詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

音は角を落とす

2016年04月29日 | 
人びとが家に帰り
やどかりのように
みずからの夢の宿にひとりひとり
帰っていく頃

壁一枚を隔て
音は角を落とす

幹線道路を走る車の響きは
露光時間を長くして
帯になって重なるテールランプ
摩耗した砂状の流れ

壁に身を預けて
同じ街に暮らす人の
窓から風になびかせている景色を
見るように思う

急に山なりになるサイレンは
遠ざかるにも尾っぽの余韻を長くひく

長い間海に沈んでいたト音記号が
たくさんの装飾音を
ショールのように巻き付けて
貝になり
「海の響きを懐かしむ」

車は目の奥の
巻き貝の渦をひた走っていく
丸いトンネルが
先の見えないカーブに続く

縦の筋は壁の丸みで
色変わりの弓の陳列
選び続ける目で愛でて

すぼまっていく塔の先
見えてくる光
次第に大きくなった

プラスチック製すのこ状のベランダ
日当たりの良い二階の部屋
時は明るさの中にいつまでもとどまって

祖父の商売や
わたしたちいとこたちの幼い声が
聞こえなくて道ひとつ向こうの車の音

お腹の中でお母さんの血流を聞くように
聞いている

銀色の大きな缶に
掬うのも難儀などろりとした水飴 
独特のメタリックな匂い

誰もいないけどみんな元気で
冷たい床に転がっているビー玉ひとつ
その気泡のひとつひとつ

壁一枚を隔て
音が角を落とす

大きな体でぶつかってくる
獣のような風のうめきは
闇の先にチラチラと灯りを瞬かせる

細い枝や小さな動物たちの震え
生やした根の先のように感じ
神経の束を一点に集めた
「さみしい病人の顔があらはれ」

黒眼ばかりのぬめる河のような瞳を
舌舐めずりして聞いている

原因不明の咳が出て
空気が軋む
葉擦れのような咳の不安
空咳のような葉擦れの不安

ずっと見失わずに来た灯りは
いよいよ遠ざかっていくから
辿り着くべき場所ではなかったとわかった

わかってしまうとガタガタと
くずれていくものがあり
もろさよりも
ずっと保たれてきた平衡に驚く

壁一枚を隔て
音が角を落とす

殻の外で
伸びあがるうねりは
小さな口を通ってもらされる

赤ん坊の泣き声は
角の好きな大人たちをあやし続ける
抱く腕の丸み微笑み

耳は
寝静まっていく街に
伸びていく
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同じ色

2016年04月23日 | 
泣くことは難しい
菜の花、蔓日日草、花水木、小手毬、
緑の葉の茂み
いっせいに踊る
そのように、純粋になることは難しい
雨がやんで雲が動いて輝き出した
そのように無心であることは

寄り道帰り道
わざと迷ってみる
暮れていく時
プールの中のような
不思議な青さが
空だけでなく
建物や木々や街灯まで染める
信号はわたしを追い越して
もっと先にいる誰かに
合図を送っているらしい

この辺りにあのパン屋があったはず
街路樹と両脇の家にのしかかられながら
小さな扉を開くパン工場
いつも行方知れずになる
生け垣ガードレール庇の影
かきわけて
それを探す楽しみは
暗くひっそりとしたガラス戸に
わずかながっかりとさみしさに
姿を変えて映っている

泣くことがなければ嘘はない
弱さもない
それぞれの色はわかるのに
全体にゼリーのような厚みと透明さで
一様に同じ色の向こうに沈んでいる
騙し絵が反転するように
そう気が付いた瞬間
流れ込んだ…水

校舎の広々とした側壁を
仮定のように
過程のようにゆっくりと
降りてくる
非常階段の黒い影も
同じ色に

きっとわたしも同じ色に
そう気が付いたのは
それから幾日も経ってからだった
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分かる話(分からない話)2

2016年04月19日 | 雑記
先日の「分かる」の話の続きです。

でも実はこの分かるの感覚について書きたかった時、というのは、ほんとにもうあきれるくらいずっとずっと前なんです。たぶん二、三ヶ月くらい前?もっとかな?

よくわからなくなっているくらい前なんです。

でもおぼろおぼろ過ぎて、逆に要約しやすくなったような気もする「分かる」の感覚とは、まさにおぼろ豆腐のような感じなのでした。本当はもっと、子どもの頃に砂をぬらして作ったお団子くらいの固さがあったのですけど、なにせ時が経ち過ぎて曖昧になってしまって「おぼろおぼろ」などと言っているうちに、豆腐でいいやっなんていいかげんになことになってしまいました。

というのも、その時は固さの感覚も大事なように思ったのですが、今となってはそれを崩す感覚がなにより大事だったようなような気がするからです。

「分かる」の感覚とは、塊と思っていたものを握ると、土で作ったお団子や、おぼろ豆腐のように崩れていく、という感覚だったからなのです。指と指の間から土や豆腐がにゅっと出てくるような。

その時は、保坂和志さんの『小説の自由』『小説の誕生』『小説 世界の奏でる音楽』を読んでいる日々で、読みながらふむふむ、ふむふむ、ふむふむふむふむ、と思いながら、自分自身の考えごとが混ざったりしているうちに、自分がこうだろうと思っていることが、そうでもないんだな、これはこういう塊なんだろうと思っていたことが、そんなことなくて、実はどんどん分割可能なことなんだな、と体感、じゃないけれど感覚を体のうちに覚えたのです。ここは当然こうだろう、とか、これはこういうふうにしかできないだろう、と思っていたことが単なる思い込みなんだな、と。それが何かは具体的に思い出せないのですが……。

そこで、あ、分かるって、分かつなんだ、と思いました。恣意的に分けるのではなく、分かれば分かつことが分かるんだ。「分かつ」という言葉を恣意的に使ってますけど……。「分かつ」は「分ける」よりも自律的なイメージ(私の中で。勝手に)。分かれた部分部分が葉っぱみたいにくるっと丸まってしまう感じ。

話がどんどん逸れていくようですが、そのとき、私はいくつかのことについて、理解が進んだ気がして、あ、これってもっと自由なんだ、もっとこういうふうにもできるし、こういうふうにもできることなんだ、と思ったのでした。その感触をイメージできるほどに。

つづく

このあと、「分かる」は危機的状況に?!


ほんとはいま春なの








だけどほんとは春だって厳しいんだ。
自然なのだから。

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飛ぶ

2016年04月17日 | 雑記
この間「くたびれた夜に」に書いた、近所のスーパーで売っているカップのティラミス。おいしかったのでまた買ってきました。夕食後、今度はちゃんと自覚してコーヒーを用意しました。

フタをぺりっとはがして、もちろんちゃんとフタについたクリームもスプーンですくって食べますよ。

あれ、こらっ!夫が自分の分を抱えながら私のを食べようとスプーンを伸ばしてきます。

ペシッ!
もう油断も隙もないんだから。

さて記念すべき第一刀。
スプーンがキラリ。

うん?

横に置いていたフタに不思議なものが!



うん、空を飛びたくなることもある。
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さくらあめ

2016年04月12日 | 
桜の花びらが舞い散るのにいつも
強く心動かされたのに

今年は桜を見に行っても
ピンク色の花びらが渦を巻いても

感慨がなかった
それがなぜか考えてもみた

だけどどうやらいまのわたしには理由は
まだ見えない領域

桜の前を少し寂しげに歩く姿
それしか見えなかった
それを見ても
なにを思えばいいのかわからなかった
きっとわたしも寂しいんだろう
きっとすごく寂しいんだろう
でも、やっぱりよくわからなかった

今日は雨が降ってしまった
窓から見える黒い幹の先の
初々しい花びらが水分を含んで
はらん
はらん

はらん

ためらうように
ブランコのように
右に左に
揺れ落ちていくのが見えた

濡れたアスファルトを
無数の淡雪のドットで彩っていた

ふいにわたしにも
窓を越えて花びらが降ってきた
染まった

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