美濃路・THE美濃路

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名古屋宿よりについて Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                    名古屋宿よりについて Ⅱ


     ↓ 「桜天神 植木市」絵 『名古屋名所団扇絵集』より
 桜天神社に面している「桜通」はこの「桜天神社」に由来しているといわれる。かっては「桜天神植木市」がひらかれ、本町通、長者町通は大勢の人で賑わった。
     
     ↓ 桜天神社絵  『尾張年中行事絵抄』より
     
     ↓ 名古屋天神参りポスター
     
     ↓ 本町三丁目図会  『尾張名所図会』より
 本町3丁目は碁盤割の中心部に位置し、毎年2月25日には桜天神祭植木市が行われており、この図会はその様子を描いたものと思われる。
        
     ↓ 「本町四丁目大丸屋店 植木市其二」図会  『尾張名所図会』より
 大丸屋の店前では毎年2月25日、桜天満宮祭礼前後3日間植木市が開かれた。大丸屋は享保2年(1717)下村彦右衛門正啓が京都伏見に「大文字屋」を開業(大丸屋創業)。享保13年(1728)名古屋本町4丁目に名古屋店を開き、初めて「大丸屋」と称する。
               

     ↓ 杉の町交差点を過ぎ魚の棚本町通交差点撮る
     

     ↓ 図鑑より
 この絵の中、現金掛け値なしの店の暖簾が描かれていますが、伊藤呉服店(のちの松坂屋)と思われます。絵右方向は北(名古屋城が建っている方向)。絵左方向は南(東照宮御旅所)がある方向となります。
     
     ↓「京町通茶屋町伊藤呉服店」 『尾張名所図会』より
     
     ↓ 在りし日の伊藤呉服店(松坂屋)
     

 ≫京町通交差点を通り過ぎ、外堀通と本町通交差点に出る。
     ↓ 外堀通交差点撮る
     

 外堀通を横断して名古屋城三の丸の濠に架かる本町橋。この橋を渡ると名古屋城三之丸内になりますが、この交差点を左(西方向)に曲がることすぐに明倫堂跡に遷座した東照宮と那古野神社があり観てきました。
     ↓ 東照宮社殿について書かれた立札(祭神は徳川家康)
            
  
 ↓ 東照宮由緒記
   
   ↓ 「三の丸 御宮(東照宮)の図」図絵 『尾張名所図会』より
   
     ↓ 御宮社殿  『尾張名所図会』トリミング
     
     ↓ 御宮図会 『尾張名陽図会』より
     
     ↓ 三之丸東照宮社殿模型  東京大学工学部建築科蔵
      東照宮模型拝殿正面 (戦災で焼失前の模型で精密に造られている。)
     
     ↓ 東照宮社殿模型
     
     ↓ 側面左から拝殿、石の間、本殿となっている。
          

 名古屋東照宮について・・・元和5年(1619)9月17日、初代藩主徳川義直が名古屋城三の丸に父である徳川家康を祀る東照宮を造営(創建)したのが始まり。創建当時の境内は壮大で3600坪あったといわれる。城内に祀られた社殿は権現造で内外に彩色が施された壮麗なものであった。明治維新後名古屋鎮台(明治前期の陸軍)が名古屋城に設置されることになり、明治9年(1876)10月、名古屋東照宮は、旧藩校明倫堂跡の現在地に遷座された。創建以来の建物等は移築され当時の国宝に指定されたが、昭和20年(1945)の空襲ですべて焼失してしまった。現在の本殿は、かって、義直の正室で高原院(春姫)の霊廟として慶安4年(1651)万松寺内に建てられたもので、その後、尾張徳川家の菩提寺である建中寺に移された後、昭和28年(1953)、名古屋東照宮の社殿として移築された。江戸時代の東照宮祭礼は9台の山車が出る華やかなものであったといわれる。
     ↓ 戦災で焼失前の東照宮
     
     ↓ 在りし日の東照宮
     
 
    
↓ 東照宮鳥居
     

     ↓ 東照宮拝殿
     

     ↓ 東照宮本殿   慶安4年(1651)の建物
     
 東照宮では徳川家康の3回忌にちなんで、元和4年(1618)より東照宮祭礼が行われました。祭礼では舞楽奉納、山車行列が行われました。現在山車行列は第2次世界大戦のおり山車のほとんどが焼失してなくなり行われていません。『尾張名所図会』に山車行列絵が描かれおり少し掲載したいと思います。また、東照宮舞楽は現在も行われており、2014年4月16日の試楽の日に写真を撮ってきましたので少し掲載します。また、東照宮祭礼は名古屋三大祭の一つといわれていますが、東照宮祭礼は名古屋最大の祭であり、ひいては尾張最大の祭であったという事になります。
   ↓ 天保年間の東照宮祭礼行列行程地図 『天保年間名古屋藩士屋鋪割図』より
 東照宮祭では、この時代名古屋城三之丸に建っていた東照宮から本町通を通り、東照宮御旅所までを行列しました。赤矢印は、三之丸東照宮と東照宮御旅所を記し、赤丸点は行列した行程を記しました。
   
 ↓ 東照宮祭山車図
  三幅の内、中央には祭りの夜景、両側には山車が向ってくる様子が描かれている。
 
 ◇「四月十七日 御祭礼全図」図会  『尾張名所図会』より
 
 「四月十七日 御祭礼全図」図会は14ページにわたり描(書)かれており、『尾張名所図会』の中においては、他を寄せつけない描(書)き込み枚数、秀でた大作である。また、「東照宮御祭礼」は尾張名所の中、頭抜けた名所としてとらえてたともいえる。14ページ(其七)にわたる図会をどのように描(書)いたか非常に関心があるところです。
     ↓ 其一
     

    
 ↓ 其七
      
 ↓ 名古屋東照宮祭9輌山車揃い 
 
 ↓ 東照宮9輌の山車図 『名古屋東照宮神事山車引出之図』より
 
 ≫
東照宮祭舞楽
  ↓ 舞楽
  

  ↓ 舞楽
  
  ↓ 舞楽
  

  ↓ 舞楽
  
  ↓ 舞楽
  
  ↓ 舞楽
  
  ↓ 舞楽

  
  ↓ 「四月十六日 御宮舞楽」図会  『尾張名所図会』より
  
  ↓ 「御宮 舞楽」 『尾張年中行事絵抄』より
       往時の東照宮の様子がみてとれる
  
     
↓ 
東照宮境内に建っている明倫堂跡の立札と碑
       明倫堂跡について書かれた立札
     
     ↓ 明倫堂跡碑
     

     ↓ 「明倫堂」図絵
     
   ↓ 天王社(那古野神社)・東照宮の図   正徳年(1711~1715)
 名古屋城三之丸内の那古野神社と東照宮図。因みに、名古屋三大祭の一社とされる若宮八幡社は、現在地に遷座する以前は、東照宮が建っていた所に建っていました。那古野神社、東照宮、若宮八幡社の関係には不思議な縁(えにし)を感じます。
   
   ↓ 東照宮と那古野神社図  『名古屋案内地図』より 明治42年(1909)
 下記掲載、青矢印の所は旧那古野神社と旧東照宮が建っていた所。赤矢印は名古屋鎮台司令部から現在地に遷座した那古野神社と東照宮。ここは明倫堂跡地になります。
   
   ↓ 天王社・東照宮・明倫堂を記した図  『安政名古屋図』より
 名倫堂は尾張藩の藩校。寛延2年(1749)創立。明治4年(1871)廃校。明治9年(1876)名古屋鎮台が置かれたのを機に、天王社(那古野神社)・東照宮ともに名倫堂跡地に遷座するに至った。
   

     ↓ 那古野神社の書き込み立札
       那古野神社創建は延喜11年(911)といわれる
     
     ↓ 那古野神社由緒記
     
     ↓ 那古野神社「明治参拾年以前之図」
     
     
↓ 「亀尾天王社(天王・那古野神社)」図絵 『尾張名所図会』より
 この図絵左上に描かれている建物は名古屋城とおもわれる。亀尾天王社右には安養寺も描かれている。安養寺は亀尾天王社の宮寺であったが、明治新政府によりだされた神仏分離令により、亀尾天王社より分離された寺であるとされる。
      
     ↓ 亀尾天王社社殿  『尾張名所図会』トリミング 
       図会後方に描かれている城は名古屋城と思います。
     
     ↓ 亀尾天王社図会 『名古屋名陽図会』より
         

 上の図より、名古屋城三之丸には東照宮が建っていた。同じく天王(亀尾天王社・那古野神社)も東照宮と隣接する形で建っていたが、その後両社とも名古屋鎮台(明治初期の陸軍)が設置されたため、明治9年(1876)に明倫堂跡地である現在地に遷座することになった。
 那古野神社は名古屋城三の丸に建っていた。祭神は素戔嗚尊。ここ那古野神社は春の桜の名所でもあり、人が賑わう場所になっています。那古野神社は当初亀尾天王社と称していたが、明治32年に那古野神社と改称したとされる。
 また、江戸時代の名古屋三大祭といえば、那古野神社で行われる「天王祭」、若宮八幡宮で行われる「若宮祭」、名古屋東照宮で行われる「東照宮祭」であった。
     ↓ 亀尾天王祭の日の亀尾天王社絵  『尾張年中行事絵抄』より  
 絵抄には御郭内と記されていることから名古屋城三之丸に建っていた時の亀尾天王社(那古野神社)絵と思える。
            
     ↓ 「天王祭 片端試楽」図絵  『尾張名所図会』より
 三の丸天王祭は名古屋築城以前より鎮座する牛頭天王社(那古野神社)の祭礼。京都祇園社の御霊会の影響を受けて始められ、祇園祭とも称された。その祭礼には天王御車とも呼ばれた二輌の車楽が曳き出された。車楽とは中世以来の伝統を有する祭車のことである。ほか見舞車もあるが、見舞車は三の丸天王祭の献灯目的で造られた。
     
     ↓ 那古野神社鳥居
               

     ↓ 那古野神社社殿
     
     ↓ 名古屋宿で見つけた紅葉
     

     ↓ 伊藤呉服店 『尾張名所図会』より
     
     ↓ 呉服物屋伊藤店図会 『尾張名陽図会』より
     

     ↓ 伊藤呉服店・伊藤銀行を描いた絵(伊藤呉服店右隣に伊藤銀行有)
     
     ↓ 在りし日の伊藤呉服店写真2枚掲載
     

 伊藤呉服店、伊藤銀行について・・・伊藤呉服店は江戸時代初め(名古屋開府)から続く老舗呉服店だった。伊藤呉服店は明治43年3月5日、創業の地・茶屋町から出て栄に百貨店を開業した。名古屋で初の百貨店だった。延べ床面積は1200坪あり市民はその豪華さに目を見張った。場所は栄5丁目(現中区栄3丁目4番地)。
 伊藤銀行は明治期に名古屋市に設立された銀行で、東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)の前身の一つ。尾張藩御用達商人「いとう呉服店」(現松坂屋)の当主である。第14代伊藤次郎左衛門によって、名古屋最初の私立銀行として明治14年(1881)に資本金10万円で設立。その後、昭和16年(1941)に名古屋銀行、愛知銀行と合併し、東海銀行ができた。
 ↓ 伊藤呉服店から松坂屋
 
 名古屋には他にも百貨店があります。往時はオリエンタル中村であったが現在は名古屋三越と丸栄百貨店(十一屋百貨店と三星百貨店が合併)。
 ↓ オリエンタル中村百貨店(1954年~1980年まで営業をしていた)
 
 少し話題がそれましたが本町橋へ戻りました。

   ↓ 本町橋(明治四十四年七月と刻まれています)
   
   ↓ 本町橋濠より撮る
   
   ↓ 享保の頃の本町門辺り図 『享保十四年酉年名古屋絵図』より 1729年
 緑色矢印の所は名古屋城三之丸に入る通りを指す。この時代には三之丸城内と城下を分ける所には門(本町門・本町御門)が建っていたとみれる。現在は緑色の所には本町橋が架かっていますが、往時は橋ではなかったのでは。本町門には本町通南より北へ本町門の方まで進み、わずかに右に折れて門の通りに入っていったようです。
   
   ↓ 宝暦の頃の本町門あたり図 『宝暦十二午改名護屋路見大図』より 1762年
 緑色矢印の所は名古屋城三之丸に入る通りを指す。この時代には三之丸城内と城下を分ける所には門が建っていたとみれる。緑矢色の所には現在本町橋(石橋)が架かっていますが、往時は橋ではなかったと思われます。
   
 ↓ 東照宮祭礼図巻・絵巻 名古屋城内三之丸と城外の間のにあった門と思われる。
 東照宮祭礼図巻より(三之丸から本町の間にあった門は本町門・本町御門と呼ばれていたようです。また、現在は本町橋が架かっていますが、往時は橋ではなかった可能性があるのではと見取りました。)
 
   ↓ 在りし日の本町御門大手之図
   
     ↓ 三之丸の濠を走っていた瀬戸電
      
     ↓ 夜の本町橋
 夜の本町橋の雰囲気はどのような感じか見たくてカメラをもって出かけました(明治を感じさせてくれる橋でした)・2013年12月撮
     

     ↓ 濠を通り越した所すぐに愛知県護国神社
      
  ◇在りし日の護国神社(招魂社)
     ↓ 全景
        
     ↓ 本殿
                     

     ↓ 本町通を進んで出来町通に出る。前方には二の丸の標識があり、ここまで本町通が続いていました。
      
 
 
名古屋宿も春ともなると堀川沿いに桜が咲き春爛漫となる。桜が咲いた名所は伝馬橋より少し下流の場所にはなるが、桜が満開ともなると名古屋の人達が多く訪れたと思われる。その光景を描いた絵があります。
     ↓ 「堀川花盛」絵 『名古屋名所団扇絵集』より
     

 名古屋宿の境についてどこになるのか判断に迷いましたが、碁盤割りになる所を名古屋宿とし、伝馬橋(堀川)を名古屋宿の境と判断しました。確証はありません。


 
 続きの書き込みは 伝馬橋よりについて Ⅰ としています。



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