美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

墨俣宿よりについて Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                                           墨俣宿よりについて Ⅱ

 
     ↓ 津島神社・秋葉神社
     
     ↓ 津島神社沿革
       
     ↓ 八幡神社
     
 墨俣宿について・・・大名の定宿として本陣・脇本陣があり、宿立人馬の継立を業務とする問屋や、墨俣渡しの渡船場があり、弦歌が賑やかであったと伝えられている。『濃州徇行記』は江戸時代の町柄をよく伝えている。町の長さ7町7間あり、町の名を河端・中町・西町・横町という。町並は大体よき処なり、中町・本町の間旅籠屋おおし、本陣は中町にあり、農業の外には宿屋、茶屋、小商いをもって渡世とするよし。北裏には小百姓あり、これを殿町という。亦その北犀川堤上にも民戸あり。ここを城の戸という。享和2年(1802)、家数263軒、人口1218人とある。助郷制度に支えられて江戸時代墨俣は宿場町として繁栄しこの地域の経済・文化の中心地となる。
 ↓ 美濃路を通った主な大名家
 
     ↓ 江戸時代の宿屋の絵(江戸庶民風俗絵典より)
     
     ↓ 往来送り一札
 身分証明書であり、これが必要なため度々の節約令を守り、それに道中では盗人、ごまのはえ、雲助が横行することは容易ではなかった。
     

 
    ↓ 墨俣城
 墨俣城は清洲城同様創作城(模擬城)といわれています。自身観光目的にて墨俣宿を訪れたわけではないので、真の墨俣城を知ろうと思いましたが墨俣城についての史(資)料が少なくなく墨俣城をどのように捉えて見ればよいのかまよいました。大垣市・墨俣町に電話で問い合わせてみましたがあまり資料がないとの答えでした。
     

     ↓ 一夜城址碑
     
     ↓ 藤吉郎の馬柵立札書き込み
     
     ↓ 在りし日の一夜城址
     
     ↓ 在りし日の一夜城址
     
     ↓ 州俣取手全図(部分)
     
     ↓ 一夜城址
     
 一夜城址について(日下英之著より)・・・墨俣宿本陣近くに一夜城址がある。ここは藤吉郎時代の秀吉が、一夜で一夜で城を築いたという功名話で有名な場所である。これも西町の八幡社の山車のはやしであるが、「竹のむしろで一夜で城を城を天下手に入るそりゃ小手初め」というのがある。この一夜城の築城の様子、最近瀧喜義氏によって発見された愛知県江南市の前野家文書を中心に墨俣町が編集した『墨俣一夜城築城資料』にてひもとく。
 織田信長は美濃攻略には、まず美濃に基地を造ることが必要と考え、その場所を尾張に近く、交通上・軍事上の要衝である墨俣に決定した。ここに築城し、ここを拠点として斎藤氏の稲葉城を攻めるのが最上策と考えた。しかし、戦闘下にあって、大小河川の入り乱れた墨俣に築城することは容易なことではなかった。ここは速やかに戦えば生きる可能性があるが、速やかに戦わなければ全滅するような環境といわれた。「死地亦生地也」というようにこの地を巧みに利用すれば、かえって威力を発揮する拠点となり得る。永禄5年(1562)、佐久間信盛が築城を手がけたが失敗し、さらに同年、柴田勝家の計画も失敗に終わった。永禄9年信長は清洲城で軍議を開き、2度まで失敗した墨俣築城を引き受けるものがいないか問うた。皆がおじけづく中で、末席の木下藤吉郎がこの大役を買って出た。信長は喜んで一切を彼に任せた。藤吉郎は早速、宮後村(江南市)にいた蜂須賀小六に助力を頼み、小六はまた隣村前野村(江南市)の前野小右衛門長康に援助を求めた。こうして築城の準備にとりかかり、手斧・掛矢・槌・かすがい・鍬・鋤・もっこ・縄・藤づる・そのほかの道具を集め、さらに城や馬柵を築く木材として長材250本・短材(大)5000本・短材8500本を、木曽川上流の七曽・八曽方面から切り出して、草井(江南市)に集結させた。
 藤吉郎の築城計画
 一、高ヤグラ 5棟 是は弐階にて高サ3間半
 一、平ヤグラ 3棟 是長屋也 是は平屋也 高サ2間半
 一、土居 250間 是は高サ1間也
 一、高塀 136間 是は高サ5尺
 一、馬柵 1800間 是は高サ1間是有
 一、井戸 2ヶ所
 一、堀 360間 是は川水を引き入れて深さ1間半位幅2間
 一、殿様御屋敷 1ヶ所 是は横3間半 奥行2間半
 一、棟梁 10人
 一、下職  是は山家衆受
 一、木戸 2ヶ所 大手一 搦手一
そしてこの城郭の広さは、東西120間、南北60間の規模であった。
 準備万端を整えたのち,墨俣侵攻作戦は始まった。永禄9年9月12日牛の刻(午前2時)各隊はそれぞれの根拠地を出発した。総勢2140人。勢力は大きく二手に分けられ、一隊は宮後・前野・山尻(いずれも江南市)方面から西へ向かい、起(一宮市)で木曽川を渡って墨俣へ、一隊は草井から境川を資材とともに船で下って墨俣へ向かった。9月12日正午ころから各隊あいついで到着し、直ちに馬柵作りに着手した。城の構築は夜間に行い翌13日馬柵と櫓を完成させた。14日には斎藤軍の襲撃を受けたが、場外に配置した伏兵と城内から打って出た兵士の挟み内で、3時間にわたる戦闘ののち撃退せしめた。
 15日には完成した墨俣城へ信長が1500人の軍勢を率いて入城し、櫓の上には旗差物がひるがえり、小田の紋章木瓜の馬印も揚がった。築城の功績により、わずか50人の足軽頭であった藤吉郎は、墨俣城を預かる武将となり、ここは天正元年(1573)までの7年間、藤吉郎の居城となった。当世「一夜城」と称されたこの墨俣城の後は、昭和初年の河川改修で半分に削られてしまったが、現在は墨俣城が建てられている。 と記されていました。
     
↓ 弘法大師堂
     

     ↓ 延命寺
     

     ↓ 廣専寺
     

     ↓ 等覚寺
     

     ↓ 満福寺(満福寺について書かれた立札)
 平安時代天台宗の寺院として創建され、のち浄土真宗となり、江戸時代には末寺96カ寺を持つ。
     

     ↓ 満福寺
     

     ↓ 光受寺
     

     ↓ 津島神社と秋葉神社
     

     ↓ 墨俣神社立札(墨俣神社境内にある神社の書き込み立札)
     

     ↓ 墨俣神社
     
     ↓ 在りし日の墨俣神社
     

 以上、墨俣宿を探索してきました。墨俣宿には軒を連ねるように寺社があり驚きました。墨俣宿は「寺社町」といわれているようですが、探索した結果も思いは変わらず納得した次第です。
  墨俣宿を探索して美濃路に戻りました。
     ↓ 進むこと見た目が良くない地蔵様(ビニールが被せられていました)
     
 離れてみたらば分かりませんが、そばに寄ってみると台座に文字が刻まれていました。
     ↓ 正面右側に刻まれた文字  右 墨俣道
     

     ↓ 左側に刻まれた文字  左 大垣道
     

 この地蔵様台座には道の文字が刻まれており、道標地蔵ということでしょうか。初めて見ました。
 前に進むと大きな標が建っていました。
     ↓ 歴史の道 鎌倉街道  美濃路 と書かれています。
      ここの美濃路は鎌倉街道と重複する街道になるようです。
     

     ↓ 大きな標とともに美濃路前方撮る
     
  ◇この辺りあまり建物等建っておらず、のんびりムードで前に進みました。
     ↓ 米の宮之趾の碑・・・五穀豊穣を祈願して建てられたようです。
     

     ↓ 進むこと町屋観音堂
     
     ↓ 在りし日の観音堂
     

 町屋観音堂について・・・この観音堂は嘉鷹年間(1169年頃)創建の結神社とともに参道東側に建立されていたが、明治24年の濃尾震災で本堂が倒壊。また、揖斐川の河川改修(1904)にてその地は河川敷となり、そのため約29年間御本尊は民家に安置されていたが、大正8年にこの地に本堂が再建された。然し老朽化とこの度の歴史道整備事業の関係で平成6年(1994)現在地に再建された。この十一面観音は聖徳太子の頃栴檀(せんだん)の木で彫刻された観世音で頭上一寸八分(約6センチメートル)の黄金仏は照手姫の守本尊である。
 鎌倉街道とは・・・今からおよそ800年ほど前、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと京都と鎌倉の道筋が整備された。京都から東山道を通って美濃国に入り、不破郡の青墓宿から安八町町屋・入方・墨俣の二ツ木を通り上宿で長良川を通り尾張の国(愛知県)の黒田・下津を経て東海道に入り鎌倉に通じることから鎌倉街道と呼ばれ、当時は最も大切な道路であった。(史跡「鎌倉街道」「一里塚跡」が残る)私たちの郷土を行く鎌倉街道は東西の伝統・文化が行き交い人々の生活を支え育んできた歴史の道であり、心の道。
 待合(まちや)とは・・・中世の頃より交通の要衝で住家も並び一種の宿場町で、或る時はここを待合の場とされた時代もあり待合(町屋)の地名が付けられたといわれる。結出身蓑虫山人(天保7年・1836年に東結上村に生まれる)の絵日記の中にも待合とか待合川の名が記されている。この地には大垣と名古屋を結ぶ鎌倉街道(美濃路)が通り、近くに渡し場や結神社があり、旅籠や店などが並び宿場町をなしていたということから、いつの頃からか待合が町屋と地名が改名されたようです。

 結大明神・・・古くから結びの神として崇められ結の地名にもなっている。建治3年(1877)阿仏尼の「十六夜日記」にも出てくる古社で、織田信長も天正3年(1575)3月に17日間の戦勝祈願をしたとの言い伝えがある。明治36年(1903)揖斐川の河川改修で現在地に移転した。
     ↓ 結大明神一の鳥居
     

      
↓ 結大明神社二の鳥居
     
     ↓ 在りし日の結神社鳥居
     
     ↓ 結大明神社拝殿
     

     ↓ 在りし日の結神社本殿
      
  ↓ 西結村あたりの図  『美濃路見取絵図』より
   
  ↓ 西結村図 『美濃路見取図会・解説篇』より
  

 昔、橋が架かっていなかった時代、この突き当り階段を上がった所(揖斐川左岸堤)より向こう側に、揖斐川を渡るために渡し場があった所になります。
     ↓ 美濃路突き当り階段
     

     ↓ 揖斐川左岸堤に上がり対岸を撮る
       渡し場の形跡は全くありません。
     

 この絵図により、西結村に渡し場があったことが見てとれます。また、この佐渡川(現揖斐川)にも船橋が架けられています。
  ↓ 正徳度美濃街道佐渡川船橋絵図 正徳元年(1711)
  
  ↓ 佐渡川(揖斐川)船橋の図
   
  ↓ 上の船橋図の管轄説明図
  
  ↓ 西結村・佐渡村絵図 『美濃路見取絵図』より
  
  ↓ 佐渡常夜灯について書かれた掲示板
            

   ◇ 揖斐川右岸堤の佐渡常夜灯(3景)
     ↓ 佐渡常夜灯
     

     ↓ 佐渡常夜灯
       
     ↓ 
佐渡常夜灯
     
     ↓ 街道右側に古民家あり撮る。
     
     ↓ 教如上人御宿泊の碑
 教如上人について・・・安土桃山、江戸初期の真宗の僧。本願寺12世で、本願寺教団の東西分派の主導者とされる。摂津国大坂(大阪府)に生まれ、本願寺顕如と如春尼の子。本願寺と織田信長の石山合戦期に成人し、合戦末期には父を補佐して諸国の門徒に檄文を発した。慶長5年(1600)の関ケ原合戦に際し徳川家康を訪問してから家康との親交を深め、同7年京都東六条に寺地四町四方の寄進を受けて東本願寺を別立した。この東西分派の要因については家康と本田正信による本願寺二分の政策との説もあるが、石山合戦退城・籠城を遠因とする、本願寺門徒及び家臣団の分裂を前提とする説が有力である。
     

     ↓ 前に進んで寳光寺
     
     ↓ 寳光寺本堂
     

     ↓ 福勝寺
     

 この辺り美濃路を左に曲がらないといけない所でしたが、交差路が多く美濃路筋がどこにあるか分かりにくい所でした。上の寳光寺、福勝寺を目標に美濃路筋を探しました。
     ↓ 八幡神社
     



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Ⅰ としています。

 

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