友々素敵

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和楽器の魅力

2009年05月31日 21時35分25秒 | Weblog
 和楽器コンサートのチケットをいただいたので、出かけていった。「伝統楽器が創る日本の響き」とあったので、ぜひ聴きたいと思った。篠笛、能管、尺八、笙、龍笛、篳篥、三味線、琵琶、箏、十七絃、太鼓による演奏である。楽器を単独で演奏した時や、たとえば箏と尺八の合奏は聴いたことがあるけれど、これだけ全部の合奏は聴いたことがなった。それに和楽器の合奏曲があることも恥ずかしいことに知らなかった。

 和楽器といえば、小学校からの帰り道、まだ登下校の道筋は決まっていなかったし、私は校区外から通っていたので、自由気ままに寄り道しながら帰ってきたが、その帰り道のひとつで夕方に三味線を弾く家があった。三味線の音はなんとなく優しく甘く妖しげだった。それ以外では、祭りの時の囃子くらいしか印象にない。春祭りは仰々しく、夏祭りは明るく軽やかで元気がよかった。秋祭りは収穫に感謝する祭りだからにぎやかだったような気がする。父は尺八を好んでいたが実際の演奏は聴いたことがない。姉の箏の演奏会には行ったことがあるが、家で奏でていた記憶はない。

 音楽のことはわからないけれど、西洋的な音があるように東洋的な音もある。先日の大和塾での講演で楽器のルーツを訪ねていった話を聞いたけれど、オリエントで生まれた楽器も東へ伝わるとものと西へ伝わったものでは形も違ったし音色も違った。民族のよって好みの音色や音階があるようだ。中国の南やあるいは西の部族の音色もモンゴルの部族の音色もなぜか懐かしくさえ感じる。

 この和楽器コンサートでは、単独の楽器の演奏の方が気持ちよく聴けた。特にもう一度聴きたいと思ったのはデヴァ・ヨーコさんの篠笛で、笛の物悲しさというか妖しさというか、演奏のスタイルからそう感じるのか、彼女自身の作曲だそうだがとても惹きつけるものがあった。箏の演奏もよかったし、筑前琵琶のよる「本能寺」も浪曲の原型を見る(聴く)思いがした。

 和楽器のひとつひとつの演奏は心にしみてくるものがあったが、これらが一緒になっての合奏は今ひとつしっくりこなかった。太鼓以外の和楽器はどれも主旋律を演奏していて、そこがかみ合わないような気がした。オーケストラの場合なら、ヴァイオリンは主旋律を奏でるけれど、たとえばチューバとかバスなどは単調な音を吹いているだけだ。メロディー楽器を盛り立てるための楽器に徹している。オーケストラが素晴らしいのはそうした各楽器の役割分担だと思う。それらが一体となった時には素晴らしい音楽となって響いてくる。

 どうも和楽器はそれぞれの独立性が強くて、結果的にはお互いをつぶしてしまっているように感じた。和楽器の本格的な合奏指導者がいないのか、作曲家がいないのか、私にはわからないけれど、ひとつひとつの和楽器が素晴らしいだけに残念な気がしてならない。
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