美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

起点地(追分)よりについて Ⅰ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                 起点地(熱田追分)~名古屋宿へ
                  起点地(追分)よりについて Ⅰ

 追分とは・・・美濃路を例に追分を説明すれば、美濃路は熱田宿~垂井宿(垂井追分)までの行程をとります。熱田宿から垂井宿へ向かう場合は熱田宿が起点地となり垂井宿(垂井追分)が終点地になります。垂井追分から熱田宿へ向かう場合は垂井追分が起点地、熱田宿が終点地となります。追分とは街道の起終点地の意味を持つと思います。もう一つは街道と街道の分岐点を指す言葉かと思います。美濃路の場合は一方は東海道との分岐点、もう一方は中山道との分岐点という事かと思います。
   ↓  
美濃路道標
   
       ↓ 熱田宿~名古屋宿への概略図
 赤い線交差路は国道1号線との交差路。美濃路は国道1号線に阻まれ進むことはできませんでした。進めない道路は道路ではない、街道ではない。よって消滅した美濃路と考えました。また、黒点線部分は国道19号線(美濃路と称している)、往時の美濃路道幅は約6間(約11m)程と思います。現在の国道19号線道幅は約50mほどで、あまりに広く拡幅されており、これほど広い国道は街道と思えない道路と考えました。よって国道19号線は消滅した美濃路と捉えました。
             
 ◇熱田宿起点地辺りから名古屋を描いた絵地図があり掲載します。美濃路は脇往還になりますが、熱田宿より名古屋の中心(城下)に向けて通り、現在の桜通一筋南の伝馬町通を左折するといった街道です。熱田宿から美濃路で城下へ行く道は本町通といい、名古屋城下の中心を通る重要な街道です。脇往還といえどもその重要性は5街道に匹敵する街道であったと思います。
     ↓ 美濃路起点地辺り~名古屋辺りまでの図 『名古屋地図』より 天明2年
     
 ↓ 熱田起点地辺り~広小路辺りまでの地図  明治24年測図
  赤丸点は美濃路、水色丸点は佐屋街道、青丸の中赤丸は美濃路起点地(東海道と美濃路、佐屋街道の分岐点)、佐屋街道と美濃路は起点地を同じとします。
 
 ↓ 熱田追分(起点地)から橘町辺りまでの図 『名古屋市全図』  明治44年
 
 ↓ 起点地辺りより(源太夫社~熱田神宮第二神門辺り絵図)『美濃路見取絵図』より
 
 ↓ 起点地辺りより(源太夫社~熱田神宮第二神門辺り絵図)
   『東海道分間延絵図』より
  
 ↓ 上の絵図部分 『東海道分間延絵図・解説編』より
 
 ↓ 起点地辺り~東本願寺辺り図 
   『大名古屋名勝交通鳥瞰図』より  昭和8年(1933)
 
 
    ↓ 東海道と美濃路の起点地(追分)より前方撮る。
 
因みにこの通りは熱田宿高札場が建っていた場所、札の辻と呼ばれていたと思われます。美濃路は熱田宿の中心地を起点地にしていることになります。美濃路は国道1号線に阻まれ直進できませんでした。因みに、起点地(追分)西地点には高札、東北地点角には東海道と美濃路の追分道標が建っていた所と思います。
     
 佐屋街道は美濃路と同じ所を起点地としていますが、途中にて美濃路と分岐することとなります。前に進むことすぐに
国道1号線があり、美濃路をまっすぐ進む事はできませんでした。少し回り道をして美濃路続きの道に出ました。
     ↓ 美濃路続きの道を撮る
     
     ↓ 蔵福寺
 上の場所よりすぐの所に建っていました。亀宝山と号し浄土宗西山派。創建時期は不明、宝暦2年(1674)に二代藩主光友の命によって境内に鐘楼を建て、時の鐘を撞き始めた。戦災で焼失したが、時の鐘は免れて保存されている。宮の渡し公園にある時の鐘は戦災前までは蔵福寺にあったということになります。
     

     ↓ 神宮正門前より美濃路前方撮る
      美濃路は蓬莱軒過ぎの所より左折になります
     

     ↓ 美濃路右折方向を撮る
 熱田神宮正門の前の道を進むと国道19号線に出ます。美濃路はここを右に曲がるということですが、道路幅広い国道19号線は美濃路ということになるのでしょうか。
     

 私はここから誓願寺へ向かいました。ただ、誓願寺へ行くには国道19号線を横断するということですが、ここも横断は簡単にはいかず少し回り道をして横断歩道橋を渡り、反対側歩道に行きました。歩道橋の上から見た光景は、今では当たり前の光景ですが、美濃街道と合わせて考えるとかなり違和感がありました。美濃路は歩く街道、国道19同線は車の往来が激しい怪物街道といえるんではないでしょうか。この光景を目の当たりにして思うに、古き美濃路を探し求めることにはあまりこだわらず、現在の美濃路はどうなっているのかを確かめればよいのではと思いました。家に帰りこの写真を見た感想です。
 ◇国道19号線(熱田神宮西道路)
 美濃路がかなり拡幅されていると見ました。往時の美濃路はこの中に含まれ、美濃路路にあたる所があるかとは思われますが、あまりにも広く、往時の美濃路がどこにあるのか全く見当がつきませんでした。見当さえつかない美濃路路は美濃路ではない。私の判断は、ここは消滅した美濃路と考えます。因みに、国道19号線は両側10車線、東西に歩道と中央分離帯がある幅広い道路です。1/1500の地図で見ると道路幅は約50m程あります。現在の国道19号線が作られた詳細については知りえませんが、『愛知の建設』によると、明治6年8月2日、大蔵省より道路修築規則が定められ、東海、中山、陸羽諸道の如き、全国の大経脈を通ずるものを1等道路とし、各部の道路を、大経脈に接続する脇往還枝道を2等道路とし、村市の経路を3等道路とした。国道1等は7間、2等は6間、3等5間。県道は4~5間。里道は一定せずとしている。美濃路は3等とし名古屋鎮台より愛知県中島郡に至る道路としている。
 『愛知の建設』の中には熱田神宮西の国道19号線について書き込みがされていませんが、『愛知の歴史街道』の中に次のような記述があります。「明治初期に定められた街道名によれば、熱田(宮の宿)から名古屋城付近までは、2等国道名古屋街道と名付けられましたが、ここでは美濃路に含めてしまいます。」と書かれていることから、名古屋街道と名付けられた街道は現在の本町通の可能性が高いと考えました。仮に美濃路・本町通が二等国道幅(約6間)であったとして計算すると約11mとなり美濃路・本町通が約4本半作れる街道幅になります。美濃路にはかって熱田神宮第一神門と第二神門がありましたが、かなり巨大な鳥居と思われます。ただ、現在の熱田神宮内には大鳥居が5か所にありますが、私が見る限り5か所の大鳥居ほぼ同じ位の大きさではと見ました。私が東門とされる所の鳥居を実測してみましたが、内幅約6m、外幅約8mほどでした。熱田港に浜鳥居が建てられており写真をみましたが、現在の熱田神宮内にある鳥居とほぼ同じ位と見ました。少し余計な話になりますが、熱田神宮第一神門、第二神門が同じぐらいの大きさと考えた場合、鳥居の大きさに見合う美濃路幅が判断できるのではないでしょうか。
 〔写真中に凡その美濃路幅(緑色矢印)を記しました(かなりアバウトです)。国道19号線幅を約50m、美濃路道幅を約6間と仮定、1間は約1.82mで凡そを計算しました。美濃路幅を6間と仮定して、美濃路幅=国道19号線幅と言われれば国道19号線は美濃路という事になり、違うとなれば国道19号線は消滅した美濃路であると考えます。
 国道19号線幅を約50m、美濃路を約6間とした場合、美濃路幅は国道19号線の約4.5分の1として答えを出しました。また、19号線の中美濃路の場所はどこでしょうか。〕

 ↓ 歩道橋より撮る
 
 ↓ 美濃街道熱田追分・国道19
号線上空よりの写真
 緑線は東海道、赤線は美濃路、赤点線部分は国道1号線と国道19号線で遮断された部分。横断できない道路になっており通ることができない道路、通ることができない道路は消滅した美濃路になります。緑丸の中赤丸は美濃路と東海道の追分(分岐点)になります
 

     ↓ 白鳥御陵の碑
 少し進むとありました。白鳥古墳は6世紀初期に建造されたと考えられている。前方後円墳で法持寺のすぐ隣に位置する。かっては法持寺が管理していたが、明治9年(1876)からは熱田神宮に、戦後は名古屋市に管理が移された。
     

      ↓ 誓願寺
 少し進むとありました。藤原季範の娘由良御前は源の義朝の正室になり、身ごもって久安3年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれている。
     

     ↓ 源頼朝出生地の碑
     

 誓願寺の門は撮れましたが本体(本堂)はありませんでした。門のみを残したと思われる。
     ↓ 誓願寺図会 『尾張名所図会』より
     

     ↓ この図絵右側に「きよめの茶所」が描かれています(トリミング掲載)
     
     ↓ 在りし日の清めの茶所図
     
     ↓ きよめ餅
     

 伊勢の名物といえば「赤福」、熱田名物といえば「きよめ餅」があります。きよめ餅の由来があり記載します。・・・天明5年ごろ(江戸中期)「きよめの茶所」が設けられ、熱田神宮参詣の人々はここでお茶を頂いて疲れを休め、姿を正しく神前にぬかずくのを習わしとした。その茶所にちなんで「きよめ餅」を売り出したところ、その高い風味が忽ち評判になり「熱田詣りにきよめ餅」「名古屋土産にきよめ餅」と全国に名を知られ参宮のお土産はもとより、お茶うけ、御贈答品として賞味されてるとのこと。今現在も熱田神宮内に「清め茶屋」なる屋号の茶屋がありますが、きよめ餅と関係があるんではないでしょうか。
 この場を後にして進むと美濃路は熱田神宮北道路と交差します。この辺り旗屋町になります。
     ↓ 国道19号線中央分離帯より前方撮る
 ここより見る景色は迫力はあります。ただ、昔の街道幅より4~5倍はあり往時の美濃路ではないとの判断にて、消滅した美濃路としました。

              

     ↓ 横断歩道を渡り振り返り改めて熱田の杜を観る
      熱田の杜は広大で緑多き杜と実感しました
     

     ↓ 少し前に熱田郵便局(昔でいうなら飛脚屋さんといった所でしょうか)
     

     ↓ 少し昔昭和を感じさせてくれるたばこ屋さん
     

     ↓ 次には断夫山古墳
     

 断夫山古墳・・・東海地方最大の前方後円墳で6世紀初期に建造されたと考えられている。熱田神宮の敷地も含めてかっては熱田神宮の管理下にあったが、第二次世界大戦後に名古屋市の戦災復興事業に伴い借換地になり、1980年(昭和55年)に愛知県の所有となって現在に至る。1987年(昭和62年)7月9日国の史跡に指定された。
     ↓ 團夫山(断夫山)・白鳥陵・熱田神宮の位置図
     
     ↓ 浄土宗 寿琳寺
     

 青大悲寺(結構雰囲気をもった寺でした。)
     ↓ 青大悲寺と鉄地蔵について書かれた立札
     
     ↓ 青大悲寺
     

     ↓ 前に進み地下鉄の出入り口とともに国道19号線撮る
     

     ↓ 今度は横断歩道向こう側に雰囲気ある自転車屋
     

     ↓ 次はトヨタ自動車のビル
     

     ↓ 次は今では珍しくない回転寿司店スシロー
     

     ↓ 次はガソリンスタンド(車を走らせるに欠かせない燃料)
     
     ↓ 前に進むと熱田神宮第一神門址と刻まれた碑がたっていました
 熱田神宮よりかなり離れた所に建っており、改めて熱田神宮の存在の大きさを実感した次第です。
     
     ↓ 「熱田神宮一の鳥居(寒中大宮夜参りの図)」 『尾張名所図会』より
     

     ↓ ビルとビルの間に古民家あり撮りました
 ここまで美濃路を進んできましたが、美濃路といってもその雰囲気を感じることが全くできませんでした。ただただ、車の多さに驚くばかりといった所です。
     

 少し進んで消滅した美濃路と佐屋街道の分岐点。国道19号線の雑踏の中、消滅した美濃路と消滅した佐屋街道は同じ道筋で来ましたが、ここより佐屋街道は西方向に行くことになります。
     ↓ 佐屋街道道標(戦災にあい破損、痛々しい感が否めません。)
     
  ◇佐屋街道道標の書き込み
  東 右 なごや 木曽 海道
  西 右 宮海道 左なこや道
  南 さや海道 津しま道
  北 文政 辛巳年六月 佐屋旅籠屋中
    と刻まれています

     ↓ 佐屋街道道標とともに国道19号線前方撮る
       佐屋街道はここより左折(分岐)する。
     

     ↓ 佐屋街道前方(佐屋街道は消滅した美濃路と分岐し西方向へ)撮る。
     
 佐屋街道・・・東海道は宮宿から桑名宿まで海路「七里の渡し」を経由し多くの旅人に利用された。しかし、天候や潮の干満など不確実な要素が多々あり船にて船酔いなどの心配から熱田から美濃路と同様の道を北へ進み、この場所から美濃路と分岐して西へ行く街道。岩塚、万場、神守そして佐屋宿と四つの宿場を経て佐屋「三里の渡し」より佐屋川を下り木曽・長良・揖斐川河口を横切り桑名へ至る。佐屋回りと呼ばれる。脇往還(街道)、佐屋街道も多く利用されていた。寛永11年(1634)開設された。
   ↓ 美濃路・佐屋街道分岐点辺りの絵図 『美濃路見取絵図』より
   
 佐屋路の分岐点を過ぎると名古屋と町続きの古渡村。江戸時代にはこの分岐点南を熱田、北を名古屋といい、ここから佐屋路がのびていたので「三所の堺」といわれていた。
     ↓ つづいて金山橋(陸橋)
 私は陸橋の上から写真を撮りました。この金山駅は写真では分かりにくいかと思いますが、線路左側がJR中央本線、真ん中が名古屋鉄道本線、右側がJR東海道本線と三線が集まった駅になっています。どの線もこの地方の方ならば一度は利用されたことのある鉄道かと思います。金山駅には他に市バス、地下鉄の駅もあり交通に関しては非常に便利な場所と思えます。
     

     ↓ 最近はどこでも見かけるようになったコンビニ
     

     ↓ 名古屋高速が通る交差点に出ました(交差点右方向撮る)
     

     ↓ 国道19号線前方撮る
     

 ◇私はここから道草、国道19号線を離れて古渡城跡、名古屋別院を見に行きました。
 東別院・・・真宗大谷派東別院、名古屋御坊、東別院とも称する。元禄3年(1690)東本願寺一如上人によって開創。諸堂は名古屋の宮大工伊藤平左衛門の手により元禄15年に完成した。本堂は壮大な規模と精緻な建築美を誇ったが昭和20年(1945)の戦災で焼失した。現在の本堂は昭和37年の再建である。境内西の梵鐘は尾張藩鋳物師頭水野太郎左衛門家によって元禄5年に作られたもので、名古屋市指定文化財となっている。
     ↓ 真宗大谷派東別院楼門
     

     ↓ 真宗大谷派東別院本堂
     

     ↓ 真宗大谷派東別院本堂
     
     ↓ 「東本願寺掛所 其一」図会 『尾張名所図会』より
     
     ↓ 其二
     
     ↓ 其三
     
 ↓ 東本願寺全図
 
     ↓ 東本願寺掛所図会 『尾張名陽図会』より
     
     ↓ 本掛所桜絵  『尾張年中行事絵抄』より
     

     ↓ 東本願寺御遷仏行列之図 
     
     ↓ 名古屋博覧会 明治7年(1874)東本願寺別院で行われた
     
     ↓ 在りし日の東本願寺別院
     
     ↓ 在りし日の東別院
     

    
 ↓ 東本願寺別院
 大正時代春と秋の彼岸には多くの露店、見世物、サーカスなどが境内に並び、多くの参詣者を楽しませた。参詣後は本町通(美濃路)を北上して大須界隈を賑わした。
      

     ↓ 古渡城趾の碑
 東本願寺別院境内に立てられている。古渡城は織田信秀が天文3年(1534)築城したといわれる。信秀はそれまで今川氏豊から奪取した那古野城にいたが、その子信長に那古野城を譲りここに移った。信長はここで天文15年(1546)13歳で元服したと伝えられる。城は東西140メートル、南北100メートルの平城で周囲に二重の堀を巡らしていたといわれる。天文17年信秀が末森城に移り廃城となった。
     
 
この場所を離れ国道19号線に戻りました。

  続きの書き込みは 起点地よりについて Ⅱ としています。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« 熱田宿よりについて | トップ | 起点地よりについて Ⅱ »