美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

THE美濃路祭集 

2016-10-17 | THE美濃路祭集

                      THE美濃路祭集 
        私が記載(ブログ)したTHE美濃路祭をまとめて記載しています。

 #大山祭(熱田神宮の摂社、南新宮社で行われていた祭)
 大山祭について・・・一条天皇の時代(986~1011)に全国的に疫病が流行し、熱田の里でも死者が多数出たので、人々は疫神(牛頭天王=素戔嗚命)を祀り祈った。すると疫病が鎮まって行ったので、その翌年から毎年6月5日(現在でもその日に尚武祭が行われている)に種々の練り物を奉祀し祭典を行ったのが、熱田大山祭の始まりといわれる。このお祭は熱田神宮の摂社である南新宮社で行われ、大山祭は南新宮祭ともよばれていた。
 熱田大山祭には3輌の大山と6輌の小山(車楽)があり、大山1輌と小山2輌が一組となり毎年交代(3年で1巡)で曳きだされた。明治時代に入ると電線が障害になり衰退していく。大山は戦災でほとんど消失、以来、山車に代わって巻藁船になったが、これも昭和48年を最後に廃止された。その後は熱田祭(尚武祭)に引き継がれている。因みに大山の高さは20mほどあったようです。
   ↓ 南新宮社図会  『尾張名所図会』より
   
 ↓ 大瀬古町大山

 
 ↓「南新宮祭 大山車楽」図会 『尾張名所図会』より
   
     ↓ 在りし日の大山  
     
     ↓ 大山車組立を撮った写真
     
 
#若宮祭について
 太平洋戦争の戦禍にみまわれ6輌の山車焼失。今も残るは福禄寿車のみになり町内の宝物となっている。若宮祭は美濃路名古屋宿に建つ若宮八幡社で行われるお祭です。
   ↓ 若宮八幡宮図会 『尾張名所図会』より
 若宮八幡宮は、古くは名古屋城三の丸の所に那古野神社(亀尾天王社)と隣接する所に建っていたが、神占によりとか、お御籤で選んだとしているが、東照宮を建てるがために現在地への遷座が決められたのではと考えられる。
   
 
若宮祭には7輌の山車曳き出されました(町名と山車名) 
 末広町=黒船車  上玉屋町=西王母車  下玉屋町=布袋車  中須賀町=寿老人車
 門前町=陵王車  住吉町=河水車    大久保見町=福禄寿車
 ↓ 若宮祭礼図絵巻

   
   ↓ 在りし日の若宮祭礼山車 陵王車
   
    
  
 ↓ 中日新聞夕刊
 若宮八幡社前に「若宮まつり」を書いた中日新聞夕刊誌が、切り取られて張り出されていました。
 
 
  ↓ 拝殿前福禄寿車(奉芸)
   

   ↓ 提灯飾りつけ
   

 ↓ 若宮祭7輌山車揃い
 
 若宮祭は6輌の山車が焼失して大変残念なことになったことと思われますが、何とか福禄寿車が残り若宮祭の華となっています。

#名古屋東照宮祭について
 東照宮祭は美濃路名古屋宿に建つ東照宮で行われる祭です。
東照宮祭、若宮祭、那古野神社大祭は名古屋三大祭りとされていた。ただ、この三大祭いずれもが戦災の影響を大きく受け、現在も祭は行われてはいますが、戦災前の祭と同様の形で行うことができなくなりました。往時の記録を見ると歴然としています。戦災前の祭が行えれば、大変盛大な名古屋三大祭を観ることができたと思います。東照宮は当初名古屋城3の丸に建っていましたが、現在は名倫堂跡地に遷座しています。
   ↓ 「三の丸 御宮(東照宮)の図」図絵 『尾張名所図会』より
     往時は名古屋城三之丸にて東照宮祭は行われていました。
   

 名古屋東照宮山車引出しについて・・・徳川家康の三回忌の元和4年(1618)に祭礼が始まり、当初は数ケ町の警固のみで簡単な行列であった。翌5年東照宮が完成しその年に七間町が大八車を2輌組み見合わせ西行桜の能人形を飾った山車を曳きだした。これが当初祭りの第一号の山車であり、翌元和6年同じく七間町が弁慶と牛若丸が五条橋で大立ち回りを演じるからくり人形を載せた橋弁慶に替え行列に曳き出すと、これが大好評でこれに刺激を受けた各町が山車、練り物を造りだし、元禄、宝永の頃は山車9輌と三十五町が繰り出す警固な行列が本町通を通り末広町のお旅所まで練り歩く壮大な行列が完成した。その後この祭りは大祭礼化していった。
 ↓ 名古屋東照宮祭山車図
  三幅の内、中央には祭の夜景、両側には山車が向ってくる様子が描かれている。
   

 ↓『名古屋東照宮祭礼図屏風』 六曲一双
  左隻
 
  右隻
   
 ↓ 名古屋東照宮祭9輌山車揃い  
   
 名古屋東照宮祭舞楽(現在東照宮祭は舞楽のみが行われ山車行列は行なわれていません。
  
 ↓ 舞楽
   
  ↓ 舞楽
   


#
那古野神社大祭今と昔
  名古屋城三の丸から明倫堂跡地へ遷座、歴史ある神社。那古野神社大祭(亀尾天王祭)は美濃路名古屋宿に建つ那古野神社の祭です。
   ↓ 亀尾天王社図会(名古屋城3の丸に建つ) 『尾張名所図会』より
   
 那古野神社大祭(名古屋天王まつり)について・・・那古野神社は、明治9年(1876)に現在地へ移転となるまで名古屋城三の丸内に鎮座され、 2輌の車楽を片端筋(現在の外堀通・「本町橋」交差点周辺)に飾り立てることを主旨とした祭りを行っていた。しかし、明治25年以後、白木の神輿2基を中心に東照宮祭のような警固が供奉する行列祭りへと変更されたとしている。 2輌の車楽を片端筋(現在の外堀通・「本町橋」交差点周辺)に飾り立てることを主旨とした祭りが行われた。那古野神社には当初車楽は2輌あったとされる。かっての車楽は戦災等でなくなり、現在の神社では焼失を免れた旧茶屋町の車楽を組み立て境内に飾っているとのこと。
 車楽に対する見舞い車、献灯車として多くの山車が造られた。尾張藩十代藩主斎朝公が車之町に胡蝶の舞の人形を据えた小車を与えたのが見舞車の起源とのこと。最盛期には天王氏子の車之町、益屋町、名古屋村、広井村、戸田道から16輛もの見舞車が曳き出されたといわれます。ただ、見舞車も、明治維新で氏子区域の変更や祭礼形態の変更があったため、よそへ売られたり自町の祭りに曳かれるようになり、那古野神社の祭礼に参加することはなくなったとされる。現在の那古野神社祭りと往時の祭りとでは、大きく祭りの形態が変化していると思われる。16輌の見舞車が祭りに曳きだされた時の那古野神社大祭は、最も華々しい祭りを行っていたと思われる。

   ↓ 天王祭山車揃い
     写真前より1輌目、2輌目は車楽ではと思います。
   
 ↓ 神楽太鼓
         

   ↓ 男衆の神輿鳥居をくぐる
   

#榎白山神社大祭について
 白山神社前に立場があって賑わっていた。しかし、今は賑わいが見られない榎白山神社大祭。榎白山神社大祭は美濃路沿いに建つ白山神社で行われる祭です。
   ↓ 「榎権現」図会  『尾張名所図会』より
   
   ↓「榎権現祭礼」絵  『名古屋名所団扇絵集』より
    榎白山神社大祭が賑わっていたことを知る名古屋名所団扇絵集。
   

   ↓ 白山神社大祭の昼間
    
   
↓ 美濃路西側より東方向撮る
   

 美濃路が利用されていた時代には、白山神社前には立場(街道を旅する人たちの休息所)があり大変賑わった所。榎白山神社は多くの人で賑わった場所とみましたが、現在のお祭りではその面影さえも感じられませんでした。

# 八坂神社提灯祭について 
 八坂神社境内は1に提灯、2に提灯、3・4が提灯、5も提灯・・・提灯ずくし祭!!!
八坂神社提灯祭は美濃路沿いに建つ八坂神社の祭です。
山笠提灯献灯は元禄15年からといわれ、山笠は文政11年(1814)作であったが痛みが激しく、原木の乾燥期間3年余りを待ち、平成18年現在のものとなる。高さは20mあり、提灯は最上段で五ヶで五穀を表し、その下、五段構えに880ヶの提灯を掲げて米を表し、米寿にもあやかるとされている。
   ↓ 大提灯
   

   ↓ 大提灯と山笠提灯
   

   ↓ 山笠提灯
   
   ↓ 山笠提灯の中段提灯に蝋燭点灯
   
   
↓ 大提灯と山笠提灯
    
 八坂神社にての印象は、それほど大きくない神社と思われますが、神社境内は提灯ずくし、さすが「提灯祭」と異名を持つまつりであることを実感させてくれました。

#西枇杷島祭について
 西枇杷島祭は西枇杷島の美濃路を中心として催される祭です。       
 西枇杷島祭について
・・・西枇杷島祭は、江戸時代初期に下小田井市場が開設され、その市場が繁栄したため、市場で富を得た人たちが5輌の山車を造り行われるようになった祭と思います。下小田井市場は大変栄えた市場で、日本3大青果市場の一つといわれるほど発展しました。ただ、いろいろ時代の変遷を経る中で下小田井市場は今はありません。しかし、西枇杷島祭は、下小田井市場がもたらしてくれた5輌の山車曳きを華とし祭は続けられています。祭は主に美濃路沿いにて行われています。現在も山車は5輌あり毎年恒例となって西枇杷島祭は行われています。祭では花火も打ち上げられるようになり、山車同様花火の人気も相当なものと思われます。祭見物には20万人ほどの人が集まるといわれています。
   ↓ 泰亨車
   
 
   ↓ 王義之車
   
   ↓ 紅塵車
   
   ↓ 紅塵車
 西六軒町の紅塵車は、『名古屋名所団扇(うちわ)絵集』に描かれている。画題は「枇杷島祭礼」として。
        

#立部社こがし祭(2015)
 立部社こがし祭は美濃路沿いに建っている立部社のお祭です。こがし祭は、江戸時代に飢饉が起き、神のお告げに従って「こがし」と呼ばれる団子を奉納したところ、飢饉が収まったため、神に感謝するために始まったとされる。五穀豊穣を祈願する祭り。
かつては津島神社「天王祭」と同じように川に山船として浮かべていたが、寛文9年(1669)、五条川の河筋が変更され、山車に改修されたという。こがし祭は宵祭りで、昼間は氏子の人たちが子供達にジュースなどを渡していました。それほど大きな神社ではないとは思いますが、山車が町内に2台あり、大人と子供が入交り山車を曳く祭で、町内の人たちが祭を楽しんでいる様を見て、大変風情豊なお祭との印象をもって楽しんできました。
 ↓ 先月紙面に紹介掲載されたこがし祭り記事
 
 ◇山車を美濃路に止めて提灯の蝋燭点灯
   ↓ 蝋燭点灯
   
   ↓ 宵の山車
   
   ↓ 宵の山車
   

#国府宮はだか祭今と昔について
  国府宮はだか祭は美濃路沿いに国府宮一の鳥居が建つ国府宮のお祭です。国府宮は「はだか祭」で有名である。旧暦正月13日に行われるこの祭りは、正しくは「儺追神事」という。その起源は、神護景雲元年(767)、称徳天皇の勅命により、全国の国分寺で吉祥天悔過の法が修せられた時、尾張の国司が当社においても五穀豊穣を祈願したのに始まるといわれ、古来、厄除けの祭りと聞こえている。幕末までは古式が保たれてきたが、明治維新の神仏分離後、幾多の変遷を経て現在に至る。今日斎行されている神事は、まず旧暦正月2日、楼門前と二ノ鳥居の傍らに「儺追神事」と書いた標柱(しめはしら)を建てることから始まる。ついで人々のあらゆる災厄を背負うといわれる儺負人(神男)を募り、祈祷とおみくじによって1人を選定し、10日の夜から3日3夜、儺追殿で潔斎させる。この神事は、夜儺追神事が本儀であるが、昼間のはだか男がもみ合う方が一般の感興を引くので、はだか祭として宣伝されている。
   ↓ 二の鳥居前
   
   
↓ 国府宮はだか祭に際して奉納された大鏡餅(拝殿に供えられている)
   

   ↓ はだか男に水をかける桶を高々と上げ鼓舞する。
   


#大垣祭「13輌の(やま)」
 大垣祭は美濃路大垣宿に建つ八幡神社で行われる祭です。美濃街道の中、城下があったのは大垣市と名古屋市になります。大垣祭は濃尾地震、戦災にての焼失(消失)があったようですが、大垣市及び地域の町内会等々の力添いにて見事13両のを復活させ、全国的にも大垣まつりの評価が拡大しているように見ます。大垣祭の華々しい13輌の復活は称賛いたします。
 ↓ 大垣祭の祭行事について書かれた掲示板
     
   ↓ 在りし日の大垣祭の
   
   ↓ 祭行列(この位置では13輌ものを一望することは不可能。)
   
   ↓ 祭
           
 ↓ 夜の
 
 ↓ 夜の、は人混みをかき分けるように進む。
 
 大垣祭は戸田10万石の城下で、広範な範囲まで祭が浸透している印象を持ちました。現在の美濃路の中で、これだけ盛大な祭りを行っているのは大垣祭という事になると思います。人が多く集まることによって露店の数が増えたと思われ、露店の数は500~600を超えるとも言われています。大垣宿のかなりの範囲が通行止め御免!といった印象を持つほど、の移動範囲が広いのには驚きました。13輌ものが大垣の町中を掻き回すように曳き廻わされるのは圧巻です。

            以上    

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