「異論・反論・多事争論」は
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異論・反論・Obsoletion
『差別』とは何なのか
前の『人権擁護法案について』で、主にこの法案が規定する
『組織』の問題点について触れたが、ここでは『差別』について
考えたいと思う。
少女が中年男性に殴られ、服を切られたとする。
これは、明らかに犯罪であろう。
---
では、これをマスコミが以下のように報じたとしたら、どうだろう。
# 日本人男性は、「日本人を拉致しておいて開きなおっている
# 朝鮮人など、日本から出ていけ!」と叫びながら、
# 朝鮮服(チマチョコリ)を着ていた『朝鮮人』の少女に
# 突然殴り掛かり、少女の服をナイフで切った。
(架空の話です)
おそらくこの犯人は、「悪い朝鮮人を追い出す為に制裁を加えた」
とでも言うのだろう。この主張は『正当』であるのだろうか。
彼女自身は日本人を拉致などしていないだろう。
少女は何等悪いことをしていない。
例え彼女の父親が工作員で、実際に拉致に関与したとしても、
彼女に罪はないのだ。殴られたり服を切られたりする謂れは無い。
では、彼女の父親に対してなら、殴っても構わないのだろうか。
そんなことは無い。法治国家である日本では私刑は禁止されている。
例え本当に日本人を拉致したとしても、殴る事は許されないのだ。
犯罪者の言い分など、この程度だ。
犯人が勝手にこの少女を『朝鮮人』と分類し、
「『朝鮮人』なら殴られて当然だ」という屁理屈を付けたのだ。
では、この少女はこの事件をどの様に解釈するだろうか。
犯人の「朝鮮人など出ていけ!」という発言から
「差別された」と感じるだろう。
しかしながら、犯人の言い分など真に受けるべきでは無い。
犯人は単に誰かを殴りたかっただけだ。自分の行為を正当化する為に
自分勝手な理屈を作り、言い訳をしただけなのだ。
---
次の場合はどうだろう。
# 日本人男性は、「日本人を拉致しておいて開きなおっている
# 朝鮮人など、日本から出ていけ!」と叫びながら、
# 朝鮮服(チマチョコリ)を着ていた『日本人』の少女に
# 突然殴り掛かり、少女の服をナイフで切った。
(架空の話です)
さて、この事件をどうとらえるだろうか。
犯人はおそらく服装から少女が朝鮮人であると錯誤したのだろう。
しかし被害者は日本人なのだ。犯人の言い分は、全く筋が通らない。
これは、犯人でさえ認めざるを得ないだろう。
---
現時点において日本人の中に、特にアジア系の国に対する
屈折した意識(差別意識)が存在している事は、事実だ。
私は、このような意識の有無に係わらず事件は発生すると考える。
一方で、犯人がその犯罪を行う対象として自身の屈折した意識
(差別意識)を投影していると見る。
結果、犯罪の被害者としてその様な人間(被差別者)が対象とされ、
犯人は犯行の理由に差別意識を挙げるのだ。
今回の場合は、犯人は勝手に日本人の少女を『朝鮮人』と分類し、
自分の行為を正当化しようとしたのだ。
北朝鮮は、確かに日本人を拉致した。
しかし、少女を殴ったりするのは間違っている。
これは、日本人に対しても言える。
日本はかつて確かに虐殺したり、他国の女性を暴行したのかもしれない。
しかし、私はそれをしていない。
隣国は、私を「日本人」と言うカテゴリに分類し、非難する。
正直、日本人はうんざりしているのだ。
隣国の法律は知らないが、日本の法律であれば
非難される筋合ではないというのか正直な感想だ。
この事はこの辺で止めておく。
---
話を戻そう。
私はこの様な事件は、差別があったから起こるのだとは考えない。
犯人が、誰かを殴りたかったから起こったのだ。
犯人は「誰か」を犯人の差別意識により決定したに過ぎない。
差別があったから、犯行が行われたのではないのだ。
仮に国籍の差別が消滅したとしても、人の心の中に悪しき衝動が
存在する限り、他の要因により別の被害者が決定されるだろう。
差別を取り締まっても被害者は減らないのだ。
現状の『人権擁護法案』においては、
朝鮮人の少女は「国籍による差別」の被害者に当たるだろうが、
果たして日本人の少女は「国籍による差別」の被害者だろうか。
上の二つの例で、犯人の動機や行為、二人の国籍の異なる少女の被害は、
全く同じだ。このため、もし「国籍差別」を否定するなら
被害者の国籍が異なっても、犯人は同じ罪に問われなければならない。
「差別」であるかどうかは、犯人の心の状態で決定されるべきであり、
被害者の国籍や、被害者がどう感じたか等で判断すべきものではない。
これを、裁判もせずに判断出来るのだろうか。
私は、差別を『差別』という文脈で考えるべきではないと考える。
差別は、『いじめ』と捉えるべきなのだ。
『差別』は、社会的背景を持った『いじめ』である。
そして『いじめ』は、立派な『人権侵害』なのだ。
『人権擁護法』では、差別を『差別』としてではなく、
『いじめ』(の一部)として規定すべきだ。
そうすれば、差別を、個別の「差別の対象」を規定する事なく、
より一般化した形で人権問題として再定義できるだろう。
(差別の対象を明示する事による逆差別の懸念も存在する)
人権擁護法の趣旨自体に反対する人は、誰もいない。
しかし、法律にするにはもっとよく考える必要がある。
『組織』の問題点について触れたが、ここでは『差別』について
考えたいと思う。
少女が中年男性に殴られ、服を切られたとする。
これは、明らかに犯罪であろう。
---
では、これをマスコミが以下のように報じたとしたら、どうだろう。
# 日本人男性は、「日本人を拉致しておいて開きなおっている
# 朝鮮人など、日本から出ていけ!」と叫びながら、
# 朝鮮服(チマチョコリ)を着ていた『朝鮮人』の少女に
# 突然殴り掛かり、少女の服をナイフで切った。
(架空の話です)
おそらくこの犯人は、「悪い朝鮮人を追い出す為に制裁を加えた」
とでも言うのだろう。この主張は『正当』であるのだろうか。
彼女自身は日本人を拉致などしていないだろう。
少女は何等悪いことをしていない。
例え彼女の父親が工作員で、実際に拉致に関与したとしても、
彼女に罪はないのだ。殴られたり服を切られたりする謂れは無い。
では、彼女の父親に対してなら、殴っても構わないのだろうか。
そんなことは無い。法治国家である日本では私刑は禁止されている。
例え本当に日本人を拉致したとしても、殴る事は許されないのだ。
犯罪者の言い分など、この程度だ。
犯人が勝手にこの少女を『朝鮮人』と分類し、
「『朝鮮人』なら殴られて当然だ」という屁理屈を付けたのだ。
では、この少女はこの事件をどの様に解釈するだろうか。
犯人の「朝鮮人など出ていけ!」という発言から
「差別された」と感じるだろう。
しかしながら、犯人の言い分など真に受けるべきでは無い。
犯人は単に誰かを殴りたかっただけだ。自分の行為を正当化する為に
自分勝手な理屈を作り、言い訳をしただけなのだ。
---
次の場合はどうだろう。
# 日本人男性は、「日本人を拉致しておいて開きなおっている
# 朝鮮人など、日本から出ていけ!」と叫びながら、
# 朝鮮服(チマチョコリ)を着ていた『日本人』の少女に
# 突然殴り掛かり、少女の服をナイフで切った。
(架空の話です)
さて、この事件をどうとらえるだろうか。
犯人はおそらく服装から少女が朝鮮人であると錯誤したのだろう。
しかし被害者は日本人なのだ。犯人の言い分は、全く筋が通らない。
これは、犯人でさえ認めざるを得ないだろう。
---
現時点において日本人の中に、特にアジア系の国に対する
屈折した意識(差別意識)が存在している事は、事実だ。
私は、このような意識の有無に係わらず事件は発生すると考える。
一方で、犯人がその犯罪を行う対象として自身の屈折した意識
(差別意識)を投影していると見る。
結果、犯罪の被害者としてその様な人間(被差別者)が対象とされ、
犯人は犯行の理由に差別意識を挙げるのだ。
今回の場合は、犯人は勝手に日本人の少女を『朝鮮人』と分類し、
自分の行為を正当化しようとしたのだ。
北朝鮮は、確かに日本人を拉致した。
しかし、少女を殴ったりするのは間違っている。
これは、日本人に対しても言える。
日本はかつて確かに虐殺したり、他国の女性を暴行したのかもしれない。
しかし、私はそれをしていない。
隣国は、私を「日本人」と言うカテゴリに分類し、非難する。
正直、日本人はうんざりしているのだ。
隣国の法律は知らないが、日本の法律であれば
非難される筋合ではないというのか正直な感想だ。
この事はこの辺で止めておく。
---
話を戻そう。
私はこの様な事件は、差別があったから起こるのだとは考えない。
犯人が、誰かを殴りたかったから起こったのだ。
犯人は「誰か」を犯人の差別意識により決定したに過ぎない。
差別があったから、犯行が行われたのではないのだ。
仮に国籍の差別が消滅したとしても、人の心の中に悪しき衝動が
存在する限り、他の要因により別の被害者が決定されるだろう。
差別を取り締まっても被害者は減らないのだ。
現状の『人権擁護法案』においては、
朝鮮人の少女は「国籍による差別」の被害者に当たるだろうが、
果たして日本人の少女は「国籍による差別」の被害者だろうか。
上の二つの例で、犯人の動機や行為、二人の国籍の異なる少女の被害は、
全く同じだ。このため、もし「国籍差別」を否定するなら
被害者の国籍が異なっても、犯人は同じ罪に問われなければならない。
「差別」であるかどうかは、犯人の心の状態で決定されるべきであり、
被害者の国籍や、被害者がどう感じたか等で判断すべきものではない。
これを、裁判もせずに判断出来るのだろうか。
私は、差別を『差別』という文脈で考えるべきではないと考える。
差別は、『いじめ』と捉えるべきなのだ。
『差別』は、社会的背景を持った『いじめ』である。
そして『いじめ』は、立派な『人権侵害』なのだ。
『人権擁護法』では、差別を『差別』としてではなく、
『いじめ』(の一部)として規定すべきだ。
そうすれば、差別を、個別の「差別の対象」を規定する事なく、
より一般化した形で人権問題として再定義できるだろう。
(差別の対象を明示する事による逆差別の懸念も存在する)
人権擁護法の趣旨自体に反対する人は、誰もいない。
しかし、法律にするにはもっとよく考える必要がある。
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