美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

大垣宿よりについて(終点地迄) Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                                   大垣宿よりについて(終点地迄) Ⅱ


    ◇大垣城の書き込みの続きになります
     ↓ 戸田一西(かずあき)甲冑
     
 戸田一西について・・・三河国に生まれ、徳川家に仕えて数々の戦功を挙げ、鯨井五千石から、関ヶ原の功績等により繕諸三万石の城主となり、戸田家の礎を築いた人物。
     ↓ 明治29年(1896)
       7月・9月の風水害についての大垣城内掲示板書き込みと碑。
     
     
     ↓ 明治29年、水につかった大垣城
 明治29年の大水害時に水に浮かぶ国宝大垣城。罹災した大垣住民がこの天守に押し寄せ、階上はは多数の避難民や運搬物資で充満していたとされる。この窮地のなか、横曽根堤防を切り割って大垣輪中に水没した4万人の人命を救った金森吉次郎建立の石碑と、天守石垣に刻まれた最高水浸線が、防災への備えを今に伝えているとしている。
     
     ↓ 大垣城夜景
     
     ↓ 招魂社(大垣城とともに写っている)
     
     ↓ 招魂社境内会図
     
     ↓ 在りし日の招魂社
     
 招魂社について・・・美濃国大垣藩11代藩主戸田氏共(とだうじたか)が戊申戦争の戦死者54名を祀るため招魂祀を創建したのに始まる。明治8年に官祭招魂社に改称し、昭和14年招魂社の制度が護国神社に改めたのにともない濃飛護国神社と改称した。
     ↓ 護国神社(鳥居と拝殿)
 大垣護国神社の祭神は、明治戊申の役を始め、日清日露各役を経てからの、支那事変大東亜戦争により、西濃一市五郡から国民の犠牲となった戦没者諸士、18914柱の英霊。
     
 ◇大垣八幡神社で撮った写真掲載
     ↓ 大垣八幡神社
     
     ↓ 八幡神社拝殿
     
     ↓ 大垣八幡神社では2社の社殿が隣接して建っています。
       右側拝殿、大垣恵比寿・大黒 大神
     
     ↓ 在りし日の大垣八幡神社
     
 この八幡神社内には湧水が出ており、みなさんポリ容器、ペットボトル等を持ち水を入れ持って帰られています。
  ↓ 自噴水 大垣の湧水についての書き込み
  
     ↓ 湧水を入れておられるところ写真に撮りました
     
 大垣の(やま)ついて・・・の起源は、慶安元年(1648)に大垣宿の総氏神であった八幡神社が大垣藩戸田氏鉄により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄付で表し大垣10カ町が10輌のを造って曵きまわしたのが始まりといわれる。延宝年(1679)、藩主戸田氏西(うじあき)公から「神楽」「大黒」「恵比須」のいわゆる3輌を賜りそれを機に10カ町はの飾りつけに趣向を凝らしていった。濃尾震災や先の大戦によって多くのを失うが、その後修復や復元、購入したことなどにより再建が進められ、平成24年に2輌のが復元され、70年ぶりの全13輌のが勢ぞろいした。
 大垣八幡神社では毎年大垣祭で賑わう所になっています。      
 ↓ 大垣祭の祭行事についての掲示板書き込み
 
 ◇大垣祭を観てきました。写真掲載します。

  ↓ 大垣まつりポスター
  
  ↓ 八幡神社前に並ぶ
  
  ↓ 浦嶋
  
  ↓ 玉の井
  
  ↓ 夜の
  
  ↓ 夜の
  
  ↓ 夜の、は人混みをかき分けるように進む。
  
     以上
   ◇大垣戸田藩菩提寺円通寺
  ↓ 円通寺、円通寺山門について書かれた掲示板書き込み
  

     
     ↓ 円通寺本堂
     
     ↓ 円通寺戸田家廟所奥にある氏鉄公の墓所
      氏鉄公の法名は「覺岸院殿長譽常閑大居士」
     
     ↓ 在りし日の円通寺
     

 大垣別院開闡寺
 真宗大谷派を本山とする別院。宗旨は浄土真宗、本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)。宗祖は親鸞聖人。

     ↓ 大垣別院開闡寺本堂
     
     ↓ 在りし日の大垣東本願寺別院
     
     ↓ 在りし日の大垣東本願寺別院
     
     ↓ 愛宕神社(恵比須やまと愛宕やまのやま倉と一緒に撮りました。)
     
     ↓ 愛宕神社拝殿
     
 ↓ 大垣「四季の路」の図。「四季の路」は愛宕神社(錦町)を起点とし、水門川の沿った道筋になっており、俳聖松尾芭蕉「奥の細道むすびの地」(船町)まで 、「貴船広場」や「四季の広場」を回遊し総延長2200mの路(緑道)になっている。「四季の路」の緑道に沿って句碑が建てられている。大垣は松尾芭蕉の奥の細道むすびの地して名高い。それが縁で「四季の路(句碑道)」が作られたんでしょうか。水門川に沿って句碑が立てられていることを示した「四季の路」図です
 
 ↓「初」~「結」までの句が書かれています。句碑が立てられている所は上記の地図に載っています。下記には句の書き込みを掲載しました。
 
 ◇句碑2例ほど掲載します(句の説明をしたものが句碑と対で置かれています)。
  ↓ ⑮「あかあかと 日は難面も 秋の風」の句について書かれています
  
  ↓ 「あかあかと 日は難面も 秋の風」の句碑
  
  ↓ ⑰「石山の 石より白し 秋の風」の句について書かれています
  
  ↓ 「石山の 石より白し 秋の風」の句碑
  
  ↓ 「四季の路」美登鯉橋辺りより虹の橋辺り、「水都」の風景。
  
 ◇大垣の資料の中にありました。屋根神様の写真。清須市新川橋あたりの美濃路より見ることがなかったのですが、ここ大垣でも屋根神様が祀られていたことに少し驚きました。屋根神様は尾張地方で主に祀られていたもの。尾張地方では津島神社、秋葉神社、熱田神宮を祀ったということですが、ここ大垣(美濃)地方ではどの神様が祀られていたかは不明です。
     ↓ 船町3丁目にあった屋根神様
     
 大垣宿内を探索した後、美濃路に戻り進みました。

     ↓ 稲荷神社
     
     ↓ 守屋孫八本家
      今は営業されておられない様子?お気に入りで撮りました
               
     ↓ 守屋孫八本家
     
     ↓ 水神神社
     
     ↓ 永壽寺道標
     
     ↓ 杭瀬川に架かる塩田橋
     
   ◇静里町塩田常夜燈
  ↓ 静里町塩田常夜燈について書かれた掲示板書き込み
  

  ↓ 静里町塩田常夜燈
  

  

     ↓ 塩田橋の碑と養老街道道標
     
     ↓ 在りし日の塩田橋一景
     
     ↓ 在りし日の塩田橋一景
     
     ↓ 塩田橋一景
     
 杭瀬川情景についての書き込み・・・戦前は市内を流れる河川で水車が見られたという。精米や製粉用の水車もあったが、多くは川水を稲田へ汲み上げるものであった。杭瀬川の西岸にはおよそ50メートルごとに設置され、田植え前から夏の間にかけて稼働していた。闇が濃くなると「天の川ホタル」がほとりの柳から柳へ飛び交い、風情あった模様。昭和初期の絵ハガキを見ると、川の流れとともにのどかでゆったりとした時の流れが感じ取れたといわれる。
 昭和40年代には、塩田橋左岸に屋形船が2艘繋留されていた。塩田橋を行く人の目を惹いたのは、白字の看板に筆太に大書きされた「すきやき」の文字であった。私は静里の親戚に行ったり、もらい風呂に行ったりする際、気になってしょうがなかった。近くに住む古老によれば船内の中央に机が置かれ、それを取り囲むように宴会が行われ、定員は10名ほどだったという。橋の東詰には小料理屋あり、軒に吊るされたいくつかの赤提灯が川風に揺れていたのも印象深い。
 この書き込みには今にはない光景が書き込まれ、のどかな風景の書き込みにはしみるような感覚が頭の中をよぎりました。
     ↓ 杭瀬川の屋形船
     
     ↓ 杭瀬川水車の見える風景
     
 次に久徳一里塚
  ↓ 久徳の一里塚について書かれた掲示板
  
  ↓ 久徳一里塚
  
  ↓ 久徳一里塚
  
 久徳の一里塚・・・徳川家康は幕府の基盤を固めるために、全国主要道路の整備に努め、慶長9年(1604)には、その路程標として一里塚を築かせた。一里塚とは一里(約4Km)ごとに街道両側に5間四方の塚を築きその頂に榎などを植えたもので旅人の里程の目安となり、乗り賃支払いの基準とされたほか、休息の場でもあった。
 美濃路には一里塚が13カ所あったが、今は冨田東西の塚と久徳の南塚のみが存在している。重要史跡である。
 県道31号線沿いに大垣輪中荒川水防倉庫。水害に備えて土嚢等が置かれているんでしょうか。少し気になりました。
     ↓ 大垣輪中荒川水防倉庫
     
     ↓ 垂井 京都 →
       大垣 岐阜 ← 道  と刻まれており道標と思います
     
 この場所にはもう一基道標がありました。刻まれた文字ははっきり読み取りにくかったのですが、従是南宮社江近道と刻まれているようです。
     
     ↓ 綾戸COFFEE店とともに美濃路撮る
     
     ↓ 六社神社(3景)
     
     ↓ 六社神社拝殿へ向け撮る
               
     ↓ 六社神社山門・拝殿
     
     ↓ 在りし日の六社神社
               
 ◇垂井綾戸の松並木(2景)

 垂井綾戸の松並木について・・・美濃路で出会った初めての松並木、昔はごく一般に見られた松並木が環境の悪化、松枯れ、道路整備等の影響でしょうか、今では私の住んでいる町でも見れない光景になっています。美濃路にあり目の保養をさせてもらいました。綾戸の松並木は街道の両側にあって土手を築き、松を植えて松並木を作り、夏の日除けや冬の雪除けになり旅人を守った。綾戸と追分の間にある松並木は美濃路に残る唯一の松並木。道の両側にあって、江戸時代の面影を伝えている。
  ↓ 綾戸の松並木
  
  
  ↓ 在りし日の綾戸の松並木
  
     ↓ 垂井宿垂井追分辺りの絵図 『美濃路見取絵図』より
     
     ↓ 追分庵(中山道と美濃路の追分に建てられている)
     
  ↓ 垂井追分道標について書かれた立札
  
     ↓ 美濃路、中山道追分道標(木製)
     
     ↓ 垂井追分道標
     
     ↓ 垂井追分角柱道標(レプリカ)
     
     ↓ 美濃路・中山道垂井追分(中山道方向撮る)
     
     ↓ 美濃路・中山道追分(美濃路方向撮る)
               
     ↓ 中山道・美濃路追分写真(昭和初期)
     
     ↓ 在りし日の垂井追分
     
     
↓ 美濃路を通った象の絵
     
 象の美濃路通行について・・・象の美濃路通行は1729年中山道と美濃路の追分から始まった。ここ垂井の追分は美濃路中山道尾張路廻りの起点地になります。象の美濃路通行は垂井泊、墨俣休、起泊、稲葉休、清須泊、宮休とかなり早いスピードで美濃路を通り過ぎた。美濃路には揖斐・長良・境・木曽の川があり、巨大な象の渡しには大変な苦労があったと思います。美濃路で象の巨体を目の当たりにした人々は、その大きさにさぞかしびっくりしたと思われる。
 ↓ 『中山道分間延絵図・解説篇』
    美濃路、継父川橋・相川橋、垂井宿の書き込みがありました。掲載します。
 
 『中山道分間延絵図・解説篇』の中、美濃路について次のように書かれています。
 南西々へ向かってくる中山道に対し、大垣宿から北西西に向かってきて相川の東岸で一つになるのが美濃路で、垂井宿で中山道と合している。美濃路は東海道と中山道を熱田宿と垂井宿の間で結んでいて・・・〈中略〉・・・両街道を合一した箇所を追分といい、石の棒杭が寛政13年(1801)一本建っていた。
 この書き込みには、美濃路は東海道〈熱田宿〉と中山道〈垂井宿〉を結んでいたと書かれています。両街道が合一した箇所として追分としています。東海道〈熱田宿〉と中山道〈垂井宿〉を結んでいたのは美濃路。美濃路の終点地は垂井宿垂井追分という事になります。
 『美濃路見取絵図』、『中山道分間延絵図』より美濃路の終点地は垂井宿垂井追分迄ということになります。

 熱田宿から垂井宿垂井追分までの美濃路旅の書き込みをしましたが、垂井宿垂井追分にて終わりとします。    
 ここよりは、折角ここまでこれたので「
垂井宿よりについて」の書き込みを加え、美濃路にかかわのある祭、美濃路にかかわりのある名所地の今と昔等々を、私のブログ名『美濃路・THE美濃路』の中に書き加えていくこととしました。

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