友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

18冊の日記に綴られた男の足跡

2017年04月14日 17時56分50秒 | Weblog

 春らしい一日。日差しは強く、風は穏やかで、ルーフバルコニーで作業をするにはもってこいの日和だった。日曜日にはカミさんの弟夫婦と妹が、チューリップを見に我が家に来てくれる。せっかく育てているのだから誰かに見てもらいたい。ところが、今年はなかなか咲き揃わない。日曜日も天気が良くないみたいだ。「チューリップはつまみのようなもので、兄弟がおしゃべり出来ればいいんじゃないの」と私はノー天気だ。

 マンションの友だちを呼んでの「チューリップを愛でる会」が、何日に開けるのかは心配だ。月曜日と火曜日は雨模様だから、水曜日まで花が待ってくれるようにと祈るばかり。この暖かさでルーフバルコニーの鉢植えのバラもよく茂ってきた。5月になれば今度はバラを楽しんでもらえるだろう。アジサイも美しい若葉が大きくなってきた。昨年咲いたサルビアから種を取り、4日に蒔いたがまだ芽は出てこない。もう少し暖かさが必要なのだろう。

 植物は時が来れば、芽を出し花を咲かせる。しかし、人は一生かけてもなかなか花を咲かせることは少ない。押入れを整理していて、出てきたものは父の物ばかりではなかった。中学2年の時から書き続けてきた私の日記もあった。中学2年の4月に初めて書いたものは「自由日記」という立派な日記帳だ。きっと父親が余ったものを私にくれたのだろう。恥ずかしいほど下手な文字である。日記の他に、詩や戯曲まがいのものや雑文がノートやメモ用紙に書きなぐられている。

 中学3年になると文字は多少きれいになり、日記らしくなっている。結婚するまでは比較的しっかりと書き続けているが、次第に飛び飛びになり、62歳からまた根気に書き続けている。花を咲かせるには至らなかったが、この18冊の日記からひとりの男の足跡は見て取ることが出来ると思う。私が持っていても仕方ないので、誰かに渡して何かの役に立てたらと思う。

 父の日記や童話などを書いたものもそうだが、本人は「大事なもの」でも他人が見れば何でもない紙クズでしかない。貰い手が無ければ燃えるゴミで出そう。石川啄木だってそうだったが、日記を家族だけには見て欲しくない。明日は長女のダンナの姉のところの「桜祭り」に出かけるのでブログは休みます。

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