美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

清須宿よりについて Ⅰ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                        清須宿~稲葉宿へ

                     清須宿よりについて Ⅰ


     ↓ 清須宿~稲葉宿略図
     
     ↓ 清須宿概略図
     
  ↓ 清須宿概要(宿高等)
  
   ↓ 清須宿絵図 『美濃路見取絵図』より
   
   ↓ 清須宿図 『美濃路見取絵図・解説篇』より
   
 ≫清須宿について・・・清須は織田氏の城下町として栄えたが、名古屋築城とともに尾張の政治・経済の中心は名古屋へ移った。この時、清洲城下から・武家・寺社・町屋をあげて移転が行われた。世にいう「清洲越」である。人口6万余と推定される都市が町名とともにそのまま移転したのは歴史上まれなことである。五条橋にかかっていた五条橋も擬宝珠とともに橋名まで名古屋に移った
。名古屋の町名でもと清洲にあったと確認できるものが多数あるとされる。まことに大きな遷府であった。こうして殷賑をきわめた城下町もさびれ、その後開墾されて清須新田といわれ14の支邑に分かれた。当時の臼挽きの歌にも、
  思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野とならう 
   と唱われ、寛文12年(1672)に成立した『尾張大根』にも、
 城郭の跡をはたけとしづが屋に 昔のつるぎ今の菜がたな 
   と記されたほどである。
 清須が再生するのは、美濃路の宿場が置かれてからである
 。徳川家康が西市場に伝馬町の宿場を設けたのは慶長7年(1602)のことであったが、これは「清洲越」で廃絶した。その後元和2年(1616)内北市場分桑名町に再び宿場が置かれたが、ここも寛文8年(1668)火災にあい、神明町に移ったのである。
 ここは江戸から92里17町7間、名古屋宿から2里の距離にあり、次の稲葉宿へは1里半であった。『宿村大概帳』には宿高はないが小塚町・田中町・伊勢町・内北市場が加宿とされ、その高は1177石8斗7升5合であると記されている。
 本陣は林惣兵衛、脇本陣は櫛田源兵衛・伊藤甚左衛門がつとめ、ともに神明町の街道沿いにあった。『宿村大概帳』『美濃路見取絵図』には脇本陣が3軒とあるが、2軒ではないかと思われる。特に本陣は貴顕の休泊にふさわしい豪壮な造りで、建坪312坪を数え美濃宿場では最大であった。 (日下英之著より)
  ↓ 清洲町~稲葉への地図(赤丸点は美濃路)  明治24年測図
  

 「清須総園」図会  『尾張名所図会』より
   ↓ 其一
   

   ↓ 其二
   
     ↓ 五条橋周辺図 『尾張名所図会』トリミング掲載  
 五条橋、天王社、城址の場所は赤色矢印で示しました。祭りは五条橋上流(図会右側方向)にておこなわれました。
     
   ◇氏子札と壬申戸籍
 一時期のことであるが、村人の身分保障を、寺院にかわって神社に行わせたことさえある。神社は宗門改帳にかわる氏子の名簿を作り・氏子であることを証明する「氏子札」を発行したのであった。明治5年(1872)壬申の年に京都で始まった制度をもとにして全国にわたって新しい戸籍制度が定められ、今日の戸籍の起源となる「壬神戸籍」ができた。
     ↓ 氏子札
     
     ↓ 壬神戸籍・戸籍簿(清洲村)
     
     ↓ 慶長年間の清洲城と城下町図
        
 母都市としての清須について・・・名古屋では古くから熱田が港や鳥居松として存在していたが、清洲を名古屋の母都市ということができる。地図(上地図)によると清洲は、戦国時代に織田信長らによって近世的な城郭が出来上がり、五条川を利用した内堀、外堀があり堀の周囲に土居も設置していた。また、城を中心とした武家屋敷、町人町の鍛冶屋町や材木町、鍋屋町などの地名が描かれて寺町的なものも分布していた。江戸時代に入ると、徳川家康は豊臣方の防衛拠点として、東海道や東海道が接し、木曽川や長良川が集結する尾張の地に本格的な構想を描いていた。そこで、織田信長の居城であった清洲を考えていた。しかし、ここは「清洲城」に問題点がいくつかあった。すなわち、清洲の地は沖積平野で五条川がしばしば氾濫を起して水害が多いこと、水攻めされれば兵糧を欠くこと、城郭が小さいため多くの兵が駐屯するのが難しいことなどであった。このことは名古屋への大きな移転要因ともなった。
 清須宿について・・・清須宿には御馳走場という施設があり、参勤交代の大名を送迎するために、宿役人が裃を着用し、宿はずれまで出かけた際の送迎所である。北は、十軒町北端の西側にあり、約4坪の空地に南・北・西面に杉が木がめぐらしてあった。南は一定しないで、通常は五条橋西の橋ぎわに仮設した。大名によっては、本町の松並木や新川橋のあたりまで出張って御馳走場を設けたという。
 宿には旅籠屋が軒を連ねていた。江戸後期になって飯盛女がおかれてからは、多くの旅籠屋が遊女屋に変質してしまったといわれる。天保15年(1844)に、旅籠や連中が飯盛女をかかえるに当たって、清洲村内の青少年に悪影響を与えないようにするという誓約書を、村役人に入れているほどである。その頃旅籠屋は15軒あったが、のちに揚屋・置屋が40軒ほどに増加し、一方本来の宿屋はごくわずかになった。特に盆・正月・9月の御日待には、遠方からの客も来て賑わったといわれる。
      ↓ 長者橋東信号標識と美濃路前方(町並)撮る
     

 ここより美濃路を離れて日吉神社撮りに行く

     ↓ 日吉神社
 清洲山王宮(日吉神社)は山王(山の神)を祀り厄災を除くことを目的として建立され、清洲城下の総鎮守神(総氏神)として信仰を集めている。山の神を祀るためその神の使いを申(猿)としており、境内には様々な猿の神像が置かれている。戦国時代の英傑「豊臣秀吉」と深く縁があり、秀吉の母は当神社に祈願をし秀吉を授かり、そのため、幼名を日吉丸と名付けたとされる。
     

     ↓ 日吉神社由緒書
      
     ↓ 日吉神社拝殿へ
     

     ↓ 日吉神社拝殿
     
     ↓ 在りし日の日吉神社拝殿
     

     ↓ 「山王社(日吉神社)」図会  『尾張名所図会』より
     

 日吉神社より美濃路に戻る。

 ↓「清須の前田利家とまつ」についての掲示板書き込み
  
     ↓ 五条橋について書かれた立札・・・清須越しは1610年としている。
     
     ↓ 五条橋
     
     ↓ 五条橋
     

     ↓ 夜の五条橋(2014年2月撮)
     

     ↓ 旧五条橋
              

 名古屋へ城下が移された時、ここにあった五条橋は名古屋堀川の七橋の一つ、五条橋として架け替えられた。「清洲越」で名古屋へ移された橋として、知名度はかなり高い。
 五条橋を渡り清凉寺に行くまでの間、美濃路左側に脇本陣があった。徳川家康が天下を取るまで、ここ清洲は城下町として発展していた。その頃の人口は6万人とも7万人とも言われている。それが家康が天下を取ったのち「清洲越」にて清須の町ごと名古屋へ持っていかれた。その時清洲の人口は激減したと思われるが、その後、美濃路の発展で清洲は再生を果たす。
 清須宿概要
  家数=521軒   人口=2545人   旅籠屋=21軒
  本陣=1軒     脇本陣=3軒     問屋場=1軒
     ↓ 尾州領美濃路清須宿端迄絵図  万延元年(1860)
     
  ↓ 清洲神明町絵図
  
  ↓ 清洲神明町絵図対象図
  

 五条橋を渡り少し美濃路をはずれ川上神社を撮りに行きました。
 川上神社・・・明治初年の神仏分離令により、別当時の清凉寺から分離して川上神社となった。それ以前は牛頭天王社と呼ばれ清洲四天王のひとつとして城下町時代からあり、清洲越以降現在地に移されたといわれる。
     ↓ 川上神社
     
     ↓ 川上神社
     
     ↓ 川上神社・清須天王社御由緒
     

     ↓ 「清須花火」図会 『尾張名所図会』より
 明治初年の神仏分離令により別当寺清凉寺から分離して川上神社となった。川上神社で行われる例祭は清須天王祭といわれ宝暦四年(1754)以前から尾張藩が許した花火が打ち上げられ、津島の天王祭と同日に同様の形式で華やかに行われたといわれる。2艘の船が車楽をのせ行ききさせたとのこと、天保の頃が最盛期だったとされる。花火は昭和初期に廃止されたといわれる。「清須花火」の図絵は、その時の模様を描いた絵ということです。
          
     ↓ 清洲花火の図
 祭りの当日は五条川の川べりにのぼりを立て、数限りなく提灯をともし、車楽(だんじり)の船を流れに浮かべた。新明町と田中町の祭車2台を船2艘に仕組んだもの。町内の者は桟敷を構えて見物し、堤には露店が連なり遠近から大勢の人々がつめかけ、打ち上げ花火や滝やからくりなど多彩な仕掛け花火に手を打ってはやし立てた。また、遠方の村々でも、この夜の祭典を心待ちにしており、木曽川沿いでは、堤上に宴をひらき、津島と清洲の花火が競い打ち上げられるのを楽しんだ。このことは『清洲町史』に書かれていました。
       
 ここより、高力猿猴庵が清洲花火を描いた絵を数枚掲載します。清洲花火は往時にあっては華やかな見世物で、遠方からも数多く見物客が集まったようです。清洲花火は五条橋より上流にて行われました。五条川に二艘の巻藁船(車楽)を浮かべ、まず上流に漕ぎのぼらせ、それがゆっくり下る間に様々な花火が打ち上げられた。
   ◇ 清洲花火絵
     ↓ 清洲本町・中町あたりの賑わいが描かれている。
     
     ↓ 五条橋から五条橋上流を眺める人々が描かれている。
     
     ↓「舩祭之飾附大略図」と題して五条川に浮かぶ二艘の車楽が描かれている。
      
     ↓ 花火大筒之目録  嘉永6年(1853)
     ・昼の部
     
     ・夜の部
     
     ↓ 「清洲天王祭 花火」絵  『尾張年中行事絵抄』より
     
     ↓ 天王社祭礼の山車
 五条川両岸にすえた山車、手前は田中町対岸は神明町のもの。車楽は明治になって堤に組み立て提灯を吊るすだけとなったといわれる。
     
     ↓ 神明町の車楽の水引・幕・提灯(昭和時代)
     
 川上神社より美濃路に戻りました。

    ◇清凉寺撮る
     ↓ 清凉寺と札の辻について書かれた立札
     

     ↓ 清凉寺
     

     ↓ 清凉寺山門、上層鐘楼堂
     

     ↓ 清凉寺鐘楼堂(清須宿内に時を告げた鐘)
     
     ↓ 清凉寺本堂
     
     ↓「清須駅高札場 
清凉寺」図会
     
 ここより美濃路を離れて上畠神社へ行きました

     ↓ 上畠神社の社碑
 上畠神社・・・清須三社の一つ、『尾張地名考』には御園神社が清洲の内宮なら、ここは外宮と記されている。豊臣秀吉が全国統一を成しとげた小田原征伐の帰路、五条橋の上で上畠神社へ社領の寄進を行った社とされる。
     
     ↓ 上畠神社鳥居(神社北側にて撮る)
     

     ↓ 上畠神社南側より撮る
     

     ↓ 上畠神社内に建っている上畠稲荷社
     

     ↓ 上畠神社拝殿
     
     ↓ 在りし日の上畠神社
     

     ↓「上畠神明」図絵  『尾張名所図会』より
     

 
上畠神社より、上畠神社の近くにある迦具豆知神社を撮りに行きました。
     ↓ 迦具豆知神社鳥居
     

     ↓ 迦具豆知神社殿
     
 迦具豆知神社より美濃路に戻る

 これまで、宮宿、名古屋宿、清須宿の高札場の様子を、『尾張名所図会』を通してみてきました。3宿の高札場をトリミングして掲載します。
     ↓ 熱田宮宿高札場
     
     ↓ 名古屋宿の高札場
     
     ↓  清須宿の高札場
     
 3宿の高札場をトリミングしましたが、私自身高札の枚数は2~3枚程と思い込んでいましたが、この3宿の高札場の絵を見ると、高札の枚数は数枚掲げられていたことが見てとれます。高札場の形はそれぞれ異なっていますが、ほぼ同じ様式で造られていると見ました。高札を掲げられる場所は宿場の中心といわれますが、皆が集まる場所ということで、宿場の中心に造られたということになるんでしょうね。私自身高札場には大変興味があります。
     ↓ 美濃路高札場辺りの写真(赤丸印の辺りに高札場があったと思われる)
     
 上の写真について・・・美濃路より高札場があったあたり(写真4階建てマンションがある前あたり)を撮りました。この写真4階建てマンションの所より美濃路は右に曲がることになります。4階建てマンション道路左側辺りに清凉寺が建っています。ここを右に曲がると脇本陣、続いて脇本陣と問屋場が向かい合うように建ち、その先に本陣があったということです。まさしくこの辺りが清須宿の中心をなすところとなっています。
     ↓ 本陣跡手前に洋風建物(少しレトロ感漂うお医者さん建物)
     
     ↓ 清須宿本陣跡  
 明治24年(1891)濃尾地震で建物が倒壊、火災にあい、わずかに残された正門のみが縮小され再建。美濃路の中において本陣の面影を残しているのは清須宿本陣のみでした。清須宿本陣跡は
美濃路にとって貴重な文化遺産である。

     
  ↓ 本陣間取り図
  
  ↓ 清須宿本陣林惣兵衛宅図面  万延元年(1860)
     
 清須宿本陣跡について・・・清須宿は始め一場桑名町に置かれたが、1668年火災に遭い、ここに移された。以来この本陣は将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮使節、御茶壺の参府、時には大象の下向などの休泊所となり美濃路中で最も豪壮な建物であった。1878年明治天皇も小休した。1891年濃尾地震で倒壊、火災に遭い、わずかに免れた正門のみが縮小して再建され、唯一清須宿本陣の名残となっている。また、清洲には脇本陣が3軒あり間取り図を掲載します。 
     ↓ 「琉球人清須駅本陣憩う図」図会 『尾張名所図会』より
        琉球人一行が度々宿をとったといわれる
     
 清須宿においての琉球王使について・・・琉球王使は往路復路ともこの清須宿で宿泊することが多かった。『尾張名所図会』の「琉球人清須本陣に憩ふ図」が描かれているが、本陣の門には「王子休」と書かれた提灯が下げられ、塀には「中山王府」と記した牌や行列を飾る旗などが並べられ、街道筋には数多くの籠の中にひときわ立派な正使の輿が置かれている。本陣内では使節に対する饗応がなされ、異国情緒を漂わせ、「松になりたや本陣の松に諸国諸大名下にみる」と歌にも歌われ、「本陣の松」として有名であった2株の松も描かれ、往時をしのぶことができる。この名高い松のため清須宿の本陣は「高松館」ともいわれていたようです。
    ↓ 琉球人行列絵
    
 ↓ 『琉球人来朝行列官職姓名録』  琉球人行列絵
  
     ↓ 辰年朝鮮人并 琉球人留帳・申年琉球人御用留帳
      延享4年(1747)正月6日~宝暦2年(1751)
      
 辰年朝鮮人并琉球人留帳・申年琉球人御用留帳について・・・『尾張名所図会』には「琉球人清須駅本陣に憩ふ図」が載せられている。この史料は寛延元年(1748)の9代将軍家重の「将軍襲職祝賀」に派遣された朝鮮通信使と琉球使節についての記録と宝暦2年の琉球使節についての記録。なかには道中奉行の達、起宿作事の件、人馬負担、休泊の日程が記されている。写真は、清須宿に通信使一行が到着した日を宿泊所となる名古屋の性高院と大光院詰の役所手代へ知らせに行くようにという達の部分で、事慣れた者を使いに出すように指示している。
              

   
続きの書き込みは 清須宿よりについて Ⅱ としています。

 

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