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広島城と陸軍 昭和20年8月6日防空作戦室の見学について(平成27年8月23日)

2015年08月25日 10時24分47秒 | 96無線コラム

広島城と陸軍 昭和20年8月6日防空作戦室の見学について(平成27年8月23日)

今年5月下旬に下記の問合せメールを広島市文化財団の学芸員aさんからいただきました。
現在広島城では被爆70周年記念展示として「広島城と陸軍 -昭和20年8月6日防空作戦室-」の準備をしています。
昭和20年、広島城内には中国軍管区司令部が置かれそこの防空作戦室では中国5県の防空情報を集め空襲警報・警戒警報発令の業務を行っていました。
防空作戦室内には通信室もあり、陸軍航空情報隊(おそらく第35航空情報隊)も常駐し軍の防空監視哨5か所(萩見島や松山の中島など)と通信していたようです。
この半地下構造の防空作戦室は広島城内に今も残されています。
日中に、山口や愛媛と交信しているとなると中波もしくは短波(ローバンド)であったと推測できますが・・。
昭和20年ころの陸軍の通信機と言えば、なんであったか推測は可能でしょうか?
軍管区司令部なので、良い設備は持っていたと思われます。
該当される無線機をもしお持ちでしたら見せて頂くことは可能でしょうか?
あわせて、当時の電鍵やレシーバー(ヘッドホン)などもお持ちなのでしょうか?

実は小生も中国軍管区司令部防空作戦室については興味がありましたので、いい機会なので一緒に考えてみることとしました。
とはいっても、当時の資料は軍事機密のためほとんどなく、当時の人の手記や証言ビデオがある程度です。
通信業務をやられていたかたかたはすでに故人となられており、どのような無線機か不明ですが、原爆被災後無線機を持ち出したとの証言が残っておりました。
陸軍航空情報隊が任務にあたっていたとのことですので、通信機は地シリーズの地1号、地2号、地3号無線機のいずれかを使用していたものと思われますが、あくまで推定です。
松山や萩との常時通信をするためには、送信電力はA1の電波形式(電信)で100W以上必要と思われるため、地1号もしくは地2号無線機が主力無線機として使用されたものと思われます。
また、被災直後に壕から無線機を運び出したという証言があることから補助無線機として可搬型の地3号無線機もあったのではないでしょうか。
今回は文化財団のご要望により、地1号受信機、当時の電鍵と軍用電話機を展示のため貸し出すこととしました。

昭和18(1943)年に落成した北部軍司令部の防空作戦室の写真が残されておりますが、広島の防空作戦室の建物は、比較的小規模のもののようです。
敵機の位置情報を情報装置に入力装置などあったようですが、いずれも札幌にあったた北部軍司令部の防空作戦室にあった大規模な装置は設置できません。
また、疑問なのは無線機、交換機や情報装置を駆動するための大規模な電気室(発電機及び蓄電池設備)がこの建物に存在しないことです。
疑問解明に向けて広島市文化財団の学芸員aさんの今後のご活躍を節に期待する次第です。
また、8月23日に防空作戦室内の案内に参加しましたが、市民多数のかたが参加されており、あらためて平和のありがたさを再確認するいい機会となりました。


参考文献

アサヒグラフ昭和18年4月21日号の国土防衛の女尖兵(情報表示機の入力装置でのデータ入力模様)

 

毎日新聞社1億人の昭和史日本占領1降伏・進駐・引揚  北部軍司令部の防空作戦室の情報表示機の写真

 

JACAR(アジア歴史資料センター レファレンスコード C01004719900 沖電気株式會社芝浦工場 管理月報(3月分) (昭和十四年三月) 沖電気による情報表示機の生産状況

 

 

広島戦時通信技術資料館は下記のアドレスです。
http://minouta17.web.fc2.com/

 

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