美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

起宿よりについて Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                                     起宿よりについて Ⅱ


   ↓ 金刀比羅社前の道(南道)は定渡船場へ通じる道であった。
   
   ↓ 史跡 起渡船場跡~定渡船場~ 掲示板の書き込み
   

   ↓ 起定渡船場(大正中頃)
   

   ↓ 起渡船場(昭和15年)
   

 ◇美濃路を通った諸侯はどの程度だったか
  ↓ 一例として享保8年(1723)に木曾川を渡船した月日・氏名・上りか下りであったか、起宿の船庄屋の覚書を記したもの。
  
      ↓ 起渡し場について「湊につどう」と題して書かれている。
     
 川と共に生きた人々について・・・木曽の流れは、悠久の古から、時に氾濫して民の暮らしを破壊し、時に大地に水を通して沃野と化すことがあったが、天正以来500年にわたって尾張側の堤防を打壊すことはなかった。明治以前、川は重要な交通路で、江戸から届く品物は買継問屋を経て隣村各地の村々に運ばれた。川のもたらした暮らしの文化は、地域の経済と精神の豊かさの上に大きな役割を果たした。堤に桜を植えて春の川を楽しみ、夏は遊泳の場として納涼を楽しむなど、人々は川に様々な思いをこめてきた。
 木曽は、大河である。頼山陽(当時18歳)は寛政9年(1797)3月29日墨俣宿から美濃路を下り、起川を渡った。「東遊漫録」に、その時のもようを次のように記している。「尾越川(木曽川の呼称)を渡る。未だ知らざるものは其川なる事を信ぜず。先きの岸にあるものは、山也や、岸也や、島也や見えわかず。大海に乗りでたるが如し。中流に至れば、こしかたの岸も又見へず。関東・西国・中国を尋れども、未だこの川のごときものを見ずとぞ、川の南は尾張也」。かくて3月30日、山陽は宮宿に宿り、4月11日江戸に到着している。山陽の越した川は今も変わることなく流れつづけている。  と記載されていました。

 木曾川堤について・・・徳川家が豊臣家の対決において東西軍の全面的戦となるならば、木曽川が攻防上の前線となる可能性が高いので、西軍に対する防衛線の役割を果たしているのは、木曽川左岸の「御囲い堤」の存在である。この御囲い堤は、伊奈忠次が家康に命じられて慶長13年(1608)に着手し、2年間で完成した。この堤防は犬山から弥冨まで延長約48kmで尾張地域をすっぽり囲み、防塁の働きをしていたと考えられる。この堤防により美濃側は洪水が多く1753年の宝暦の治水までの145年間に110回の洪水が発生した。この結果、木曽川右岸の岐阜県側には輪中が多く発生した。この付近の木曽川について、美濃川の右岸堤防は「3尺(約1m)低かるべし」とのお触書が存在したか、また、この木曾川右岸・左岸の堤防の高さが実際に3尺違っていたかもとして専門家の中で論争になっているとしている。
   ↓ 内藤東圃画加藤磯足賛木曾川堤普請図
         
 ここより美濃路を離れて披本陣を見に行きました
     ↓ 披本陣跡の碑
     
     ↓ 披本陣跡に立てられていた立札
     
     ↓ 披本陣跡
 披本陣は文政8年(1825)吉田氏の創設する所。起宿休泊の諸侯が異変にあうや、その逃避所として設置された建物。明治3年廃止。
     
 披本陣を写真に撮り濃尾大橋に戻りました。起宿内は独特な雰囲気を醸し出している町で、現在でも渡しが行える体制が整っているような感じさえしました。

 ≫この濃尾大橋を渡り起宿を出ることになりますが、寂しいかなこの濃尾大橋は美濃路には当たらないということです。
     ↓ 木曽川(起川)左岸より濃尾大橋撮る
      
     ↓ 濃尾大橋
      
 濃尾大橋を渡り美濃路の旅を進めることにしました。まず濃尾大橋の真ん中あたりで橋上より東西南北の風景をカメラで撮りました。
     ↓ 橋上より起宿側(東方向 木曽川左岸)
     
 
     ↓  木曽川上流(北方向)
     
     
↓ 羽島市側(西方向)
     

     ↓ 木曽川下流(南方向)
     
     ↓ 濃尾大橋を木曽川右岸(西提)より撮る
      
 この濃尾大橋を渡り、先人がこの木曽川に船橋を架けたことに改めて感心するのみです。おそらく現代において船橋を架けるとすれば相当な船橋を架ける技術と労力が必要ではないかと改めて思いました。
 起宿には船橋河戸、宮河戸、定渡船場の3カ所に渡し場がありました。それに対して羽島市側には船橋河戸に対しては三柳村の中に船橋場(場所特定困難)が設けられた。宮河戸に対しては新井村に燈明河戸が設けられ、起定渡船場に対しては新井村の中に渡船場が設けられ、渡船をおり川原を通って大浦村定渡場(金刀比羅社前)を通ったのが通常の渡船コースであった。現在は羽島市側の渡船場とされる所は草が生い茂りその面影さえも感じることはできない。
   ↓ 起宿対岸三柳村・新井村・大浦村絵図 『美濃路見取絵図』より
   

     ↓ 起渡船場石灯台
 明治7年(1770)の「おこし川渡場」と刻まれた常夜灯が移築された、彦根藩儒者龍公美の漢詩がある。
     
     ↓ 
在りし日の起渡船場石灯台
     
     ↓ 木曽川「正木の本堤」 について書かれた掲示板の絵図
     

 木曽川、正木の本堤について・・・羽島市正木町大浦地区は、以前は大きく「く」の字形に屈折する木曽川右岸堤の外にあった。川側に大浦輪中堤が小堤としてあったものの木曽川洪水の際には決壊し、度々惨害を被っていた。大正10年より始まった木曽川上流ではなく、当初「く」の字形の旧本堤を拡築する計画であったが、大浦輪中水防組合の度重なる要望と木曽川河道の線形を考慮し、川側の大浦輪中堤を新たに本堤として拡築することとした。工事は昭和17年11月に着工し、昭和13年10月に3千メートルの新提を完成した。この竣工により大浦地区は堤内となり家屋43戸(当時)及び耕宅地75町歩は積年に亘る水害の脅威から解放され、また、廃提となった旧堤敷、廃川敷約20町歩新たに耕地として利用できることとなった。この事跡を永く後世に伝えるため、大浦輪中水害予防組合は昭和16年、木曽川堤脇に「本堤改築碑」を建立した。
        ↓ 船橋趾碑(羽島市三ツ柳に立てられていた)
     
     ↓ 七間の松(羽島市下大浦と新井付近の1993年美濃路松並木風景)
  

     
 木曽川堤の坂を下り前に進みました。
 道路右角に美濃路道標〔大浦(三ツ屋)の道標〕
     ↓ 大浦(三ツ屋)の道標について書かれた掲示板の書き込み
     
     ↓ 大浦(三ツ屋)の道標
              
        ↓ 横から撮った道標
        
 
金刀比羅社(美濃路を少しそれて見に行きました)
   ↓ 起渡船場跡~定渡船場跡~ の掲示板の書き込み
               

     ↓ 金刀比羅社
       
       
 ここより進むと一里塚跡の碑(正木小学校内に建っていました。)
     ↓ 一里塚跡の掲示板書き込み
     
     ↓ 一里塚跡の碑
     

     ↓ 前に進んで法啓寺
     

     ↓ 正木町須賀本村の標識のある信号撮る(前方道路は美濃路)
     

 つづいて金刀比羅権現(及が橋石燈籠)
     ↓ 及が橋石燈籠について書かれた掲示板書き込み
       この辺りの地域は水害がよく起きる所であったようです
     
     ↓ 及が橋石燈籠
     

 現在は輪中はなくなっている。昭和13年「正木の本堤」の完成により、この辺りの治水はかなり改善されたと思われる。また、木曽川の治水工事等が行われ水害に見舞われることが激減したと思われる。
 ↓ 足近輪中全図
 
     ↓ 須賀駅(美濃路は名鉄竹鼻線と交差する)
     
     ↓ 正木村須賀地内の美濃路  大正13年(1924)撮
     
     ↓ 及が橋について書かれた掲示板の書き込み
     及が橋は土橋であったこと、橋名の由来等が書かれており興味深い
               
     ↓ 及が橋
     
     ↓ 間の宿の門
 間の宿の門は美濃路の史跡、美濃路の起宿と墨俣宿のほぼ中間地点にあったため間の宿と呼ばれた。間の宿で休息ができたのは大名・貴人・高僧などで、駕籠屋などが一息入れた立場は一里塚と間の宿の中間点に置かれた。
     
  ↓ 美濃路の史跡についての掲示板書き込み
  
     ↓ 上の掲示板の中消えた美濃路の地図(トリミング)
     

     ↓ 間の宿掲示板横に西方寺道標(美濃路前方とともに撮る)
     

 ※ 阿遅加神社の鳥居前を「消えた美濃路」が通っていた!
 阿遅加神社・・・ 阿遅加神社鳥居前を通っていたとされる美濃路は、「消えた美濃路」と称されている所になります。阿遅加神社は足近10郷(足近輪中内の村々)の惣社であり、境内に雨石があり、農業用水が十分機能しなかった昭和20年頃までは、雨乞いの参拝に訪れる人が多かったといわれる。また、美濃路は阿遅加神社の鳥居前(南側)を通っていた。
 ↓ 阿遅加神社縁起 掲示板書き込み(阿遅加神社祭神は日本武尊)
       
      ↓ 阿遅加神社参道 
        
     ↓ 在りし日の阿遅加神社
     
     ↓ 阿遅加神社社殿
     
     ↓ 阿遅加神社社殿東側より撮る
     
     ↓ 在りし日の阿遅加神社拝殿
     

     ↓ 阿遅加神社奥社殿
     
   ↓ 坂井村周辺の絵図 『美濃路見取絵図』より
      
 消えた美濃路の部分は回り道をして美濃路続きの所に行きました

 美濃路続きの辺りに立場があったようですが、今は立場の面影は全くありませんでした。立場について同じことを書き込んでいますが、この立場にも茶屋やうどん屋等があり、旅人に一服の休息を与えた場所かと思うと嬉しくなります。
     ↓ 立場があったと思われる辺りを撮りました。
     

 ここより前に進むこと境川堤防に出ました。左堤防坂をあがっていくと、堤防上辺りに親鸞聖人の碑(西方寺道標)がありました。
     ↓ 西方寺道標と美濃路前方(境川左岸堤防)を撮る
       赤丸点は美濃路、緑丸点は鎌倉街道になります。
     
     ↓ 辻地蔵と西方寺道標
     

  ここより美濃路を離れて西方寺を見に行きました。

     ↓ 西方寺道標と共に鎌倉街道西方寺方向を撮る
     

 西方寺へ行く道は境川左岸堤防になります。この道は西方寺前を通り過ぎる道になります。その昔は鎌倉街道だったと聞きました。
     ↓ 南無地蔵菩薩(西方寺に向かう途中に建っていました)
     

    西方寺
   ↓ 西方寺について書かれた掲示板の書き込み
   
     ↓ 西方寺
     

     ↓ 西方寺
     
     ↓ 在りし日の西方寺
               
 西方寺について・・・親鸞聖人が関東より上洛する際この地に寄ったと思われる。その時寺は天台宗であったが、親鸞聖人とその時の寺の住職が師弟関係を結び、親鸞の教えの浄土真宗に改めたとしている。
 少し私ごとになりますが、私は愛知県清須市西枇杷島町に住んでいます。偶然でしょうか、私の住んでいる町にも同じ寺号の西方寺があり、親鸞聖人が立ち寄ったとされ、その時同じく天台宗から浄土真宗に改めた寺になっています。寺が宗派を変えることはそれほど簡単に行えるものではないと理解しています。その時すでに親鸞の教えが日本各地に知れ渡っており、その教えを元々理解していた寺の住職が改宗したと思えるのですが詳細は分かりません。
        ↓ 清須市にある西方寺
              

 西方寺から元の美濃路の場所に戻り前に進みました。
     ↓ 前に進み美濃路前方撮る
       境川左岸堤 右側にはひがしさかいがわはし
     
     ↓ 古民家撮る(美濃路沿いにレトロ感のある家)
     

     ↓ つづいて羽島市指定史跡一里塚跡の碑
     

     ↓ 一里塚の碑とともに美濃路前方撮る(境川左岸堤)
     

 この先墨俣に行くことになります。境川を渡り墨俣川(長良川)を渡る道筋になると思いますが、ここ境川から眺めるとどのように道筋があったのか想像がしにくい所になっています。そのあたり『美濃路見取絵図 解説篇』の図で見てみたいと思います。
  ↓ 西小熊村辺りの図  『美濃路見取絵図』より
   
  ↓ 『美濃路見取絵図・解説篇』図
  
     ↓ 墨俣川小熊街道替之図
     
     ↓ 美濃路小熊川船橋絵図  寛延元年(1748)
     
 美濃路は境川を渡船にて渡り御茶屋新田村に入り、渡し場より垂井宿に行くことになります。『美濃路見取絵図』にてその辺りを見取ることはできますが、詳細な地図にはなっていないがため概略をつかむのみにとどまっていると思います。『美濃路見取絵図』を現状に照らし合わせてみることは私にはできませんでした。
 墨俣宿へ行くに長良大橋を渡る
     ↓ 長良大橋
          
  


   続き
の書き込みは 墨俣宿よりについて Ⅰ としています。

 

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