美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

稲葉宿よりについて

2016-10-17 | THE美濃路旅

                 稲葉宿~萩原宿へ

                                稲葉宿よりについて

   ↓ 稲葉宿~萩原宿図
    
   ↓ 稲葉宿概略図
   

  ↓ 稲葉宿図 『美濃路見取絵図』より
   
  ↓ 稲沢町辺り~萩原への地図(赤丸点は美濃路) 明治24年測図
  

 稲葉宿について・・・稲葉宿は初め稲葉村だけで宿役をつとめたが、寛永年間(1624~43)に小沢村が加えられ、二村で一宿を構成した。稲沢の地名は二村の合併によって明治20年(1887)に生まれたものである。清須宿から1里半、次の萩原宿へも1里半の里程であった。宿場は入口(清須の方)から小沢村下町・上町、稲葉村東町・中町・西町と続く。小沢村と稲葉村の境に高札場が置かれていた。
 本陣は小沢村の原所次右衛門が、脇本陣は稲葉村東町の吉田又吉がつとめた。問屋場は美濃路の宿場では最も多く、3ヵ所を数えたが、小沢村の東問屋場を原氏が、稲葉村東町の中問屋場を伊藤氏があずかり、稲葉村西町の西問屋場は両氏が交代でつとめた。1問屋場2日交代でまわした。
 この宿場について『尾張徇行記』は小沢村の項で、「町並小沢村ヨリ稲葉村へ両側軒ヲツラネ、二村ノ界ニ高札アリ」と記し、また、稲葉村の項で、商売ハ処々ニヨリ木綿ヲ買出シ、名古屋木綿問屋又ハ下小田井枇杷島アタリ仲買へ送リツカハセリ、又油絞屋酒造屋ナトモアリ、又諸商ヒヲスル家モ数戸アリテ繁昌ナル市町ナリ。
 と述べており、近郷の中心としてかなりの賑わいをみせていた様子をうかがわせている。としている。
  因みに、美濃路は
家康凱旋・天下統一に因み、吉例街道ともいわれ、稲葉宿辺りでは、近江路・起街道・墨俣道などともいわれたとしている。
   ↓ 稲葉宿概要(宿高等)
   
 ◇稲葉宿琉球使節の泊まりについて・・・琉球国王の使節の江戸参府も美濃路通行であった。琉球使節は、徳川将軍の襲職を慶賀する賀慶使(慶賀使)と、琉球国王の襲封を謝恩する恩謝使(謝恩使)とがあり、寛永11年(1634)から嘉永3年(1850)まで各11回を数えた。使節の構成は正使・副使をはじめ賛議官・楽正を含めて100人弱。これを薩摩藩が先導するので数百人にものぼった。
 江戸上りの経路は、伏見まで船路、そこから東海道を通行するのが例であった。しかし、寛文11年(1671)帰国の途次桑名沖で難破する事故があり、そのためか正徳4年(1714)以後は美濃路を通るようになった。美濃路通行は賀慶使・恩謝使各6回を数えた。この地方では10月下旬から11月中旬に江戸上りの一行を迎え、年末から翌年の1月中旬の間に帰国の一行を見送った。稲葉宿に使節一行が泊まったのは3回。まず享保3年(1718)の参府である。吉宗の将軍襲職を祝す賀慶使として正使越来王子(こゆくわんず)・副使西平親方(にしんだおやかた)一行94人が、閏(うるう)10月22日に稲葉宿に泊まった。この時の詳しい様子はわからないが、江戸での儀式をすませて帰途、12月26日にここを通過したはずである。『尾張名所図会』によれば、このとき金華山禅源寺の僧が王子に詩1篇をを贈ったとされる。次は、天保3年(1832)の恩謝使である。11月3日、正使豊見城王子(豊見城ワンズ)・副使沢氏親方(たくしおやかた)以下琉球人97人と先導の薩摩藩士らを含め、併せて総勢790人が稲葉宿の60軒に分宿した。正使は本陣に、副使以下の琉球人は山田藤吉宅・山田藤大宅・金三郎宅に宿泊した。薩摩藩関係者は脇本陣吉田又吉宅その他に分宿し、さらに幕府役人が山田市三郎宅・禅源寺・崇福寺など8軒を占めた。この頃の稲葉宿の人口は約1500人。この日の混雑ぶりはいかばかりであったろうか。
 これだけの人数が宿泊するのだから布団や諸色の調達も大変であった。通行に先立って清洲代官からの通達により、近郷諸村から蒲団・膳椀・風呂桶・炬燵・飯炊き釜・火鉢等が宿内に運び込まれた。さらに、人馬の割当が行われ、それに満たない不足分は代銭の納入を義務付けられた。  以上が琉球使節の稲葉宿泊まりの書き込みです。
 ↓ 琉球人来朝行列図
  
 ◇朝鮮通信使(稲葉宿大通行について)・・・朝鮮通信使とは江戸時代に朝鮮王国が日本に派遣した外交使節団である。多くは将軍の代替り等の慶事に来朝した。慶長12年(1707)から文化3年(1811)まで、江戸時代を通じて12回を数えたが、そのうち10回は美濃路を通行した。その経路は漢城(ハンソン)・ソウルを発って陸路釜山に至り、海路に移って対馬・壱岐を経て瀬戸内海に入り大坂に到着した。そこから川舩で淀川を遡って淀に上陸して京都に入った。ここから草津・彦根・垂井を経て美濃路に入り、木曽三川では大掛かりな船橋を渡った。この船橋は将軍の上洛時と朝鮮通信使の通行の時だけ架けられたもので、天下の奇観として毎回の使節団旅行記録に記されている。こうして尾張に入り、熱田から東海道を江戸に向かった。
 使節の構成は正使・副使・従事官の3使をはじめ、その随員・医師・儀杖・警護・船員などである。総人数は大体500人弱であったが、一行を案内し警備にあたる対馬の宗氏とその従者を加えると2000人に及ぶこともあった。この近辺の旅程は、大垣泊~墨俣か起(昼休)~名古屋泊(名古屋若宮八幡社南に建っていた性高院が旅宿)となっていたので、稲葉宿は通過に過ぎなかった。しかし通信使は勅使・院使より丁重に遇されるのがつねであったので、通行に際しての準備と送迎は大変であった。美濃路の通行の最後となった第11次の宝暦14年(明和元年・1764)の様子を見てみると、このときは10代将軍家治の襲職の賀使であり、宗対馬守義暢の先導で正使趙趙曮・副使李仁培・従事官金相翊の3使を迎えたものである。
 使節当地通行は2月3日であったが、その準備は前年の4月頃から始まり、往還の修理、並木の補植、橋の架け替え、家の修理などお触れが出され、幕府や尾張藩の役人の点検を受けた。通行が近づくと使節が将軍に献上する鷹や馬の餌の調達も課せられた。
 いよいよ通信使一行の通行である。この通行は何十年に一度である。沿道の人々は遠路来日した隣国の異人とその風俗に目を見張ったと思われる。その見物にもお触れが出され、火の元の注意・不審者の届け・一行との売り買い禁止・喧嘩口論や高笑いの慎み・二階からの見物不可等々である。人々は雨落ちの内側で行儀よく見物しなければならなかった。夕方暗くなってからの通行には、家々は提灯を灯し、宿はずれでは松明をたいて迎えた。
 一行の接待は沿道の大名に割り当てられた。この地域は尾張藩が担当したが、市域全村から人馬が徴発されて継立にあたった。また稲葉宿の近辺では宿はずれに仮茶屋を二軒建てて、湯茶・菓子・煙草・草鞋などの接待をした。その手伝い人足は稲島・木全・天池・石橋・桜木の村々があたった。 
 ◇稲葉宿の茶壺道中について・・・茶壺道中というのは、幕府が山城国宇治より年間の飲用茶を求める行事で寛永9年(1632)宇治茶を将軍に献上したのに始まるといわれる。毎年立春から数えて100日以後の頃、江戸より3箇の茶壷が東海道を宇治まで運ばれた。その際、込野・北麻績・南麻績・目比・氷室・坂田・西溝口・野崎・今の各村は佐屋路の神守宿へ人足を出した(寛文覚書)。宇治の茶師上林家で新茶を詰め、帰路は中山道を経由するのが通例であったようだが、美濃路を経て東行することも少なくなかった。当地方の通行は、宝暦13年(1763)は5月28日、文政3年(1820)は5月26日、文政4年1821)は6月8日などが判明している(宮崎正吉所蔵文書・稲葉宿記録上)。
 茶壺の往来は将軍家の権威を背景に、大変盛大であり、時に横暴でさえあって人々に恐れられた。大名ですら道路の端に駕籠を下してひかえなければならなかったし(尾張交通史料)、無邪気な子供たちも「茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ」と童謡が示すが如く家の内で小さくなっていなければならなかった。宿舎には本陣が当てられ、宿役人は羽織袴の礼装で下座し、送迎の礼をつくした。また多数の人馬が使役され、稲葉宿における文政3年(1820)・同4年(1821)の数字は次のようであった。
      御茶壺下向
               (文政3年)  (文政4年)
  一、御朱印場馬     34疋     34疋
  一、御朱印人足    115人    109人
  一、御証文人足     42人     36人 
  〔文政三辰・同四巳年御朱印御証文御触留、稲葉宿記録上〕
 この御朱印は将軍の朱印状によって、御証文は老中など幕府役人の証明書で、人馬を使うもので、ともに無賃であった。この外に、実際には添人足、添馬を出すのが普通であり是も無賃であった。宿が添馬を出し、助郷が添人足を多く出しているのは茶壺道中の時であったとしている。また文政3年(1820)の稲葉宿における御朱印御証文人馬総数は、人足163人、馬138疋であるが、この中茶壺関係が157人・34疋であり、同様に文政4年の総数が163人・36疋の中、茶壺関係が155人・34疋 である。年間の御朱印御証文人馬の大半が、この茶壺道中で占められていあたのだから、その盛大さもうかがえる。特にこの通行が田植えの時期と重なったので、その負担は二重になって農民を苦しめたとしている。

 
次に美濃路を利用して行われた大名行列について記します。まず江戸時代には全国諸大名に参勤交代をさせた。参勤交代とは江戸幕府が諸大名に義務付けた制度(例外もあり)。
 これは幕府の大名統制策で、参勤した大名は1年間ほど江戸に居住し、そして、時期になると領国に帰国。1年交代で江戸と領国を往復することが多く、江戸時代が終わるまで大名行列が街道を行き交った。そのため、街道、宿場の維持や経営に参勤交代は密接に関係を持っていた。参勤交代によって江戸では膨大な武士が生活することになり、江戸時代の中頃の人口は100万人を超えるといわれ、世界屈指の大都市となった。その半分ほどが武家人口といわれる。武士層に供給する物資を仕入れる業者や商売人、武家奉公する人々など、商業や雇用の面でも武家人口が大きな役割を果たした。参勤交代制度なくして巨大都市江戸は成り立たず、街道や宿場の発展もなかったことになります。参勤交代制度は武家書法度によって定められた。
 武家書法度について・・・江戸時代諸大名統制のために作った法令。大名の心得、城の修築の制限、婚姻・参勤交代などにつき規定したもので、1615年徳川家康が作った13ヶ条が最初。35年、徳川家光の時改訂され・増補され、一応完成をみたが、以後も時勢に応じて部分改訂が行われた。
 ↓ 参勤交代大名之図(一例)
 
 ↓ 大垣藩戸田家の大名行列図  大垣藩は美濃路を通行している。
 
 ↓ 紀伊殿大名行列図  参勤交代のおり美濃路を利用している。
 

     ↓ 稲葉一里塚跡
        

     ↓ 稲葉宿本陣跡の碑
     

     ↓ 稲葉宿中心の通り
 かっては高札場が建っており札の辻と呼ばれていたと思われる。美濃路は国府宮方面からきて稲葉宿の中心部(本陣跡)の所で左折となります。稲葉宿においての高札場はこの街道右側、本陣が建っていた所より少し先の所とおおよその見当はついていましたが、高札場を示す目標物が何もなく高札場の建っていた場所の特定はできませんでした。

     

     ↓ 前に進み古民家(山田邸)
     

     ↓ 藤市酒造店、明治5年(1872)創業
 看板には「瑞豐」と書かれていました。瑞豐は藤市酒造さんで造られる味醂の名称。
     
     ↓ 瑞豐とは味醂の銘柄のようです。
     
     ↓ 少し前右側に稲葉宿問屋場址の後ろに建っている建屋(趣ある建屋)
     

   ↓ 問屋場址の碑
   

     ↓ 進むこと津島街道道標「右 つしま道」と刻まれていました
     

     ↓ 寳光寺
     

     ↓ 寳光寺前より美濃路前方(町並)撮る
     

 ◇禅源寺立札と禅源寺・・・美濃路を少し離れ見に行きました
     ↓ 禅源寺書き込み立札
     
    
     ↓ 禅源寺
     

     ↓ 禅源寺鐘楼
     
 禅源寺について・・・禅源寺は金華山と号し、臨済宗妙心寺派に属しこの地方の大刹であった。寛永11年(1634)7月、将軍家光が上洛した時、その旅宿となり紋付綾一巻、帷子一重を拝領した。その由緒により表道具に御紋ををつけることを免ぜられたという。またこの寺は朝鮮通信使、琉球王使との関係も深かった。『尾張名所図会』に「本堂額・惣門額とも、朝鮮人滄浪筆なり」と見えているように、今も本堂にある「禅源寺」の額は、天和2年(1682)に来朝した朝鮮通信使随員であった洪世泰(滄浪)の筆になるものである。また、吉宗の将軍襲職を慶賀する琉球王使が享保3年(1718)に江戸に来ているが、その帰途、ここの僧侶と詩の贈答を行ったという事績も伝えられている。明治2年(1869)12月、この禅源寺で打ち鳴らされる早鐘を合図に稲葉騒動という大規模な農民一揆が起こった。参加した農民は3万5000人といわれ、行動範囲は現在の稲沢市をはじめ、一宮市・津島市・清洲町・甚目寺町・美和町・佐織町・大治町にまたがり、旧村数で68ヵ村に及び、被害を受けた家は7、80軒を数えた。この騒動は、美濃路に江戸から明治への転換を告げる一事件でもあった。としている。
   ↓ 禅源寺扁額
 天和2年度の通行の際、随員であった洪世秦(ホンセテ)が「禅源寺」と寺号を書いたもので、今その一つが本堂に掲げられているとされる。
   
   ↓ 「禅源寺 伊奈波神社 金神社」図会 『尾張名所図会』より
   

     ↓ 稲葉神社(写真右側の楠は御神木とされている)
     

 ↓ 上の図絵『尾張名所図会』に描かれている金(こがね)神社撮る
 
     ↓ 金(こがね)神社
     

 ここより美濃路に戻る。

     ↓ 前に進んで古民家撮る(蔵の雰囲気が何とも言えない)
     

     ↓ 次も古民家の土蔵の蔵窓(重厚感あり)
     
 ここで少し稲葉宿の概要等を書き込みたいと思います。この稲葉宿は江戸から93里35町7間(約370Km)の距離にあり、上りもの萩原宿へも、下りの清須宿へも、それぞれ1里半(約6Km)の里程であった。また、小沢村、稲葉村の境に高札場が置かれていた。休泊施設は本陣、脇本陣、旅籠屋。旅籠屋は庶民の宿泊施設で小さい旅籠が6軒、中くらいが2軒で大旅籠はなかったとのこと。
 稲葉宿の高札について少し記載したいと思います。高札場は稲葉宿のみだけではなく、各宿場の中心に建てられていました。高札場の高札には当初あまり興味を感じませんでしたが、稲葉宿の資料の中に高札の書き込みがあり高札に関心を持つことになりました。
     ↓ 稲葉宿の高札
     
 当初高札の枚数にそれほどこだわりはしませんでしたが、稲葉宿の資料を見て高札の枚数、高札の書き込み内容、高札の形によって書き込み内容が違う等々があり興味がわきました。稲葉宿の高札は、ィ・ロ・ハ・二・ホ・へ・ト・チの8枚であったようです。各高札の書き込み内容を記します。
 ィ=人売買・博奕・喧嘩・口論禁止の高札
 ロ=毒薬・似せ薬種の売買と金銀売買の禁止の高札
 ハ=切支丹禁制の高札
 二=稲葉宿から清須・萩原までの駄賃(いわゆる元賃銭〉の高札
 ホ=荷物の貫目制限の高札
 へ=火付け者の捕縛・通報の高札
 ト=人馬増賃銭の添高札
 チ=徒党・強訴・逃散の禁止高札
 以上各高札の内容を記しました。文面は「定」で始まり、「右之通従公義被仰出の訖弥堅可相守之者也」で終り、末尾に成瀬隼人正と竹腰山城守両人の名がある。高札はしばしば建て替え、書直しが行われたが、正徳元年(1711)のものが、その後長く踏襲された模様とのことです。
 
  ◇
稲葉宿西町あたりからの書き込みとします。
     ↓ 稲葉宿中町あたりから美濃路前方撮る
     
     ↓ 古民家と美濃路前方を撮る
     
     ↓ 魦の橋から美濃路後方(稲葉宿方向)を撮る
     
 魦の橋あたりまでが稲葉宿内になるように感じました。この先へ美濃路を進みました。
     ↓ 美濃路を進み県道14号線を撮る
     
     ↓ 同じ場所からこれから進む美濃路前方を撮る。
   美濃路幅がかなり広く感じました。美濃路とみるには違和感がありました。
     
 県道は道幅広く美濃路の感覚がなくなる道でした。ここを先に進み左折することに。
     ↓ 稲沢市上下水道庁舎撮る

      
 美濃路を進んで中島宮までくる。
     ↓ 中島宮一の鳥居撮る
      
     ↓ 中島宮二の鳥居撮る
     
     ↓ 中島宮
     
     ↓ 中島宮本殿撮る
     
 ↓ 中島宮の由来について書かれた掲示板書き込み
 
     ↓ 「中島村 長隆寺 延命寺」図会  『尾張名所図会』より
     
     ↓ 中島宮に隣接して建っている長隆寺撮る
     
     ↓ 長隆寺本堂
     
  ↓ 中島村・西御堂村を描いた絵図  『美濃路見取絵図』より
  
 『尾張名所図会』には長隆寺・延命寺が描かれていたので、近所の方に尋ね尋ねて延命寺が建っていたところへ。所在は確認しましたが、現在は民家のようになっており寺として存在しているかどうか分かりませんでした。また、その確認はしませんでした。    
 美濃路の西御堂あたりに戻る。
     ↓ 西御堂から美濃路前方撮る
     
     ↓ 前に進んでたかぎはし撮る
     
 たかぎはしを渡ったところ辺りに立て場があったと聞きましたが、その資料は見てません。そのまま美濃路を前に進む。
     ↓ 街道沿いに花栽培のビニールハウス有写真撮る
     
     ↓ 前に進んで高木神社撮る
     
     ↓ 高木の一里塚址碑撮る
     
     ↓ 前に進み串作交差点から美濃路前方撮る
     
  ↓ 串作村から萩原宿までの絵図  『美濃路見取絵図』より
  
  ↓ 中島郡串作村絵図  天保12年(1841)
  
  ここより先は萩原宿に入って行く感じがします。
      
    
    続きの書き込みは 
萩原宿よりについて としています。

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