美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

伝馬橋よりについて Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                                 伝馬橋よりについて Ⅱ

 
 前に進むと屋根神様ありました(屋根神様の下にはお供え物が置かれていました)
     ↓ 屋根神様について書かれた立札
      
     ↓ 屋根神様
               
 
    ↓ 美濃路少し奥まった所の八幡社と掲示板撮る
     
 ↓ 八幡神社掲示板
 

 
     ↓ つづいて西源寺
     
     ↓ 西源寺境内の親鸞聖人像
 親鸞について・・・承安3年生まれ、日野有範の子。妻は恵信尼(えしんに)。浄土真宗の開祖。比叡山で修学し、建仁元年源空(法然)の門に入り、専修念仏に帰依。その頃の念仏教団禁圧により越後に流罪となる。建暦元年にゆるしが出て関東へ行き布教活動をする。60歳ころ京都に戻り、著述と門弟の指導につとめた。絶対他力・悪人正機説を唱えた。肉食妻帯の在家主義を肯定した。弘長2年11月28日、90歳で死去した。親鸞の語録、唯円(親鸞弟子)編『歎異抄』は有名な著である。
     
     ↓ 西源寺本堂
     
   つづいて清音寺
     ↓ 清音寺書き込み立札(清音寺寺名の由来等が書かれている)
     
     ↓ 清音寺
     
     ↓ 清音寺
     
     ↓ 『美濃路見取絵図』に描かれている西源寺、清音寺。
     
 清音寺前より前方に名鉄本線のガードが見えます。ガード向こうには昔東枇杷島市場があった所です。
     ↓ 前方、名鉄本線ガード方向(美濃路)撮る
      
 ここより先に進むと美濃路突き当りになります。庄内川堤防がその先にあり。ここより枇杷島橋を渡るには左坂道を進むことになります。
     ↓ 美濃路庄内川堤突き当りに美濃路道標
     
     ↓ ここで前掲載した八幡社の掲示板に描かれている絵地図を掲載
       弘化4年(1847)枇杷島村が尾張藩に提出した絵図
     
 この絵図を見ると名古屋の方から枇杷島の庄内川に来ると、坂が右側に描かれています。現在の美濃路は左坂を上がって枇杷島橋を渡るという道筋になっています。道筋が右上坂より左坂になった理由は、右坂が急坂ということで、なだらかな左坂を作ったと聞いてます。現在坂の中ほどに黒龍社が祀られています。この黒龍社は昭和33年までに取り除かれた庄内川川中にあった中島に建っていました。
     ↓ 黒龍社
     
     ↓ 黒龍社拝殿
     
     ↓ ここから庄内川に架かる枇杷島橋を渡る
     
     ↓ 枇杷島橋(枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋)
図  江戸時代後期
       『美濃路見取絵図』より
 美濃路枇杷島橋について・・・美濃路には大きな川が5河川あります。庄内川・木曽川・境川・長良川・揖斐川という事になります。この5河川のうち木曽川・境川・長良川・揖斐川には将軍、朝鮮通信使が渡河する際には船橋をかけた記録がありますが、庄内川にはその記録がありません、なぜならば庄内川には江戸時代初め枇杷島橋が架けられたため、船橋は必要ではなかったという事です。枇杷島橋は枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋の3つの橋をそ総称した名称です。
     
     ↓ 枇杷島橋図会 『尾張名所図会』より
     
  ↓ 「枇杷島橋風景」 『名古屋名所団扇絵集』より
  
     ↓ 枇杷島橋図 「枇杷島」より 明治24年
 美濃路は名古屋から枇杷島町へきたのち、枇杷島橋を渡るのですが、ほぼまっすぐの道筋でした。赤色の丸印の所は美濃街道になり、赤丸の中黄色の丸印の所は美濃路と岩倉街道の追分(分岐点)になります。
     
     ↓ 枇杷島大橋 濃尾地震(明治24年)で崩落  4景
 濃尾地震は枇杷島橋のみならず濃尾地方、美濃地方に甚大な被害をもたらした。
     
     
     
     
     ↓ 在りし日の枇杷島橋
     
     ↓ 枇杷島橋辺りの地図 「名古屋案内地図」より 明治42年(1909)
     
     ↓ 枇杷島川堤及び街道図  大正元年 
     
     ↓ 枇杷島橋図「名古屋北部」大正9年頃
 美濃路道筋が変化しています。赤丸点が美濃路筋になり、赤丸の中黄色の丸印の所は美濃路と岩倉街道の追分(分岐点)になります。
 この地図は美濃路を示しているとしていますが、美濃路が機能していた時の美濃路とは明らかに違っています。美濃路が消滅していることを示している地図とみるのが正しいかと思います。大正時代には昔の枇杷島橋が消滅している!!!
     
  ↓ 枇杷島橋・中島の写真
  
     ↓ 昭和20年後半頃に空から撮られた写真
 赤丸点は美濃路、赤丸の中黄色丸は枇杷島橋西詰、赤丸の中緑丸は岩倉街道・美濃路追分(分岐点)、水色丸中青丸は旧枇杷島小橋西詰、緑丸は岩倉街道になります。
 
私が勝手に写真に記した赤色で描いた旧枇杷島橋について書き込みをしたいと思います。旧枇杷島橋が架けられた年数は明確ではありませんが、江戸時代の初め頃といわれています。なぜこのような橋の形になったかというと、江戸時代の橋を架ける技術が今ほどなく、庄内川左岸堤から右岸堤まで一本の橋で架ける技術がなかったという事です。旧枇杷島橋は枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋を総称した名称です。中島は当初からあり、中島を橋台として利用したという事です。中島は当初は小さな島であったようですが、川浚いをした土砂を利用して肥大化させたようです。枇杷島橋を架けた所は庄内川の中にあって最も狭窄部にあたり本来ならば、水害をなくすため中島を小さくするのが賢明かと思いますが、肥大化させた理由についてははっきりわかりません。中島撤去工事は昭和22年頃から始まり昭和33年(途中戦争にて工事が遅れたと聞いています。)に完了。中島撤去により川幅が広くなり水害が減ったといわれています。本来の美濃路枇杷島橋が完全に消滅しています。
     
     ↓ 中島撤去工事風景
     
     ↓ 中島撤去工事風景
     
     ↓ 中島撤去工事風景
     

     
 ◆消滅した美濃路◆
     ↓ 2004年に美濃路・岩倉街道を撮った写真
 緑丸の所は枇杷島橋西詰辺り、赤丸は美濃路、赤丸の中黄色丸は美濃路・岩倉街道分岐点、白丸の中青丸の所は旧枇杷島小橋西詰辺り、黄色丸は岩倉街道になります。
     
 
私はこの写真を撮った後体調を大きく崩して5カ月ほど入院。退院後は外へ出る気が全く失せ長い間家に引きこもりをしていましたが、体調も少しずつ改善し2011年ここ枇杷島橋西詰を訪れ写真を撮りました。(枇杷島橋西詰より撮る)
              
 上の写真では岩倉街道起点地、美濃路の道筋がなくなっています。
   ↓ 庄内川美濃路図(2015年現在)
   
 私は枇杷島橋を渡り、枇杷島橋西詰に立ちました。
 美濃路・岩倉街道道標(往時は枇杷島小橋西詰の所に建っていた)
   ↓ 美濃路について書かれた立札
   
     ↓ 美濃路・岩倉街道道標
     
 ◇ここで下小田井(枇杷島)市場について記載します
 下小田井(枇杷島)市場について・・・美濃路下小田井村に市場を造らせたのは徳川家康といわれています。徳川家康は庄内川を渡河した際、肥沃な地濃尾平野を見わたし名古屋城下の食糧生産に適しているとし、家康が庄内川を渡河に際して功績のあった野口市兵衛、山田久左衛門に下小田井の地に市を開かせることを命じた。下小田井市場として造られた市は大きく発展をし最盛期には日本青果三大市場の一つといわれるまで繁昌した。美濃路最大の市場であった。下小田井市場は明治の中頃まで続き、その後は、東枇杷島市場が加わり名称も枇杷島市場と改められた。現在は枇杷島市場が手狭になったため他の地に移転されており下小田井(びわじま)市場はなくなりました。
 これより先は美濃路沿いにあった下小田井(枇杷島)市場の写真等を掲載します。
     ↓ 枇杷島市場(東枇杷島側)
     

     ↓ 枇杷島市場 中島より西方望む
     

 
    ↓ 枇杷島小橋から問屋町望む写真
     
     ↓ 明治43年当時の問屋町界隈の市場風景
     
  ↓ 昭和初期枇杷島市場問屋配置図
 この配置図の枇杷島橋は江戸期に架けられた橋の位置とは異なっています。私が思う理由の一つに、明治期になると車(大八車・リヤカー)で荷物を運ぶようになったため。庄内川の坂が急坂であったため上るに困難であったと思われます(特に東枇杷島側)。枇杷島橋を少し庄内川下流に架けられました。
  
      ↓ 美濃路西枇杷島始地点
 現在の枇杷島橋を渡り、枇杷島橋西詰より県道を少し下ったところに美濃路があります。
     
     ↓ 2004年上の写真とほぼ同じ場所を撮った写真
       変化の様が見れます。
              
 *番外掲載・・・この辺りの美濃路、濃尾地震で大災害を受けました。濃尾地震の影響で倒壊した家屋はどれほどかは知りませんが、濃尾平野の広い範囲でその影響を受けた。濃尾地震のすさまじさは想像を絶するものだったと思われる。(先に掲載した枇杷島大橋崩落も濃尾地震によるもの。)

     ↓ 西枇杷島町(美濃路)の震災後の写真
 後ろに写っている崩落した橋は、国鉄東海道線の高架橋になります。
     
 清須市西枇杷島町では毎年尾張西枇杷島祭が催されています。かって日本3大青果市場があり大変栄えた町でした。市場のおかげといっても過言ではないと思いますが、西枇杷島町には5輌の山車があります。西枇杷島町の美濃路は祭りの日には人・人・人でごったがえします。少し写真を掲載します。
     ↓ 尾張  西枇杷島まつりポスター
 私の子供の頃は西枇杷島祭といっていましたが、今は尾張西枇杷島まつりといっています。また花火も子供の頃はあげられていませんでした。いつ頃からあげられるようになったかですが定かに記憶していません。
     
 
     ↓ 泰亨車   この通りは美濃路になります。
     
 ◇ 舵手と担ぎ手の「呼吸」により曲場(まえば)が行われます。曲場とは山車を回転させることの呼称のようです。
     ↓ 曲場
     

     ↓ 王義之車
     
     ↓ 5輌山車勢揃い
     
     ↓ 紅塵車
 西六軒町の紅塵車は、『名古屋名所団扇(うちわ)絵集』に描かれている。画題は「枇杷島祭礼」として。
     
     ↓ 西枇杷島町JR東海道線より新川橋までの間に古民家あり撮りました。
     
 この古民家について・・・西枇杷島町で戦前に建てられた木造三階建ての建物はここだけ、1891年に建てられた。現在はお好み焼きの店「麦」として使われている。開口部はすべて格子戸であったが、現在は二階に格子の一部が残るだけである。外壁はほとんど改修されているが、建てられた頃の姿を想像するも楽しい。
     ↓ 美濃路新川橋までの間に3軒屋根神様が祀ってあり撮りました
     
     ↓ 屋根神様
     
     ↓ 屋根神様
     
 美濃路新川橋少し手前に瑞正寺という寺が建っている。この辺りの地名は土器野新田、江戸時代はこの北あたりに刑場があり罪人が処刑された場所とされている。罪人の罪状により処刑のされ方も異なったようで、今では考えられない公開の場での処刑である 。罪人が処刑されるとなると大勢の見物人が集まったとされる。
     ↓ 瑞正寺について書かれた立札
     
     ↓ 瑞正寺
     
     ↓ 瑞正寺宝塔
     
 ◇瑞正寺を過ぎ新川橋に出る
     ↓ 新川橋あたり絵図  『美濃路見取絵図』より
     
     ↓ 新川橋
     
     ↓ 昔の新川橋
               
  新川橋を渡ると津島街道と美濃路の分岐点に出る。津島街道は新川橋西詰より少し南へ堤防を進み津島街道入口から津島へ行く街道です。
     ↓ 津島街道と美濃路の分岐点
    赤線は美濃路、緑線は津島街道、赤丸の中緑丸は美濃路と津島街道追分。
      
     ↓ 津島街道道標・・・この道標は新川橋西詰の美濃路上にあり津島街道を示した。清洲五条橋の欄干親柱を利用して作られたといわれ、道標、常夜灯として利用された。
     
     ↓ 津島街道、新川堤防からの入口
     
   ↓ 土器野新田絵図(明治3年)
   
 新川について・・・新川は開削して作られた運河です。庄内川がよく氾濫、決壊するのでその解決策としてこの新川が作られたということです。上流に洗い堰がありそこが庄内川とつながる所となります。庄内川が増水した時には洗い堰より庄内川の水を流し、庄内川の氾濫、決壊を防ぐということです。残っている記録では庄内川左岸堤防が決壊したこともあるようですが数は少なく、ほとんどが右岸堤防の決壊ということです。一つに庄内川左岸堤防は右岸堤防より高く作られている。もう一つは庄内川が氾濫、決壊しそうになるとお役人が出てきて庄内川右岸堤防を切らせたということがあったようです。左岸堤防の決壊が少なかったことはこのことが起因していると考えられます。新川ができたことで庄内川の氾濫、決壊が少なくなったといわれます。
     ↓ 須ヶ口一里塚趾之碑
     
 須ヶ口一里塚趾・・・熱田宿から古渡、江川を経て3つ目の一里塚。かってはこの一里塚橋にまたがり、橋の両側に小塚があって榎の老樹が茂っていた。その後、用水の改修で跡形もなくなってしまったが、美濃路を偲ばせる史跡の一つである。1995年新川町制50周年記念として、この記念碑が建てられた(新川町は現在4町合併にて清須市になっている)。
 今は川はありませんが一里塚の趾の東側に橋は架けられています。橋名(橋)を名残として残したんでしょうか。
     ↓ いちりづかはし
     
   ↓ 須ヶ口村・西堀江村辺りが描かれて絵図  『美濃路見取絵図』より
   
     ↓ 
前に進むこと正覚寺
     
 ◇外堀一里塚道標(正覚寺内に置かれている)
     ↓ 外堀一里塚道標について書かれた立札
     
     ↓ 外堀一里塚道標
                 

 
   続きの書き込みは 清須宿よりについて Ⅰ
 とします。

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