Tシャツとサンダルの候

 会社経営から身を引き、テキトーに楽しく過ごすオヤジの日々

日田街道山辺道を漕ぐ

2018-02-21 | 歩いたり、走ったり、漕いだり

自転車漕ぎをサボり気味である。

少なくとも週に1日か2日は、まとまった距離を漕ぐと心に決めていたのに、とんと守られていない。

 

 

 

だって・・・

 

 

寒いじゃないか!

風を切って漕ぐと、そりゃもう、凍えるんだから。

 

と、誰とは無しに言い訳をしておく。

 

 

だがしかし、

今日は久々に気温が上がった。

こんな日に走らないなら、最早、永久に走らないに違いない。

早晩、買ったばかりのロードバイクも、金屑となってしまうだろう。

 

行くぜ!!

 

 

今回、日田街道山辺道を行く事にした。

 

どこまで?

 

 

フッ

 

 

股間に訊いてくれ。

府中追分宿には、漱石の句碑がある。

昔、この句碑の近くに、人力車の車夫達が客待ちをする車だまりがあったようで、

句碑には、

『追分とかいふ処にて 車夫共の 親方乗って行かん喃 といふがあまり可笑しかりければ』

『親方と 呼びかけられし 毛布哉』

とある。

漱石は、親方と呼ばれたことがよっぽど可笑しかったらしく、この経験は後に、小説『坊ちゃん』の文中に活かされる。

耳納連山の山懐を行く。

 

草野宿についた。

寿本寺山門。

『木造一層、切妻造、本瓦葺、鬼瓦に有馬家の紋が見られ、旧久留米城西ノ丸水の手御門である・・・云々』と書かれている。

あちゃー。

休肝日じゃなかった、休館日かよ。

楽しみにしてたのに。

建物は、旧草野銀行本店で、国の登録文化財である。

須佐能袁神社。

戦国の名族草野氏により1197年に創建された。

見事な彫刻が施された楼門が有名だ。

 

草野の街並みには、このような建物(上野家)が、さりげなく残っていたりする。

今回立ち寄らなかったが、山側にちょいと行けば、矢作の古民家群もある。

草野は中々に趣のある地域なのだ。

 

更に進む。

草野を抜けたところに、小さな古墳があった。

この辺りから、浮羽にかけては、大小の古墳がひしめき合う、古墳銀座と言っていい地域なのだ。

石垣観音寺まで来た。

天武天皇の発願により、673年創建された寺だ。

去年、同じ時期に訪れて、その時にブログで触れているので、歴史や逸話は省く。

ハルサザンカ

 

満開はもう少し先かな。

 

 

それはそうと、そろそろ股間がお怒りのようだ。

ここらで折り返した方がよさそうだ。

 

 

帰り、

ちょいと街道筋から、脇道へ入ってみる。

長者の井戸。

なんと奈良時代に掘られた井戸らしい。

今まで気にはなっていたのだが、ここは車では立ち寄るのを躊躇うような場所なのだ。

自転車ならではである。

 

 

 

今回も片道20km程度で痛みが出てきた。

なかなか、そこから距離を延ばす事が出来ない。

 

暖かくなってきたら、もう少し自転車漕ぎの頻度を上げねば。

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お気に入りのうどん屋さんと超残念な道の駅

2018-02-20 | 喰らう、飲む

吉井から湯布院へ向かう国道筋には、お気に入りのうどん屋さんがある。

 

天水うどんと言う。

 

プレハブ造りの、味も素っ気もない店構え。

 

店内も、何の外連味も無い。

誠に小気味いいと言うしかない。

ただし、接客も素っ気がないかというと、そうでもない。

店内はかなり混雑していたが、店員の方から

「お決まりになりましたか?」

丁度よい頃合いに、注文を訊きに来てくれる。

 

当たり前の事を、当たり前に出来ているだけだが、こんな簡単な事が出来ない店もあるのだ。

この件は後述する。

私が頼んだのは丸天うどん。

恐らく、北部九州にしかないトッピングと思うが、私の好きなトッピングの一つである。 

博多うどんを筆頭に、ここいらの麺は讃岐うどんの様なコシはない。

でも、これはこれでありなのだ。

タモリが「うどんにコシは要らない」と言うのは、ここいらの常識でもある。

とは言っても、私は讃岐うどんも大好きなのだが。

 

 

ズズズーー

 

 

ちゃんとした出汁が普通に旨い。

こんな化粧っけのない店だが、舐めてはいけない。

味の基本は実にキチンとしているのだ。

冒険しない家内が、珍しく玉子とじうどんなるものを注文している。 

どれどれ、

ちょいと玉子を食わせろ。

 

 

ズズ

 

 

!!!

 

ギョギョギョ

 

 

なに、これ!

玉子、フワフワし過ぎ!

 

たかがうどんだが、これは絶品と言っていい。

かー、そっちにしとけばよかった。

 

 

 

 

 

それに比べ、

 

ここ。

 

某道の駅だ。 

我々が入店した時、二人連れと4人連れが、それぞれ二組づつ店内にいた。

客はたったこれだけだ。

決して忙しい状況とは言えない。

その内、まだ食事が届いていないテーブルが、二組6人分と言う状況であった。

まずこの点を理解しておいてほしい。

 

私らが注文を終えて、15~30分の間に、料理待ちだった2組の前に、定食などが運ばれてきた。

この時点で、料理の出来上がりも遅いのが分かるが、私らの災難はその比ではない。

 

その後、私らの前には一向に運ばれてこない。

長い。

いくらなんでも長すぎる。

注文して、一時間近く経った。

さすがに、どのくらいかかるのか尋ねようとした頃、

 

「あの~、ご飯が無くなりまして。定食はご飯をうどんに代えていいでしょうか。ハハ。」(店員)

 

 

はあ。

 

 

 

 

「あんたね。俺たちが注文して、どんくらい時間がかかっとると思いよると。今頃かよ!!」

 

腹が立つのは、先着の客に最後にご飯を装って数十分経った後に、やっと事情の説明があった事だ。

それどころか、私らが入店してきた時点で、足らなくなるのは確定していた筈である。

こんな失態、二重三重の怠慢が無ければ、絶対ありえない。

なのに、ニヤニヤしながら詫びるとは何事だ!!

 

くそったれ!

 

60数年生きてきて、一時間近く待たされた挙句、「ご飯がありません」との言葉を聞いたのは初めてだ。

私ら全員怒り心頭だが、ここで出て行っても、待ちぼうけした一時間が無駄になる。

店側の言う通り、ご飯をうどんに代えた。

 

結局、暖簾をくぐって、出てくるまで2時間もかかる昼食となった。

無論、代金は当たり前に請求された。

いつもは不味かったり、不快な事があった時は、店名が分からないように書くようにしている。

だが今回は、どうにも腹の虫が治まらない。

 

 

怠慢で、横着で、前代未聞のけしからん食堂は、

 

道の駅いんない「いしばし茶屋」

 

だ。

 

 

 

えーい、今思い出しても腹が立つ。

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院内の石橋群、龍岩寺、宇佐のマチュピチュを行く

2018-02-19 | スワロー飛ぶ

兄姉達との祭りの後。

零下に冷え込む由布高原で目覚める。

 

朝食を済ませ、院内町へ向かう事にした。

院内は石橋の町なのだ。

明治から昭和にかけて架けられた石橋が、大小合わせて70個以上もあるらしい。

この橋は荒瀬橋。

橋脚の高さが院内最高との事。

開通当初は通行が有料であったらしい。 

富士見橋。 

この橋から由布岳が望めるらしいが、この日は見る事は出来なかった。

経座橋。

橋の先には、一軒の民家があるだけのように見える。

この民家の為だけに造られた橋なのだろうか。

民家の野面積みの石垣と、デザインが一体化していて、小さいながらも、なかなかに美しい。

 

近くに龍岩寺と言う寺がある。 

開祖は行基となっている。

奥院までの参道を登る。

ちょいとした山登りである。 

岩盤を穿ったトンネンルを抜けると、

 

巨大な洞窟内に造られた奥の院礼堂が見えてきた。

国の重要文化財。

下部に斜めにかけられている『きざはし』は市の有形文化財。

『きざはし』は、ここと伊勢神宮にしかないとの由。 

懸造りというらしい。

 

高所恐怖症の方、或いは疑い深い方なら、礼堂を支える頼りなげな柱などは、見なかったことにした方がよろしかろう、

と進言しておく。

礼堂奥に安置された白木の仏像三体は、鎌倉期のものらしく、これも重文である。

この雨ざらしと言っていい環境で、白木の仏像が、よくぞここまで持ったものだ。 

下にある本堂まで降りてきた。

ネコが日向ぼっこをしている。 

 

大変失礼な言い方だが、本堂は一見廃屋と言った方がいいような荒れ方である。

宗派本部とか自治体でどうにかしてやれないものだろうか。

本堂の中に案内された。

整理中との事で、本堂内は雑然としていたが、

 

「こんなものがあります。」(係りの女性) 

と出してくれたのは、行基の事について書かれた、略縁記と言われる、

 

「いわゆる版木ですね。江戸時代のものとなってます。」

 

ほほう。

 

 

 

院内散策も終わり、道の駅いんないで食事。

 

「ふざけるな、ばかやろう!」

 

てな事があったのだが、ここでは触れない。 

この件に関しては、後日投稿するかも・・・

 

 

さて、大幅に道の駅で足止めを食ってしまった。

帰るとしよう。

帰り道。

この景観をいつの頃からか、宇佐のマチュピチュと呼ぶようになった。

 

な、なるほど。

似てなくもない。

棚田に寄り添うように佇む集落。

日本の美しい風景であるのは間違いない。

 

 

てことで、

一泊とは言え、久々にキャンピングカーで寝泊まりも出来た。

街歩きや、歴史的建造物巡りも満喫できた。

やっぱ、私にはこれが性分に合っているようだ。

 

 

 

そろそろ、動き出そうかな。

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吉井白壁土蔵群と湯布院を散策する。

2018-02-19 | スワロー飛ぶ

週末は、湯布院の宿泊施設で毎年恒例、家内の兄姉達との遅い新年会だ。

と言っても、私たちはもこを連れて行かねばならないため、泊まるのだけは車中泊であるのも恒例だ。

 

晴れ渡る空の下、出発だ。

途中、吉井町のおひなさまめぐりに立ち寄る。

前から行きたかった催しだ。

吉井町は旧久留米藩の東端に位置する宿場町で、白壁土蔵群で知られている。

そのエリアの広さは、軽く倉敷を凌ぐ。

期間中、各商店では店先に自慢のおひなさまを飾り、訪問客を歓迎する。

 

国道から入った通りにも、白壁の土蔵がずらりと立ち並ぶ。 

 

この掘は、五庄屋が命を懸けて作った大石堰工事に伴い巡らされたもの。

五庄屋の話は、長くなるのでここでは割愛する。

和菓子屋さんに立ち寄る。

店内には喫茶室があるようだ。 

抹茶セットを頂く。

 

え、似合わん?

ほっといて貰おう。 

ここは肥料問屋。

 

このオート3輪、なんと現役である。

若干、錆は出てきてはいるが、保存状態は抜群に良い。

 

「今なら、間に合います。ぜひ、私にレストアを任せて貰いたい!」

 

と、喉から突いて出そうで、飲み込むのに苦労した。 

観光案内所では、ペッパー君がおもてなしをしてくれる。 

 

居蔵の館

精蝋業で財を成した大地主の分家の居宅。

戦後、暫く空き家となっていたのを吉井町が譲り受け復元したとの事

 

ボランティアの老人が訥々と説明してくれるのによれば、この仏壇は、この建物よりも更に古いそうで、

 

「江戸期のもんですたい。修繕にン百万かかるけんですの。諦めましたと。」

風呂場。 

「天井ば見てくれんですか。蒸気ば逃がすためにこげんなったらしか。すごかでっしょ。」(老人) 

 

ほほう。

箱階段。

 

 

 

居蔵の館を出て、通りを更に進むと、

鏡田屋敷がある。

 

郡役所の官舎だったとの由。

迷路のように入り組んだ作りになっている事が、屋根を見れば分かってもらえるだろう。 

「これはからくり箪笥となってましてですね。こうして、こうして、、、」(説明のオバサン)

「あ、それ家にもあった。裏に隠し扉があるですもんね。」(家内)

「あ、いえ。この箪笥にはそこまではないとですが・・・」

 

オバサンに勝ってどうする。しょんぼりしてるじゃないか。

 

因みに家内は家具職人の娘である。

家内が言う、実家にあったからくり箪笥は、100年前のものだ。

これは、長尾製麺の五人囃子。

 

「江戸中期のもんですと。右端の人形さんなんか歯まであらっしゃるとですよ。」(店の老婦人) 

 

この店の素麺は『どっちの料理ショー』で特選素材として選ばれたらしい。

素麺の他、うどんやラーメンまで製造していて、幾つか購入してきたのは言うまでもない。

 

 

以上、

どの店も、観光客が店内に入ってくれば、買う買わないなど関係なく、歓待してくれる。

町を挙げての取り組みと言うのがよく伝わって来て、大変感じが良い。

 

 

 

湯布院に到着した。

まだ時間が少しあるので、街中を少し散策することにした。 

金鱗湖

 

所々、湖底から泡がぷくぷくと湧き出ている。 

街中を歩く。

 

湯布院の街は、中国人で溢れかえっていた。

 

こいつら、

道を塞ぐと迷惑するという事すら、理解でき・・・あー、もういい!!

とっとと出るぞ。 

 

 

 

 

宿泊施設は、長兄の会社の保養所だ。

温泉は良いし、料理も美味しいし、何より安いし、

んでもって、

カンパーイ!!

 

 

この後、

カラオケルームで、血反吐を吐くまで歌いまくった・・・・かもしれない。

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怪しげな暗がりに浮かぶ、ぎょうざ屋という名の餃子屋。

2018-02-15 | 喰らう、飲む

佐賀城下ひなまつり見学も粗方終えた。

 

散策コースのすぐ近くには、佐賀に行った時、必ず立ち寄る場所がある。

その名も中央マーケット。

恐らく日本全国で、軽く100は同じ名前があるであろう路地だ。

 

目的の店にたどり着くには、魔界へと続くこの暗がりを進む勇気が必要である。

 

 

 

今では、お化けの一つや二つ出てきても不思議ではないこの路地を、30数年前に教えてくれたのは、なんと私の家内である。

ヤツはかつて、佐賀市内の大学に4年間通っていた。

ヤツがキャピキャピの女子大生だった時代、賑わいを見せたであろうこの路地も、空き店舗が目立ち、往時の面影はない。

 

目的の店は、もう少し進んだ先にある。

ここだ。

『手作りぎょうざ』と言う。

餃子のテイクアウト専門店だ。

 

ここで売られる餃子は、

戦後、先代がそのレシピと共に、満州から持ち帰ったと言う鉄鍋で焼かれ、皮はモチモチ、普通より大きめの餃子である。

満州餃子オリジナル(知りもしないが)に近いもので、今の日本の餃子とは一線を画すものだ。

 

残念ながら、当分の間休みとあった。

 

2代目を継いだ娘も、それなりに高齢である筈だ。

病気とかでなければいいが。

 

ふと、

このまま、この餃子のレシピも、途絶えてしまう予感がした。

休みとあれば仕方ない。

まだ、他に手立てはある。

 

先へと進もう。

 『ぎょうざ屋』という名の餃子屋である。

 

どうやら、ここの住人は単純明快を好むようだ。

こちらの店は、持ち帰りも出来るが、店内での食事がメインである。

 

平日限定ランチ550円。

どうだ!

無論、メニューは餃子のみである。

狭い店内は、オッサン、オバサンばかりだ。

 

華の女子大生など、平成のこの路地からは絶滅してしまったらしい。

私は焼き餃子。

 

ヤツは水餃子を注文。

 

スープは昆布と鰹が効いた和風出汁と言っていい。

一見違和感があるが、これがまたピッタリなのだ。

レンゲで唇まで持ってくれば、後はツルンと口内に収まる感触がたまらない。 

んじゃ焼き餃子の方を、

 

 

ハフ

 

 

んまい!!

 

更に、この路地の空気という最高の調味料が、美味しさを何倍にもしてくれる。

いう事なしだ。

 

 

 

ウフフ 

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佐賀城下ひなまつりと三重津海軍所

2018-02-14 | ちょいとおでかけ

今日は朝から、珍しく天気がいい。

だが、それも束の間、明日からまた崩れると言う。

 

 

「おい、どっか行くぞ。」

 

 

ブイーーーン

 

 

て、ことで、

佐賀である。

ここ佐賀市では、3月31日まで《佐賀城下ひなまつり》という催しが行われている。

長崎街道沿いにある、古民家や歴史的建造物を巡りながら、それぞれのひな飾り等を見て回るというものだ。

 

スタートは徴古館から。

明治から昭和にかけて、鍋島侯爵家に輿入れしていたお姫様方のひな人形が、展示されている。

残念ながらと言うべきか、当然ながらと言うべきか、撮影は禁止。

徴古館の外観のみ掲載する。

それぞれの建物は、数百メートルのエリア内にあり、散策コースとなっている。

 

趣のある通りを行く。

この一帯は、嘗ては商家が立ち並ぶエリアであったらしい。

黒漆喰の建物が多い。

旧福田家。

玄関わきの洋間。

ここでも、ひな人形の撮影は禁止とあるも、記念撮影ならOKとの由。

 

「どういう事?微妙やな。」(私)

「ま、適当にという事で(笑)」(係りのオバサン)

 

んじゃ、適当に。

 

パシャリ

これは佐賀錦の実演。

横糸は絹で、縦糸は和紙であるとの事。

間近でスマホを構え、

 

「織ってる所、撮っていい?」

「どうぞ、どうぞ。」

 

かなり適当な規則らしい。

旧古賀銀行。

煉瓦造りの立派な建物だ。

二階へ上る。

 

当時の銀行としてはよくある、回廊式の吹き抜けになっている。

ここでは鍋島緞通(だんつう)という、和製絨毯の展示がメインであった。

旧古賀銀行に隣接して建てられている旧古賀家。

無論、旧古賀銀行頭取の居宅である。

明治期のひな人形。

 

ほとんどの屋敷は、セラミックヒーター程度の暖房しか設置されてない。

ではあるが、当然ながら、靴を脱いで上がらねばならぬ。

寒いのなんのって。

 

モフモフとしたスリッパの持参をお勧めする。

旧三省銀行。

 

これは旧牛島家。

佐賀の名産品が並ぶ。

佐賀城下に残る町屋としては最古のものらしい。

佐賀城の掘割。

 

野中烏犀圓。

 

烏犀圓(うさいえん)とは滋養強壮に効く漢方薬との事。

なんと、今も現役の薬問屋なのだ。

 

この後、怪しげな中央マーケットと言うアーケード街で昼食をすませ、川添町 川副町に移動した。

目的地は、世界遺産 三重津海軍所跡である。

幕末、鍋島藩は、この筑後川支流の早津江川河原に、造船所と教育訓練施設を建設した。

 

この建物の2階で、まずは無料のイヤホーン付きのスコープを借りねばならない

6つあるポイントに来ると、『ちょいと、スコープを覗いてみい』と、イヤホーンが呟いてくる。

言葉に従いスコープを覗くと、バーチャルで当時の建物や風景が再現されるという仕掛けである。

国産の第一号蒸気船は、この河原で作られた。

 

 

 

ヒューーー

 

 

さむっ

 

 

周りを見渡す。

この寒風吹きすさぶ河原で、バーチャルスコープなるものを覗いて喜んでいるような物好きは、私らだけのようである。

 

 

 

帰るぞ。

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眠るネコ

2018-02-13 | ペットのこと

今日も、降りしきる雪である。

 

あ~あ。

これじゃあ、何処にも出かける気にならんわ。

 

 

 

 

テレビの前に座り、ため息をつく私。

 

 

じっと足元を見る。

 

 

 

フク

 

 

 

お前、

ニット着せたら日本一やな。

 

『それほどでも』(フク)

 

ちょっと寸足らずやけどな。

 

 

 

目の前でゴロンゴロンしながら、お腹を撫でろとアピールするフク。

 

よしよし、分かった、分かった。

 

 

 

ナデナデナデ

 

 

 

程なく、

 

 

 

スカーーーーー

 

 

 

 

ポテ

 

 

 

 

 

フク

 

 

 

 

 

 

 

その足・・・

 

 

 

 

 

 

 

なんか知らんけど・・・動けん。

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大渋滞の難所ヶ滝小つらら、大つらら

2018-02-12 | 山を行く

日曜日は、難所ヶ滝へ山登りだ。

有名な大つらら、小つららを見に行った。

 

ネットで調べてみると、少し前の時点で、登山口である昭和の森キャンプ場は、結構な積雪であったようだ。

念のため、スタッドレスを履かせたスワローで赴く。 

幸い、駐車場に積雪は無く、拍子抜けするほどである。

何面かある駐車場は、9時半の段階で満車に近い。

 

「こりゃまた、つららは大渋滞になるバイ。」

 

誰かの声が耳に飛び込む。

 

ふむ。

そんなもんなのか。

覚悟してかからねば。 

難所ヶ滝は、宝満山や三郡山がある三郡連山山中にある。

途中までは、名前に似つかわしくない、緩やかな山道を登って行く。 

一か所だけ渡渉する場所があり、そこからはやや傾斜がきつくなる。

 

三郡連山は、全山がほぼ花崗岩である。

この難所ヶ滝ルートは、アイゼンで傷ついた花崗岩が特徴であるようだ。

登山路に横たわる岩や石は、どれも真っ白い筋が入っている。

暫く進むと、路面が凍ってきた。

足元を慎重に選びながら登る。 

でた!

 

これは、小つららと呼ばれる方の氷瀑らしい。

ここから、つらら近くに行くには、アイゼンを付けた方が良さそうだ。 

人生初アイゼンである。

 

何しろ人が多い。

中々、直下までたどり着けない。

人の頭を写さなうようにスマホを構えてはいるが、画像下あたりは、本当は人の後頭部だらけである。

 

普段は滝と言えるような場所ではないそうで、チョロチョロと流れ落ちている程度なんだそうだ。

そんな雫と言っていいものが、一旦凍ると、この様な迫力がある造形を作り出す。 

 

やっとの事で最前までたどり着くも、長居は出来ぬ。

後が使えているからだ。

上野のパンダ見物の如く、早々に引き返さねばならぬ。

 

大つららに向かう。

大つららまで、岩場が続く。

歩きにくいので、アイゼンを一旦外す。

ただ、見ていると登山者の半分は、アイゼンを付けたまま登っている。

大つらら前の登り坂。

行きと帰りは、それぞれ一方通行になっている。

大渋滞である。

またぞろ、イライラの虫が騒ぎ出す。

飯を食べに行く時だって、行列が出来る有名店と、並ぶ必要が無い無名の店なら、迷わず無名店を選ぶ私だ。

とは言え、

さすがにここで臍を曲げて引き返したら、何をしに1時間半も掛けて、ここまで来たのかわからぬ。

この時ばかりは辛抱強く並ぶことにした。

 

更に誤算は続く。

待つこと数十分。

漸く、大つららの全貌が視界に入ってきた。 

ここからは、アイゼンなしにはとても進めぬ。

ところが、列を外れてアイゼンを履くような場所が全く無い。

半分の登山客が歩きにくいのを辛抱して、あの途中の岩場をアイゼンを付けて登っていた意味が、この時漸く分かった。

ここから先、あと2メートル進めれば、足場がしっかりしたところへ渡る事が出来るのだが。

 

しゃーない。

ほぼ真下まで行った事だし、ここでグズグズしていては後続の迷惑であろう。

帰り道へと進んだ。 

この大つららを渡った先に、本来の難所ヶ滝があるらしいが、氷瀑はここまでとの事。

いずれにせよ、アイゼンを付け直して、もう一度あの大渋滞に並び直さねばならぬ。

 

やーめた。

 

帰ろっと。

 

 

 

初アイゼンは、小つららのみの中途半端なものに終わったが、それでもスリル満点で中々に楽しかった。

また来年、今度は平日に登ろっと。

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親子丼と稲庭うどんを両方食べたいのだ。

2018-02-10 | 喰らう、飲む

アイゼンつけての山登りの筈が、残念ながら雨で中止になってしまった。

仕方がないので、バックアップクラウドの画像の整理をしていた。

 

 

おや?

そういや、こんなの作ってたな。

 

家内が神戸へとっとと遊びに行き、私が家事に悪戦苦闘していた頃に遡る。

 

 

 

日曜日の午前中、福岡の娘が前触れもなくひょっこり帰ってきた。 

置いてきぼりを食らった独りぼっちの親父が哀れと思って、飯炊きぐらいしてやろうと帰って来たのかと思いきや、

 

「全然違う。大川の友達のところに遊びに行ってたけん、ついでに寄ってみただけ。」

 

ついでに帰って来たと言う娘は、手伝いどころか、テレビの前に座ったまま微動だにしない。

 

昼ご飯は、稲庭うどんにすることは決めていた。

前の日から、鰹と昆布で出汁を作ってたからだ。

 

仕方ない。

一人前も二人前も手間は一緒だ。

 

「このおつゆ、お父さんが作ったとね。おいしかやん。」(娘)

「そうやろ。麺も腰があろうが。ツルツルだし。」(私)

 

結局、娘は何の手伝いもせずに、晩飯まで父親に作らせて、食うだけ食って、福岡に帰っていった。

 

 

 

前段が長くなりすぎた。

漸く本題である。

 

 

てなことがあった翌日の昼。

これでおさんどんもやっと終わりだ。

さて、なんにしようか。

なんにしても、せっかく作った出汁と、稲庭うどんの麺がまだ残っている。

だが、何故か猛烈に、親子丼を食べたい気分になっている。

 

 

 

 

稲庭うどんを茹で、

 

出汁に、鶏肉とタマネギと、ついでに余った蒲鉾を入れて、しばらく煮込む。

 

トローリと卵を回し入れる。

 

お解りとは思うが・・・ 

親子うどんの完成だ。

 

鍋から丼に移すとき、中の具がひっくり返ってしまい、卵が下になってしまった。

見た目は悪いが、味に支障は無いはずだ。 

ズルズルズル

 

 

うん、上出来!

 

見た目は別にして、味なら食堂の親子丼の味だぜ。

タマゴもフワフワだし。

 

 

ズルズルズルーーー

 

 

 

 

て事を思い出した訳で・・・

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古代の山城大野城四王寺山を行く

2018-02-09 | 山を行く

久しぶりの快晴となった昨日、大宰府へ向かった。

前から登りたかった古代の山城、大野城四王寺山へ登るためである。 

大宰府政庁跡の背後に控える山がそれである。

 

大野城は、基山の基肄城と同じく、白村江の敗戦の後、唐軍の侵攻に備えて作られた山城である。

ただし、 基肄城とは微妙に、戦略上の目的を異にしているように思える。

当時、斉明天皇が居たのは朝倉宮であったものの、実質的な大本営は、中大兄皇子が居た大宰府であるのは間違いない。

基肄城の築城の目的が、博多湾から有明海、朝倉宮を含めた筑紫平野の監視所的な役割と、眼下の狭くなっている平野部を朝倉に向かって侵攻する敵軍の打撃であるのに対し、

大野城は、水城が破られでもした時、大宰府の文官や女官も引き連れて、すたこらさっさと籠城するために造られたのではなかろうか。

何しろ、大宰府政庁の裏山と言っていい近さなのだ。

ここで一旦籠城し、基肄城や朝倉、三瀦からの援軍が敵軍の背後を突くと言う作戦に違いない。

大宰府政庁跡の側道を登って行く。

 

暫くすると、山道に入る。

残雪がチラホラ目立ち始める。 

更に登る。

 

突如として、大石垣が姿を現す。

基肄城の水門と、位置的なものも、機能も全く同じである。

 

 

山頂近くまできた。

土塁が築かれている。 

総延長8kmにも及ぶそうだ。

基山の土塁と比べ、保存状態がとてもいい。

 

渇水時にも枯れる事が無いと言う鏡ヶ池。

 

増長天礎石群。

 

この土塁のエリア内には、数々の礎石群が点在する。

土塁内は、大宰府政庁の人員を収容するのに、十分な広さのエリアとなっている。

正面の山影は耳納連山。

右に基山も見える。

銀色に輝く屋根は九州国立博物館。

 

四王寺山の由来となった四王寺跡。

 

この山には、戦国期の名将高橋紹運が玉砕した、岩屋城址もある。

薩摩軍が九州統一の為、筑前まで進出してきた際、岩屋城の合戦があった。

実にその戦力差5万対数百と伝えられる。

紹運は薩摩方の度重なる降服勧告を拒絶。

薩摩軍5千人余りを道連れに全員討ち死に、或いは自害という、なんとも凄まじい戦である。

因みに紹運は、柳川藩初代の立花宗茂の実父である。

岩屋城は次回のお楽しみに取っておこう。

大宰府政庁まで再び降りてきた。 

 

中大兄皇子がここで、籠城する日の事を考えながら、あの山を眺めていたに違いないと妄想しながら、珈琲を頂く。 

 

グビ

 

今回岩屋城を割愛したのは、これを見たかったのだ。

 

水城跡だ。

この面が博多湾側。

こちらが大宰府側である。

幸い、この水城が防衛線に使われることはなかった。

 

 

という事で、

四王寺山は、見どころ満載の山であった。

まだ、半分も歩いていない。

きっとこれから、何度も行くようになる予感がする。

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