美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

名古屋宿よりについて Ⅰ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                  名古屋宿よりについて Ⅰ


   ↓ 名古屋宿~伝馬橋(名古屋宿)図
   
 
   ↓ 名古屋宿概略図
   
  ↓ 名古屋宿概要(宿高等)
  
 ◇名古屋宿について・・・熱田宿から1里半で名古屋宿に到着する。ここは尾張藩の城下で宿高はなく、伝馬町・宮町・駿河町・富沢町で宿役(伝馬役)をつとめ、「伝馬役4ヵ町」といわれていた。伝馬番所(会所)は伝馬町筋本町通西南の角にあり、高札場と相対していた。
この付近を「札の辻」といい宿場の中心であった。名古屋宿は慶長18年(1613)に設置されたが、もともと道中奉行の支配下にはなかった。寛文3年(1663)に尾張藩の願上によってはじめてその支配下に入ったものであった。従ってほかの宿場と異なっていることも多く原則としてここでの諸大名の休泊はなく、従って本陣も脇本陣もなかった。ただ貴顕の休泊の場合は藩役人が指示した。大きな通行の場合はここで継立せず、上りの場合は熱田宿からここを打越して清須まで追通し、下りの場合は清須宿から熱田宿まで追通した。しかし一般の人馬継立は他の宿場と同様に行ったが、問屋場は他の宿場のように問屋場とはいわず。伝馬番所(会所)といった。
 ここは江戸から90里17町7間の距離にあり、次の清須宿へは2里の里程であった。伝馬役4ヵ町の町並は23町つづき、その宿内人口は4188人、家数は1157軒であった。また宿内には旅籠屋はなかったが、玉屋町のうちに22軒あった。
 ここ名古屋へは垂井宿方面から美濃路を通って訪れる人、岡崎街道・飯田街道から訪れる人、下街道から訪れる人、本街道から訪れる人といった具合で名古屋宿へ集まってくる人が多かったことを示している。尾張は東海道と中山道が最も接近する所。名古屋は御三家筆頭尾張藩城下といわれる。
 ≫名古屋宿界隈・・・熱田宿から名古屋宿に至る本町通・美濃路は名古屋を代表する基幹道路。商家が競って店を構えた。その中で碁盤割の中を走る本町通は名古屋の中心の町として栄えた。碁盤割は徳川家康によって東西は久屋通から堀川まで、南北は広小路通から外堀通に至る区域を京の碁盤割にならい碁盤の目に区画された地域をさす。家康はここを町人の住居とした。区画の中心の空き地には寺院を配し住民の監視にあたらせた。名古屋の質素倹約、一方で盛んな生け花や茶道など内向きな文化は築城時の都市計画に起因するとも考えられる。本町通を進み現在の伝馬町通交差点で美濃路は分岐する。美濃路は伝馬筋を西に清洲に向かい、本町通は北上し名古屋城へ通じる。
 ↓ 名古屋宿性高院辺り~伝馬橋辺り図  「名古屋城下図」より 年代不詳
  青丸点は美濃路です。
 
 ↓ 若宮八幡宮辺りから伝馬橋辺りの
絵図  『美濃路見取絵図』より
 若宮八幡社は戦災前までは美濃路沿いに門があったと思われる。また、若宮八幡社南(右側)には性高院が建っていた。性高院は大雄山と号し、慶長15年に清洲よりここに移されたが戦後千種区に移る。松平忠吉の墓がある。寛永13年(1636)より朝鮮通信使の名古屋の休泊所にあてられていた。ただ、太平洋戦争の戦災にあい数点の寺宝しか残らなかったとのこと。朝鮮通信使についての史(資)料等はすべて焼失してないと聞きました。
     
   ↓「性高院 極楽寺 圓光大師安居遺跡」図会 『尾張名所図会』より
 性高院は朝鮮通信使が名古屋で泊まったとされる寺。往時、大名その他の多くの人々は名古屋では宿をとれませんでした(名古屋には宿がなし・例外あり)。朝鮮通信使を名古屋に宿をとらせたというには、そのもてなしが相当だったことがうかがえる。ただ、性高院は
若宮八幡社南に建っていたが戦災にて焼失。朝鮮通信使の記録も戦災のため全部焼失したとのこと。現在はこの地は若宮大通になっている。理由はあるようですが、現在の性高院は他の地に移転している。
    
   ↓ 諸学士性高院の書院に朝鮮人と詩文贈答の図  「尾張名所図会」より
   
 ↓ 名古屋宿辺りの図 『天明以前の名古屋図』より   緑丸点は美濃路

 
 ↓ 名古屋市(名古屋宿辺り)地図  明治24年測図  赤丸点は美濃路
 
 ↓ 若宮八幡社辺り~名古屋城辺りまでの図 『名古屋市全図』 明治44年 
 
 ↓ 名古屋市街の図 『名古屋市鳥瞰図』より  昭和11年(1936)
 
  ↓ 若宮大通本町より美濃路・本町通前方(街並)撮る。
  
  ↓ 上の写真とほぼ同じ位置辺りから撮られた写真(旧町名は末広町)
  
 ◇若宮八幡社
   ↓「若宮八幡宮」図絵  『尾張名所図会』より
 図会中に赤丸点で示したところは往時の美濃路・本町通と思います。
     
   ↓ 若宮八幡宮図会 『尾張名陽図会』より
   
 若宮八幡社について・・・
文武天王(在位697~707)の時代に創建、延喜年間に(901年~23年)に再興したとされる。若宮八幡社は名古屋城が築城されるまで、那古野神社(天王社)と隣接して建っていた。しかし、名古屋城築城(慶長15年・1610年)にあたり神占により現在地に遷座、尾張名古屋の総鎮守となった。その後名古屋東照宮は若宮八幡社の建っていた所(名古屋城三の丸)に創建(元和5年・1619年)された。現在の若宮八幡社の南入口鳥居は、若宮大通り沿いに建っていますが、往時の若宮八幡社南には、朝鮮通信使が宿をとったとされる性高院が建っていた。性高院は戦災にて全焼、朝鮮通信使等の資料は戦災にて全く残っていないとのことです。戦災にあうまで若宮八幡社は美濃路沿いに入口があった。戦災後の復興はどのように行われたかについての資料は探し出すことができていません。戦災後の復興計画の中若宮大通りができ、若宮大通沿いに若宮八幡社の鳥居が建てられたことになったという事でしょうか。
 若宮神社は現在神社南側(若宮大通沿い)を出入り口として鳥居がありますが、往時は南門ではなく美濃路(若宮八幡社西側)沿いに出入口門があったと思われます。
   ↓ 戦前の若宮八幡社(西門と思われる)
   
   ↓ 若宮八幡社鳥居
     
 若宮八幡社では毎年お祭りが行われています。お祭は第2次世界大戦の戦災の影響で、戦災前のお祭と同様なお祭ができなくなりました。戦災前7輌あった山車は戦災後は1輌残るのみになってしまいました。若宮祭の写真を掲載します。
     ↓「若宮祭」の日の若宮八幡社拝殿
     
  ↓ 拝殿前福禄寿車(奉芸) 戦災にあうことなく残った1輌山車。
  
  ↓ 在りし日の若宮祭礼山車 陵王車
  
  
 ↓ 若宮まつり7輌山車揃い
 
 ↓ 名古屋絵図 『美濃路見取絵図』より
  
   ↓ 名古屋の五口
   
 名古屋の五口について・・・名古屋城下からの出口に主なものが五つあり、俗に「名古屋の五口」といわれていた。名古屋の五口の第一は熱田口で、今まで見てきた道を逆に南に進み佐屋街道や東海道に出る口であった。第二は枇杷島口で、これから進む美濃路や途中で分岐する岐阜街道に連なる口であった。第三は志水口で、本街道(木曽街道)といわれる。本街道は藩のもうけた公道で、志水口から安井村・味鋺村を通り、小牧・久保一色・楽田・羽黒・膳師野を経て土田へ出て、中山道の伏見宿にいたるものであった。藩は本街道と称したが、一般には木曽街道と呼ばれた。尾張に設置された宿場は小牧と膳師野であり、犬山へは楽田から分岐し、これは犬山藩主成瀬氏の利用が多かった。第四は大曽根口で下街道(善光寺道)。下街道は善光寺道とも呼ばれ、名古屋鍋屋町筋の通称「佐野屋の辻」を北に折れ、大曽根から山田・勝川・内津を経て、土岐・釜戸を通って中山道大井宿に至るものであった。藩はこの街道に宿場は設けず、公用旅行者には本街道を利用させたが、信州方面への往来には本街道より近道であったため、商人とともに公用旅行者も多く通行したもようである。公認でない人馬の継立も行われ、沿道の村民は駄賃稼ぎを主な副業としていた。第五は三河口で、岡崎街道(三州街道)伊奈街道(飯田街道)にそれぞれ連なる口である。岡崎街道は三州街道ともいい、名古屋駿河町から八事・平針を経由して三河の堤村に出て、宇頭で東海道に合流し岡崎に通ずる道であった。慶長17年(1612)家康が名古屋・岡崎の近道に選んだことから開けた道で、元和元年(1615)には大坂夏の陣に向かう軍兵の一団がこの街道を通っている。第二代藩主徳川光友の興正寺の建立、要人の祐福寺参詣などに利用されたが公務利用者の数は少なかった。平針には宿場がおかれ、信州伊奈・三州挙母方面に通ずる要地であった。平針から赤池に入り猿投・足助・稲武を経て信州に入り、伊那までの道が伊那街道と呼ばれたが、いつか平針以西にもこの名称しようされ、さらに伊那が飯田に転じて飯田街道の名が使われるようになったものと思われる。
 これらの街道は、幕府道中奉行の支配下にあった東海道、中山道、美濃路、佐屋街道より一段下級の道で、尾張藩の管下に置かれたものであった。尾張藩が設置した宿場である小牧・平針へは、名古屋宿からそれぞれ3里、2里半の里程であった。
  ↓ 名古屋を中心とした主要街道図
  
 広小路通り辺りについて・・・この広小路通り先は、碁盤割の町並みで多くは商家で占められているが、美濃路の広小路手前の右側は中級武士の武家屋敷であった。また、この辺りは今日、名古屋商業の中心地である。すでに江戸時代からこの広小路は名古屋の中心的商業地であったことは、享保、元文頃の名古屋を描いた『享保絵巻』からもうかがえる。滝沢馬琴は『羈旅漫録』の中で「夏の日納涼の地は、広小路柳薬師前なり。数十軒の茶店・見世物・芝居等ありて甚賑へり、柳の薬師より広小路の景色、江戸両国薬研堀にはうふつたり」と記している。また、『尾張名所図会』は「むかしは那古野の町はずれにして是より南の方は田野なりし〈中略〉東に庚甲堂、西に柳薬師などありて、はなし・物まね・諸見世物・居合抜の歯磨き売など、常にむれ居て往来人の足をとどむ。取りわき夏月納涼の頃は、貴賤袖をつらねて群集し、辻売の夜店・茶店の燈火、赫奕として、遊興に夜の更くるを知らず、実に夜陰の壮観なり」とあり、もって情景をうかがうに足り酔う。銀ブラに対して広ブラともいわれ、夜店が軒を並べていたといわれる。
 また、広小路は往時防災を目的として作られた道で道幅が広い。道幅を広げたことでつけられた名前。栄にある広小路は万時3年(1660)の大火、片端筋伏見角付近から出火しその火災規模は、記録によると武家屋敷112軒、町屋2228軒を焼き尽くしたといわれる。そこで東西を走る道を境に類焼を防ぐため、広小路はそれまでの3間から13間に広げたのに由来する名称。
       
   ↓ 「廣小路夜見世」図会  『尾張名所図会』より
   
 
↓ 「琉球人本町通行」図絵 『名陽見聞図会』より
 
 ↓ 琉球王使一覧(正徳度以降)
 
   ↓ 「本町通一丁目の図」 『尾張名陽図会』より
   

     ↓ 広小路通より本町(美濃路)北方向
の写真(昭和期)
     
     ↓ 
在りし日の本町通夜景
     
 ◇広小路本町角奉祝門
     ↓ 昼景
     
     ↓ 夜景
     
 奉祝門について・・・昭和3年(1928)昭和天皇即位御大典があり、名古屋には11月16日に立ち寄られた。このため電気サインや電飾を駆使し、奉祝名古屋博覧会を開催。広小路・本町御門前等に建てられた門。
 
 ここ広小路通には市電が走っていた。名古屋の街に初めて路面電車が走ったのは明治31年5月6日。名古屋鉄道の前身である「名古屋電気鉄道」によるもので、名古屋駅前~栄町間の2.2キロであった。京都市に続き全国で2番目の路面電車。その後大正11年(1922)8月1日、名古屋市は市内の路面電車を買収電気局(現在の交通局)を設け「市電」として運行を開始した。昭和49年(1974)3月30日運転最終日。昭和49年(1974)3月31日、10時~15時まで全線で無料サヨナラ運転を実施して路面電車はなくなる。ここ広小路通は名古屋市の地下鉄が開通するまでは、名古屋では最も賑わったメインストリートであった。
     ↓ 在りし日の広小路通(2景)
     
     ↓ 広小路通より前方(美濃路)撮る。
 かってはここより右方向は広小路、左方向は堀切筋と呼ばれていた。名古屋宿内に入ってくると高い建物が連なって建っています。往時の美濃路の雰囲気を味わうことの出来る建物は神社、仏閣ということになり、美濃路の宿場の中では名古屋宿は際だった変貌をみる宿場になっています。広小路・堀切筋は碁盤割の一番南の筋になります。
     
     ↓ 広小路通(旧広小路)右方向
       
かって右方向へ少し行った所に牢屋があったとされる
     

     ↓ 広小路左方向(旧堀切筋方向)撮る
     
     ↓ 広小路通を過ぎ錦通、本町通の前方を撮る
     

     ↓ 錦通右方向撮る
 右角に三菱東京HFJ銀行がありました。現在の三菱東京UFJ銀行は銀行同士が淘汰され出来上がった日本でトップクラスのメガバンクです。
     
 ◇錦通はかって蒲焼町通と呼ばれていた
     ↓ 蒲焼町通での梵天祭写真(昭和初期頃)
     

 前に進んで袋町通交差点、この通りを左に曲がり福生院へ行きました。
     ↓ 福生院
      
 ↓ 伝馬町菱屋二階から望む福生院
 本町筋・伝馬町筋角にあったと思われる商家の菱屋の二階より、南側の福生院方面を撮影した写真。江戸時代の名古屋城下の様子がわかる写真として貴重である。
           

     ↓ 本町通(美濃街道)から伝馬町通交差点を撮る。
 かってはこの交差点右手前角には高札場があり、左手前角あたりには伝馬会所があった。文字通り名古屋宿の中心地であった。(赤丸の印辺りが伝馬会所、緑色の辺りは高札場になり、この辺りを札の辻と呼んでいた。)
     

     ↓ 「伝馬会所・札の辻」図会  『尾張名所図会』より
      この図絵緑丸の所は高札場、赤丸の所は伝馬会所になります。
     
     ↓ 札の辻 問屋場図会 『尾張名陽図会』より
     
 
 名古屋宿高札場は往時本町通と伝馬町通が交差する東南角の所に高札場が建てられていた。高札場は宿場の中心に建てられ、高札場が建てられている通りを札の辻と称した。文字通り名古屋宿の中心となっていた所。また、高札場西側角には荷物の運搬に必要な人馬を継ぎたてる伝馬会所が設けられていた(高札場、伝馬会所の場所を写真の中に記しました)。

     ↓ 伝馬通交差点より東方向撮る
       緑丸色の印の所は高札場があった辺りになります
     

     ↓ 美濃路・伝馬町通、進行方向を撮る。
     

 長者町通りに出る。左右どちらの方向を見ても長者町繊維街の看板文字が目につきます。この長者町は全国でも名の知れた繊維街で、繊維街として繁栄の一時代を築いた街であったと思います。
     ↓ 長者町通右方向
               

     ↓ 次の道路(長島町通)に出たらば、道路左方向に名古屋白川公園内にある名古屋市科学館のプラネタリウムがすぐ近くにあるように見えました。
     
     ↓ 桑名町通りから前方撮る(前方道路は国道19号線)
               
 美濃路・伝馬町通は国道19号線に阻まれまっすぐ進むことはできず、回り道をして続きの道に出ました。美濃路は直進できずの通りになり、消滅した美濃路としました。
     ↓ 国道19号線を上空より見た写真
 赤色線は美濃路・伝馬町通、赤色点線は国道19号線に遮断される美濃路になり、遮断された通りは消滅した美濃路としました。
     
 伝馬町通を入った所で撮りました。前方向は名古屋駅方面になりますが、近年名古屋駅周辺は高層ビルが増えています。
     ↓ 御園通と伝馬町通交差路辺りより名古屋駅(西)方向撮る
               

     ↓ 伝馬橋東詰より西方向撮る
     

     ↓ 「上材木町盆中燈籠」絵 『名古屋名所団扇絵集』より
     

 伝馬橋東詰より本町通に戻り、本町通をそのまま名古屋城の方へ向かいました。

     ↓ 本町通と桜通本町交差点撮る
               

     ↓ 桜通本町交差点西の所に桜天神社(写真数枚掲載)
 ビルの谷間に建つ桜天神社(名古屋三大天神社の一社)。桜の木があったことから名づく、鐘楼があって昼夜12時に時を打った。万松寺の鎮守として天文9年(1540)に建てられたと伝えられる。
     

     ↓ 桜天神社 由緒
     

     ↓ 神社敬称の由来書き込み立札
     

     ↓ 菅原神社碑
     

     ↓ 桜天神社社殿
     

     ↓ 桜天神社拝殿
     

     ↓ 桜天満宮」図会 『尾張名所図会』より
     

     ↓ 「桜天神」図会  『尾張名陽図会』より
     
 ↓ 伝馬町菱屋二階から望む桜天神社時の鐘
 本町筋・伝馬町筋角にあったと思われる菱屋という商家二階より、北側の桜天神社方面を撮影した写真。屋根越しに当時7.5メートルの高さを誇った鐘楼の上部が見える。江戸時代における名古屋城下の碁盤割区画内を撮影した写真。
   

      

  続きの書き込みは 名古屋宿よりについて Ⅱ としています。

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