美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

伝馬橋よりについて Ⅰ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                      伝馬橋~清須宿へ

                  伝馬橋よりについて Ⅰ

    ↓ 伝馬橋より清須宿へ(略図)
      消滅した美濃路の所があると考えますが記していません。
    
  ↓ 伝馬橋辺り~清須宿への絵図  元禄頃(1688~1704)
  

  ↓ 伝馬橋からの絵図 『美濃路見取絵図』より  
  

↓ 名古屋市~清洲辺りまで地図(赤丸点は美濃路)    明治24年測図
 
   ↓ 上の地図、伝馬橋辺り~清洲(須口村)の地図をトリミングしました。
 赤丸で伝馬橋を記し、赤丸点は美濃路を記しました(正解でしょうか)。
   
     ↓ 伝馬橋を渡り西方向から伝馬橋を撮る
     
     ↓ 伝馬橋
     
     ↓「伝馬橋」図絵  『尾張名陽図会』より
 堀川沿いには無数の材木が立っており、人々が伝馬橋を渡る様子が垣間見える。往時の伝馬橋一景。
     
     ↓ 「伝馬橋の景」 『名古屋明細全図』より  明治28年(1895)
     
     ↓ 伝馬橋西より伝馬町一丁目(錦一丁目)を見る(昭和40年頃)
     
     ↓ 伝馬橋たもとには商家あり、西川岸より東川岸を見る
     
 伝馬町について・・・1610年頃、徳川家康の命により数年で清須の町が名古屋へ移された。世にいう「清州越」である。翌年福島正則により名古屋城下への物流の大動脈、堀川が開削された。その時、堀川に架けられた七橋の一つが伝馬橋である。当時長さ11間5尺(約22メートル)、幅3間(約6メートル)高擬宝珠付の板橋で五条橋と同じく清須越の橋といわれる。美濃路がこの橋を通るため、西国大名や旅人が名古屋を通るときには皆この橋を渡り、名古屋を代表する橋として賑わった。橋の東側には清須越した材木商が集まった。他清州越により移った伝馬町の名前がこの橋の名前の由来。
 ≫伝馬橋を渡ると美濃路は右に曲がることになります
     ↓ 右折前方(美濃路)を撮る
     
     ↓ 前に進んで桜通に出る(前方信号のある所が美濃路になります)
     
     ↓ ここより堀川に架かる桜橋に行き伝馬橋撮る
     
     ↓ 次の交差路に出る〔交差路より前方(美濃路)撮る〕
     
     ↓ 堀川に架かる中橋からの下流写真
     
 
 ここから美濃路を西へ外れ、美濃路といえば必ず登場する四間道へ進路変更。
     ↓ 浅間神社について書かれた立札
     
     ↓ 浅間神社(大きな銀杏の木が黄葉)

     
     ↓ 中橋裏浅間祭絵  『尾張年中行事絵抄』より
     
     ↓ 中橋裏浅間社図絵 『尾張名所図会』より
 中橋は堀川七橋の一つで、このあたり南北十余町にわたって商家が並び、その土蔵の数は数えきれないほどあったといわれる。
     
 ◇四間道で撮った写真数枚掲載
     ↓ 四間道
      
     ↓ 四間道
     
     ↓ 四間道
     
     ↓ 四間道
     
     ↓ 四間道
     
     ↓ 屋根神様が祀ってある
     
 ≫四間道とは・・・四間道は元禄13年(1700)の大火で1649軒の町家と15の寺社が焼失したといわれる。そのため、防火の目的や商業活動の為道幅を四間(約7メートル)に広げたことによりその名がついた。四間道を挟んで東側には石垣の上に連続する土蔵、西側には町家が立ち並ぶこの独特な景観は元文年間(1740年頃)に形成された。石畳や屋根神様、そして子守地蔵尊など、下町情緒が今も都心に残る重要な地域となっている。
     ↓ 名古屋城下を襲った大火による消失地域図
     
 ◇四間道より元の場所(美濃路)に戻る
     ↓ 前に進み古民家撮る
     
     ↓ 五条橋(旧五条橋の擬宝珠は名古屋城に保存されている)
     
     ↓ 名古屋城に保存されている五条橋擬宝珠
 名古屋城下京町筋の堀川に架かる五条橋に掲げられた擬宝珠。清洲越しの前の年号である「慶長七年(1602)」の銘文があり、清須城下にあった五条橋を名古屋へ移したことが判る。尾張の鋳物師頭であった水野太郎左衛門二代の作と伝えられている。
       
     ↓ 五条橋
      
     ↓ 景雲橋より五条橋撮る
             
     ↓ 夜の五条橋(2013年12月撮)

     
     ↓ 現在の五条橋に架けられる前の五条橋(西方に向けて)
              
     ↓ 「五条橋」絵  『名区小景』より
     
     ↓ 「五条橋」図会  『尾張名陽図会』より
     
     ↓ 五条橋より東方向
     
     ↓ 五条橋東詰より西方向
     
     ↓ 在りし日の五条橋風景
     
 五条橋について・・・かっての清洲城下の五条川に架けられていた橋を、清洲越〔慶長15年(1610)清洲よりの町ぐるみの引っ越しをいう〕の時、清洲にあった五条橋をこの地に移した。橋の名もこれに由来するといわれている。元の橋にあった擬宝珠には「五条橋 慶長七年壬刀六月吉日」の銘があり、現在名古屋城に保存されている。
 ここまで「清洲越」の文字を数回書き込んだ「清洲越」について・・・尾張の中心は長らく清洲城とその城下町であったが、関ケ原の戦い以降、大阪豊臣氏の勢力に対抗しなければならない政治情勢や地形上清洲の地が水害に弱いことなどから、徳川家康の命により慶長14年(1609)現在でいう名古屋の台地の上に新たに城を築き、新しい都市を開発することとなった。翌慶長15年(1610)西国大名の助役による天下普請で名古屋城の築城が開始された。
 慶長17年(1612)頃になると名古屋の地の南北には現在の本町通が、東西には伝馬町通が敷設され、これを中心に、名古屋城下の碁盤割が実施された。伝馬町通は東端で飯田街道とつながっていた。碁盤割が実施された範囲は北は名古屋城に隣接する外堀筋(現在の外堀通)、南は堀切筋(現在の広小路通)、東は久屋町(現在の久屋大通南行)、西は御園町(現在の御園通・伏見通の一つ西)の範囲であった。御園町西側には同時期に堀川が開削された。この範囲を現在の町名でいえば、丸の内と錦の地域に相当する。
 清須越により家臣、町民のみならず、寺社仏閣3社110寺、清洲城下の町家2700戸のほとんどが移転するとともに、清洲城小天守も名古屋に移った。現在でも名古屋では清洲越を経験した旧家であることが、伝統と格式を示すものとされることがある。清洲越以前に名古屋城下にあった寺は安養寺、安楽寺、養蓮寺、誓願寺、万松寺、晋蔵寺のみである。現在名古屋にある寺は、清洲越で清洲から移ってきたもの、ほかの地域から移ってきたもの、あたらしく創建されたものである。これが「清洲越」である。当寺の民謡(臼ひきの歌)に「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」と歌われたという。この五条橋は「清洲越」のシンボル的な橋で、「清洲越」を語るに、まず初めに出てくる所と思えるほどです。

 ◇交差路より右には五条橋がありますが、左には円頓寺アーケード街があります。
     ↓ 円頓寺アーケード商店街
     
     ↓ 
師走の夜の円頓寺アーケード商店街(2013年12月撮)
     
     ↓ 圓頓寺(円頓寺商店街は圓頓寺の門前町になります)
     
     ↓ 慶栄寺(圓頓寺近くにあり東側より撮る)
     
     ↓ 「円頓寺 慶栄寺」図会  『尾張名所図会』より
     
       
 圓頓寺商店街について・・・城下町の商店街として整備された。名古屋で最も古い商店街、圓頓寺の門前町として繁栄した。明治中頃、笹島に名古屋駅ができると名古屋三大商店街として夜店が並び、劇場や寄席も設けられた。戦後はかっての勢いは失ったが、昭和の雰囲気を感じさせる落ち着いた空間を漂わせている。

 次に出た通りを右に曲ると堀川に架かる景雲橋があります。
  
   ↓ 景雲橋より上流を見る(明治40年頃)
      
     ↓ 在りし日の堀川二景
     
     
   ↓ 上宿、巾下付近の道筋
   

     ↓ 延命地蔵尊撮る
     

 ◇ここより前に進むと国道22号線に出ます
     ↓ 前方方向の美濃路撮る
 自身この道を美濃路としました。ただ、いろいろな地図を見ていますが、この道が美濃路との確信が持てていません。先の道路を進み左折をするのですが、左折道路右側角には美濃路の道標が建っています。現在美濃路との判断は持ち越しとなっています。
     
   ↓ 私が美濃路の旅をした時使用した地図(赤線部分は美濃路になります。)
 ㉔は伝馬橋、㉓屋根神様、㉒は四間道、㉑は五条橋かと思います。緑色矢印を記しましたが道標が建っている所です。この地図には消滅した美濃路が記されていますが、未だこの道筋が美濃路かどうか半信半疑といったところです。因みに、自身昔の美濃路地図は2種類持って旅をしましたが、2種類の地図、この部分に対して合一はしていませんでした。
   
  ◇国道22号線を少し進むと美濃路は左に曲がることになります。
     ↓ 前方信号がある所から左に曲がります。
     

     ↓ 左折道路(美濃路)前方を撮る
     

 この場所から少し前に江川一里塚跡の立札が立っていました
 江川一里塚跡立札書き込み・・・美濃路は1602年に開かれ、東海道と中山道をつなぐ街道として重要な役割を果たした。東海道熱田宿か中山道垂井宿まで、7つの宿場があった。江川一里塚は熱田から2つ目の一里塚。この辺りにあったと思われるが今は何もない。関ケ原合戦のおり徳川家康は整備される前のこの街道を通って清洲城へ入って関ケ原に向かった。

 次に見つけたものは樽屋町の大木戸跡の立札が建っていました。

 ・樽屋町の大木戸跡の立札書き込み・・・城下町は治安の為木戸が設けられていた。中でも重要な街道には大木戸を設け、夜間は閉鎖し、城下の防御の役割を持たせていた。名古屋城下には3ケ所の大木戸があった。南口は東海道から美濃路を通り城下への入り口、橘町(中区)、東口は飯田街道の入り口、赤塚(東区)。西口は美濃路樽屋町と押切村の境(西区)に設けられていた。大木戸は城下と外の境で、番小屋が敷設されていた。旅行者の送迎もこの大木戸までであったという。1872年、3カ所の大木戸はすべて取り除かれた。  と書かれており、ちょっと興味深い。
   ↓ 樽屋町の大木戸辺りの絵図 『美濃路見取絵図』より
   
     ↓ 進むこと白山神社
     
     ↓ 白山神社の西側、笈瀬川に架かっていた権現橋の石橋欄干でしょうか。
     
     ↓ 白山神社拝殿
     
   ↓ 白山神社前に建てられた立札「美濃路の信長」
   

 白山神社界隈・立場・・・白山神社の前は立場であった。立場というのは、人夫が杖をついて立てて休息する所から言われ、宿と宿の間の中間にあって旅人のために茶店等がもうけられた。
 立場という名称は美濃治にかかわって知ることが出来た名称。白山神社の掲示板にこのことが書き込まれていなければ、私には全く分からないことで、ここを訪れてみて大変興味のわくことが知れたことに感謝しています。
     ↓ 白山神社 『尾張名所図会』より
 この図絵下部には立場が少し描き込まれていると思いますが、もう少しはっきりと確認できるように描いてほしかったという気持ちです。『尾張名所図会』には「社内に榎一株あり。是即白山の神木なれば、榎権現の称ここに起こる」と記している。神木の西側を流れていた笈瀬川には権現橋という石橋があった。現在は橋も川もないがかっての欄干は白山神社の垣根の一部として使われている。 と記されています。
     
 白山神社では、榎白山神社大祭として祭が行われていますが、私が祭にもった感想はかっては大変賑わった祭、現在は静かな祭りと思いました。少し写真を撮ってきましたので掲載します。
     ↓ 榎白山神社御大祭案内書き
     
  ◇白山神社
     ↓ 昼間
      
     ↓ 美濃路西側より東方向撮る  
    白山神社前は美濃路が通り立場があって大変賑わった通り。
     
     ↓ 「榎権現祭禮」絵  『名古屋名所団扇絵集』より
 白山神社祭は現在も行われてますが、団扇絵集に描かれているような活況さは今はない。
     
  美濃路の信長について・・・織田信長は1534年現在の名古屋城二之丸跡辺りにあった那古野城で生まれたという。21歳で清洲城に移るまで、この辺りを駆け回っていた伝えられる。美濃、斎藤道三の娘濃姫を妻として迎えたのは那古野城である。清洲城に移った後、1560年今川義元を迎え討つため若き日の豊臣秀吉を引き連れ桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝を祈願し、凱旋したのはこの美濃路である。
 ≫白山神社を通り過ぎると八坂神社
    ↓ 八坂神社
     
 八坂神社の由来・・・八坂神社の歴史は古く、文治元年(1285)平家の武将が現在地北方100mほどの村外れに住み着き、一ツ池と称する沼田の中に祠を建てて「建速須佐之男之命(たてはやすさのうのみこと)を祀ったのが初めとされる。 その後、慶長15年(1610)那古野開府となり、美濃路といわれる現在の八坂通りの両側に商い店が集まって町家を形成し一緒に祀るようになり、何度か修復の後、元禄15年(1702)に現在地御造営正遷宮を行い、この頃から祭りが盛大に執り行われるようになったと伝承されている。この祭礼は、延命長寿と豊作祈願であるが、当神社は子どもの守り神様としても有名とされる。
 山笠提灯献灯は前述の元禄15年からといわれ、山笠は文政11年(1814)作であったが痛みが激しく、原木の乾燥期間3年余りを待ち、平成18年現在のものとなる。高さは20mあり、提灯は最上段で五ヶで五穀を表し、その下、五段構えに880ヶの提灯を掲げて米を表し、米寿にもあやかるとされている。
 ≫八坂神社提灯祭・・・八坂神社提灯祭は、境内に様々な提灯で飾り、八坂神社提灯祭との異名を持つお祭です。
     ↓ 八坂神社(2014年5月17日・八坂神社祭りの日に撮)
     
     ↓ 山笠提灯
     
     ↓ 八坂神社大提灯
     
     ↓ 大提灯と山笠提灯
      
 八坂神社を過ぎると国道22号線、国道を横断して枇杷島に入ってきました。国道22号線を横断して前に進むと惣兵衛川を渡ります。惣兵衛川を渡ったすぐの所に尾州茶屋の立札が建っていました。
 尾州殿茶屋跡の立札の書き込み・・・
美濃路は東海道と垂井宿をつなぐ重要な街道であった。この街道には、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の六宿(名古屋宿の記載がない)があった。かってこの場所に尾州殿茶屋があり、尾張藩と関係のある要人が通る際の接待所であった。名古屋には宿場としての本陣や旅籠屋はなく、熱田と清洲の中ほどに疲れを癒すための施設を設けたという。19世紀に描かれた『美濃路見取絵図』に惣兵衛川石橋の西側、この辺りに尾州殿茶屋と記されている。

 
   続きの書き込みは 伝馬橋よりについて Ⅱ
 としています。

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