分はずっと良くなっていたけれど、どこか落ち着けるところにゆっくり座りたかった。そうだった、あのときわたしはその青年にお茶しませんかと誘ったのだった、せめてものお礼のつもりもあった。駅を出て近くの喫茶店に入り、わたしが差し向かいの席を選んだ。
青年の名前は、ここではあえて秋山謙一ということにしておこう、某大学の四年生だと自己紹介をした。そうだ、思い出した…、あのときのわたしが女子大の二年生の時のことだったのだ。秋山と名乗るこの青年は、たとえば大学間の合コンなんかに出席する名の通った私立大学の男子学生たちとはどこか雰囲気が違っていた。まず着ているものが違っていた。彼が着ているブレザーはいい色のものだったけれど、こればかりを長く着続けているらしく、もはやかなりくたびれて見えた。
スリムな体型、日焼けした顔は頬がこけていて濃い無精ひげもはっきりと見て取れた。だが、それほど不健康そうな顔でもなかった。ただ、時折ふと影を感じさせる眼差しだけは気になった。髪は、あれはリージェントと言うのだろうか、前髪を残して側頭部をムースだかポマードだかで固めた、ひと昔前には流行したらしいけれど、そのころではさすがに見かけなくなっていたヘヤ―スタイル、だが、それでもこの彼にはそれなりによく似合っていた。そして、彼全体がどこか大人っぽく、お坊ちゃま学生たちとはひと味もふた味も違って見えた。
それが秋山謙一との出逢いだった。それからどういう経緯があったのだろうか、それ以降のわたしは、彼に呼び出されれば、何度かに一度ぐらいの割合で、待ち合わせ場所にしていた新宿のプチットという小さな喫茶店に足を向けていた。あの当時と言えば、まず家庭教師のバイトがあった、バドミントンのサークルにも顔を出していたし、当時はたまたま、兄の友達のひとりのM君との公認のお付き合いもあったからだった。
とは言うものの、この彼、秋山謙一と会っていてつまらないと思ったことは一度もなかった。彼はとても博学だった、どんな話題にもそれ相当の知識を披瀝した。薄暗い喫茶店の中で、冷めてしまったコーヒーを前にして彼なりの薀蓄を熱く語る、そんなときの彼の眼にはいつも光が宿っていた。良く話しては良く笑う彼だった。だが、その表情には、いつもその奥になにか影があるような気がしてならなかった。
そんなある日のことだった、彼のお腹がグ〜と鳴ったのに気がついた。えっ…、ごめん、聞こえちゃったか、恥ずかしいな…、彼はあきらかに顔を赤らめた。それでも、彼のお腹はそれからも鳴り続けた。お腹の調子が悪いの…、うん、いや、そうじゃないんだ…、たしか、彼はそれだけしか言わなかった。今にして思えば、われながらお馬鹿な質問だった、だが、さすがに、ややあってこの鈍い頭も彼がひどく空腹なのだという結論にたどり着いた。
そういえばわたしも朝からなにも食べてなかったんだわ、なにか食べましょうよ…、いや…。わたしの誘いに彼がはっきりとためらいを見せたことに驚いた。当時のわたしには、彼が食事をするだけの、ひょっとしたらわたしの分と二人分の食事代を支払うだけのお金を持っていないのだ…ということを見抜けなかったのだ。それからどうしたのだろう、あの日は何も食べずに別れたのだったろうか、それでもとにかく、彼はいつもお腹を空かせているのだ…ということだけは理解できた。
Chapter 2
それからというもの、会うときにはかならず食事に誘うことにした。もちろん代金はわたしが払うことにしていた。ラーメンと餃子とご飯だったり、大盛りのスパゲッティやカレーだったり、ご飯とキャベツがお代わりつきのカツ定食だったり、メニューはその時次第だったけれど、彼は一度も断らなかった、そして良く食べた。不思議なことに、にもかかわらず一度もお礼の言葉を口にしたこともなかった。
この彼には、女のわたしに食べさせてもらいながら、卑屈さとか屈託といったものが微塵も感じられなかった。でもそれで良かった。最初からお礼の言葉を期待していたわけではないし、お礼の言葉こそないものの、いかにも満足したような彼の表情、さも元気が出たと言わんばかりのシャイな笑顔、わたしにはそれだけで十分だった。それを見たさに、わたしはバイトで得たお金をつぎ込んだ、それでもすこしも惜しいとは思わなかった。ただ、かねてからの疑問が消えたわけでもなかった。
なぜ…。たぶん、わたしから彼にそう聞いたのだろう、きっとそうに違いない。彼は東京のさる公立の大学に合格した、家は貧しかったが、それだけにやがては大成したいと思っていた。そのためのまともな教育を受け、しかもちゃんとした企業に就職するには、どうしても東京の大学でなくてはならないと思っていた。国立の大学ならもう少し学費も安かったろうけれど、国立大学には惜しくも合格しなかった。だから今の公立大学に入学した。だが、九州から上京して東京で生活するのは想像以上に大変なことなのだ…ということに、上京して生活をはじめてから気がついた。
いや、親父はもうずっと前に亡くなってしまって、郷里にはお袋が一人で暮らしている、小さな商店を切り盛りしているお袋からの仕送りも多少はあるが、それはほんのわずかなもので、もちろんそれだけでは足りない。授業料など学費の一切は伯父貴が出してくれているが、問題は生活費だ、バイトで賄ってはいるんだが、こいつが思ったほどは楽じゃない…、彼はずいぶん詳しく身の上を語った。
だから、時々食事を抜いているんだ、いや、抜かざるを得ないのさ。バイト料が入る直前ともなると、ポケットの中には硬貨ばかりがほんの幾つか、安さが取り柄の学食の定食が食べられればいいのだけれど、バイトがあってはそれも利用できない。いよいよとなると菓子パン一個とか、肉屋の店頭で揚げているコロッケ一個とかで一日を過ごすのさ、でもな、これが美味いんだよな…。彼ははにかみながらそう付け足した。お金がなくて食事を抜く、それまで何ひとつ不自由というものを経験したことがなかったこのわたしにも、それがどれだけ辛いことかだけは分かる気がした。
彼、秋山謙一、わたしの何だったのだろう。恋人…、違う、恋焦がれていないもの…。だったら男友達…、それも違う、男友達ならもうわたしにはM君だとか別のきまった人が居るんだもの…。まして、M君たちのように価値観が同じと言うわけでもなければ、一緒に何かを楽しむといった感じもないことだし…。知人…、違うなあ、そんな余所々々しい関係でもないんだよね…。それじゃ何だったの…。母親役…、パトロン…、ボランティア…、う〜ん、そこまでは言ったら言い過ぎでしょうね…。
だったらこうなんじゃないの…、チーこと友達の千絵があるときこんなことを言ったものだった。チーは、わたしがこんな秘密めいたおかしな関係を打ち明けていたただひとりの親友だった。結局さぁ、その彼ってさぁ、秋山謙一って人はあんたのペットなんよ、裕福な家庭に育ったあんたは飢えた彼にエサを与えて自己満足に浸っているんだわ。でもさ、あんたは知らないだろうけど、彼にしてみれば、ひょんなことから都合のいい女を見つけられてラッキー、この女さえうまくあしらって貢がせてさえいれば、当面口が干上がることもない…、いいかい、お春、どんなに誠実な人間だって腹が減ってたら礼節なんて二の次のものになるんだからね…。
失礼だわ、彼はそんな礼儀知らずじゃないわ…、でも、結局はそうなのかも知れない。そうまで言われても返す言葉がないんだもの。でも、それは彼に失礼だと言う前に、この自分にとっても切ないことだった。でも、それならそれでも良かった。とは言うものの、彼と会うにはわざわざ新宿か渋谷あたりまで出向いて行かなくてはならない、それは結構手間と時間のかかることだった。
彼と出会ってからしばらくの間はずっとこうした付き合い方が続いていた。春が過ぎて季節は初夏にさしかかり、やがてどんよりと蒸し暑い梅雨の日が続くようになった。彼はバイトで生活費を捻出しているという、彼のバイト先はさる二輪車メーカーの協力会社、早い話が下請けの工場で、彼はそこでプレスの仕事をしていると話していた。だが、彼に与えられた仕事がかなり過酷なものらしいことは彼の指先や爪の汚れから想像できた。
あれは単なる興味本位だったかもしれない。ある日のこと、自分の手で作った弁当を携えて彼が勤めているという会社を訪れたことがあった。会社の名前は彼から直接聞いていたし、所在地は社名を頼りに電話帳で調べたらすぐ分かった。中小企業だと聞いていたが、会社はなるほどその程度の規模のようだった。腕時計を確かめて間もなく正午になるころ、気後れしながらドアを押した。バイトの秋山謙一に面会したい…と告げると、事務員の女性はすぐマイクに向かった。ちょうどそのとき終業のベルが鳴った。工場の奥から聞こえていた騒音が一気に静まった。
事務員の女性が事務室の脇の小部屋にわたしを案内してくれた、そこは応接間とは言い難いほど雑然とした部屋だったが、テーブルと幾客かの椅子が置いてあった。椅子を引いて腰を下ろしたとき、ドアが開いて作業服姿の彼が入ってきた。意外だった、彼の顔に笑顔がなかった、彼はわたしの顔を見てはっきりと不服そうな表情を浮かべた。
なんだ、どうかしたの…、なんだなんて、わたしお弁当を持ってきたのよ…、それを聞いた彼の表情はそれでも幾分和らいだ。そうだったのか、そりゃどうも、でもな、もうそんなことはしないでくれないか…、彼、わたしの手から真新しいハンカチで包んだアルミの弁当箱を受け取った、だが、この部屋で食べることはできない様子だった、彼は包みを手にして部屋を出て行き、わたしは事務員が居なくなったカウンターの前を通って外に出た。わたしの分のお弁当、一緒に食べようと用意していた、それはまだバッグの中に残っていた。
Chapter 3
あのとき、なぜ彼が不満そうな表情を見せたのか、いまでも答えを見つけられていない。照れていたのか、せめてもの男性ならではのプライドだったのだろうか、同僚や正社員たちに遠慮があったのか、彼の周りに妻でもない女の影があってはまずかったのか、それとも…。とても知りたいその理由、だが、答えが怖くて彼に聞くこともついになかった。
それからしばらくは、なんだか彼に会うのがためらわれた、だから会わなかった。夏になって暑い日が続くようになった。夏休みのわたしには合コンの下準備という仕事があった。ほかの大学の幹事さんたちに電話でアポを取っては、指定された時間に指定された場所まで汗を流しながら出向いては企画の内容を説明する、まるで保険の勧誘をしている生保レディさながらだった。そんなある日、彼から電話が入った、今夜の列車で帰省するのだと言う。
今夜の列車、それは新幹線ではなかった。深夜に東京駅を出発する在来線の普通列車で、しかも行先は岐阜県の大垣止まりだった。大垣には明日の昼ごろに着く、そこから先はまた別の列車に乗るんだよ、こんな方法だと郷里に着くまで一昼夜かかってしまうんだが…、おくに(郷里)でなにかあったの…、それに、旅費なんか大丈夫なだけ持ってるの…、わたしにはそれが心配だった。大したことでもないらしいんだが、お袋が入院したみたいでね、旅費は大丈夫だ、バイト料前借してきたからね…こともなげに彼はそう言った。
出発の時刻まではまだ何時間もあった。わたしは八重洲口のデパートに彼を誘い、閉店前の混みあった食料品売り場で彼の道中のためにかなりの量の食べ物やお酒などを買いそろえた。チーが言っていた…貢ぐ女…の言葉が片時も頭から離れなかった。それから二人は喫茶店を探した。入ったのは、あれはたしか八重洲地下街にあったルノアールだったと思う。
この前はごめんなさい、わたし、余計なことをしてしまったんでしょうね…、先に謝ったのはわたしだった。いや、オレも悪かったよ、せっかくオレのために…。お互いに謝り合ったけれど、それ以上深い話になるのは恐ろしかった。でも、まあ、彼からこうして、ぜひ会いたい…と呼び出されたのだし、それは嬉しいことだった。それ以上の話もなく、発車の時間は深夜のこととて、私は早めに彼と別れることにした。立ち上がろうとしたそのとき、彼はテーブルの上のコーヒーカップを横にずらすと身を乗り出して私の手を痛いほど握りしめた。
街の明かりがもはや少なくなりかけた時刻、なのにまだとても暑かった。彼はわたしの行為を喜んでいたのだ、それを知ったことは嬉しかった。もうそれだけで十分だった。なのになぜかとても寂しかった。貢ぐ女…、わたし、あの彼を好きになっているのだろうか…。
翌朝、さっそく親友チーに電話をかけて昨夜の彼とのことを話した。おやおや、そうかいそうかい、そりゃ良かったね、まあ、あんたみたいなお人好しのお嬢には満足できたでしょうよ。でもさ、それじゃなにかい、エラそうに、まとめて一度のシェークハンドで済ませたってわけだ。まあ、いいんじゃない、あんたならお金に事欠くこともないんだろうから、しっかり面倒見てあげなさいよ。でもさ、食い物にされないようにだけは気をつけなよ、あんたの彼氏じゃないんだよ、めちゃ甘いのはしかたがないとしても、気持ちだけは引き締めておきなさいよ…、チーにあっさりとそう言われてしまった、彼女が言う通りだったかもしれない。
夏も盛りになり、緑の少ない東京の下町でも朝からセミの大合唱が騒々しかった。兄が仲間たちと計画したキャンプに連れて行ってもらったのもそのころのことだった。兄も兄の友達もみんな同じ医科大学の学生だったけれど、一緒に参加した女性たちはみんな別の大学の学生だった。奥多摩のキャンプ場にテントを張り、男子はバーべーキューの炉の準備、女性はお定まりのカレーライス作り、みんなそれぞれ甲斐々々しく手を動かしていた。
両脚の間にバケツを挟んでじゃがいもの皮を剥いていたわたし、そのとき突然、お久しぶりですね…と声をかけられた。顔を上げたらいつの間にかM君がわたしの前に立っていた。M君は、こうした常連メンバーのひとりで、そのころ兄公認でお付き合いをしていたのだった。スレンダーな体型と繊細そうな細く長く白い指、額にかかったストレートな前髪、どこかシャイな感じがする彼だった。以前は毎週のように会っていたのだったけれど、あの秋山謙一が現れてからというものは月にわずか一度ぐらいしか会っていなかった。最近はとてもお忙しいみたいですね、なかなか会ってもらえないけれど、また、ぜひ時間を作ってくれませんか…、M君はあくまでも丁寧で上品な青年紳士だった、だが、そんな彼の言葉の中になにか猜疑心といったものがありはしないかと、わたしはとても不安になった。
Chapter 4
そろそろ夏休みが終わろうかというある日、秋山謙一から電話がかかってきた。聞けば、九州の郷里に帰っていたのはほんの数日だけのことで、すぐまた上京してバイトに精出していたと言う、だったら、もっと前に知らせてくれればよかったのに…と愚痴を口にしたことを覚えている。きっと前借りのバイト料か郷里で誰かからもらったお金で、とりあえず腹は満たせていたのだろうと、皮肉な気持ちがゆっくり頭の中を通り過ぎた。
なんだかずいぶん長い間会わなかったような気がした。そう言えば幾分顔色が良くなっていたし、多少はふっくらして見えた、そのせいか、これまで、時折ふと感じていた荒んだ表情がすっかり消えていた。久々の郷里は彼の心をしっかり癒したのだろう、とにかく元気そうだった。オレさ、就職が正式に決まったんだ…、開口一番彼はそう言った。大阪に本社がある化学プラント関係の会社で、そこで企画部門に配属されるらしいと彼は説明した。その企業の名前にわたしは記憶がなかったけれど、彼の嬉しそうな表情を見るまでもなく、それはとても喜ばしいことだった。
今日はオレがご馳走するよ、何が食べたい…、おやおや…、彼の口から初めて耳にする言葉だった。何が食べたいって言われても、そうだ、はじめての時に一緒に食べた中華料理店に行ってラーメンと餃子とご飯にしましょうよ…、いいね…、こうして秋山謙一にご馳走になるラーメンと餃子はひときわ美味しいものだった。ねえ、いまさら聞くのも変だけど、謙さんって、下宿どこにあるの…、そのころになってはじめて、彼がどこで寝起きしているのかを知りたくなったのだった。
下落合さ…、下落合、それってどこなの…、高田の馬場さ、山の手線の高田の馬場で降りて、ちょっと歩いた、神田川のほとりのボロアパートさ。早稲田大学の近くなの…、あ、いや違う、早稲田側ではなくて小滝橋の方へ…、ねえ、連れてって…、オレのアパートにか…、ええ…、そりゃいいけど、オレの部屋を見たらまた貧血を起こして気分が悪くなるぞ…。
気分は悪くならなかった、だが、たしかに、それに近いものはあった。彼のアパートは彼が説明したとおり、高田の馬場駅から西に小滝橋通りを幾らか歩き、その先で右折して細く急な坂道を下った先、神田川の護岸ぎりぎりに建てられたモルタル仕上げの二階建てのアパートだった。玄関から一歩踏み込むと突然慣れない異臭に襲われた。狭い階段を上がり廊下を進んだ先、痛んだ木製のドアを引くとそこが彼の部屋だった。
沓脱ぎの部分が小さく四角に切り取られた一畳ほどの板の間とその奥のわずか三畳の和室、それが彼の城だった。長押に渡したロープに彼が自分で洗ったらしいシャツや下着が、それでも一応整然と吊るされていた。布団は部屋の隅に丸めて置かれていて、書籍が直接壁際の畳の上に積み上げられていたが、机は見当たらず、古びた折り畳み式の丸いちゃぶ台と一枚の座布団、盆の上に並べた湯呑やグラス、湯沸しポットと目覚まし時計、調度といえばそんなものだけだった。部屋の奥側にプリント柄のカーテンが引かれた窓があったが、西日がまともにあたるこの部屋の中はたまらなく暑かった。だが、耐えられなかったのは暑さではなく、なんとも粘っこい男の臭いだった。
そんな彼の生活ぶりを、その晩わたしは余さずチーに報告した。ねえ、お春、あんた、もうよしなさいよ、もう手を引いたほうがいいよ、そこから先まで行ったら、お春、あんた、絶対ヤバいことになっちゃうよ…。ヤバいって…、ヤバいよ、お春、アレが止まっちゃったら、あんたどうするの…、そんな〜、そんなことわたし絶対しないよ…、分かるもんか…。
わたしはチーの忠告を無視することにした。それからというものは時々、直接彼のアパートを訪ねるようになった。そんなある日のことだった。たしか、彼のアパートを出たのは日が暮れてからだった、その上に学生相手のお手軽な飲み屋で珍しくお酒が進んでしまって、だから店を出たのはすっかり遅い時刻になっていた。彼はタクシーがつかまるまで一緒に居ると言い、二人して大通りの信号のところに立って空車を待っていた。そのとき、信号待ちで目の前に止まったクルマの助手席に見知った中年婦人が乗っているのに気がついた。
いえ、気がついたのではなかった、先に気がついたのはその女性のほうだった。ガラスを下ろした窓を通して彼女は車内からはっきりとわたしを見止めたのだと思う。視線を感じて、わたしはそれではじめてその女性が顔見知りのあの人だと気がついたのだった。その人は横浜に住む叔母と親しく、叔母が催すホームパーティにはかならず参加していたし、わたしも通学の関係もあって、叔母の家に自分の部屋を貰っていて、その当時は月の半分ぐらいを叔母の家で過ごしていたからだった。
それと知って反射的に、わたしは顔をそむけた。こんな夜遅くに、下落合などという普段はまるで縁のない土地で、秋山謙一という男と一緒に居ることだけは誰にも知られたくなかった。やがて信号が変わりクルマは走り去って行った、不安だけは残ったが、まさかあの人がわざわざ叔母に告げ口をするとも思えなかった。 …後編に続く…
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