美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

起点地よりについて Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                      起点地よりについて Ⅱ


 ↓ 古渡町辺り~若宮八幡社辺りまでの地図 『名古屋市全図』より 明治44年
  
 ◇美濃路と国道19号線の分岐点にきました
     ↓ 美濃路は右斜め上方向になります
     
     ↓ 国道19号線と美濃路・本町通上空よりの写真
               

     ↓ 「橘町大木戸」図絵 『尾張名陽図会』より
 この分岐点辺りに橘町大木戸があった。この大木戸は美濃路・本町通にあり、夜10時には完全に閉じられるため出入りできず、夜遅く着いた人は木戸が開くまで待たなければならなかった。
     
     ↓ 橘町小道具店図会 『尾張名陽図会』より
            
     ↓ 美濃路橘町1丁目から南方向撮る
     
     ↓ 美濃路橘町1丁目から北方向撮る
     
 ↓ 「橘町大木戸」辺りの絵図 『美濃路見取絵図』より
 
 ↓ 橘町辺り~末広町辺りの図 『名古屋城下図』より 年代不詳 
  名の知れた寺等に赤色矢印を付けました。この図を見て驚いたことは西本願寺本坊が美濃路沿いに建っていたことです。
 
         
 この辺り名古屋市熱田区を過ぎ中区に入っていることは分かりますが、どこが区の境になるのか見当がつきません。分岐点を過ぎて入った街道の雰囲気は少し落ち着きを感じることが出来ました。今まで道幅広く車車、大変な雑踏の中きたので美濃路を進んでいる気分ではありませんでした。ここに入ってからは車の往来はあるものの街並みを落ち着いて見渡せるようになりました。美濃路の大須商店街方向へ向かっていますが、ここへ入ってきて目についたのは仏壇屋さんの看板です。大須のこの界隈は仏壇屋さんが軒を連ねるように建っています。
     ↓ 美濃路前方(街並)撮る
     

     ↓ 次にレトロ感を漂わせる酒屋
     

     ↓ もう1枚街並みを撮りました
     

 この辺り仏壇屋さんが目につきます。話は少し私ごとになりますが、今年この通りの仏壇屋さんでミニ仏壇を買いました。仏壇屋さんで仏壇を買った時、対応してくださった方は50代半ばの女性でした。私の家に仏壇が届くまでその女性と会話すること度々あり、その女性に店前道路の名前について尋ねた所、美濃路ということを知っておられませんでした。ちょっと寂しい感がありましたが美濃路の知名度はいまいちなんでしょうか。そのほかこの辺り仏壇屋さんが多いことを尋ねた所つぎのようなことをいわれました。それは、昔大須より南方面で大火事がありこの辺りに店が集まってきたとのことです。事実については私の知る所ではありませんが、とりあえずその答えで納得した次第です。
 前に進むと大須と書かれたアーチ前の交差点に出ました
     ↓ アーチ方向(美濃路)撮る
     
 この場所より美濃路を離れて名古屋西本願寺別院へ行きました
     ↓ 西本願寺別院
     
     ↓ 「西本願寺掛所」図会   『尾張名所図会』より
 図会中に赤丸点を記しましたが、この通りは美濃路・本町通ではと思います。
     
     ↓ 西本願寺本坊図会 『尾張名陽図会』より
            

     ↓ 「西本坊櫻花」絵 『名古屋名所団扇絵集』より
        
     ↓
 西掛所桜絵  『尾張年中行事絵抄』より
           
 ↓ 北斎大画即書引き札 江戸時代末期
 浮世絵師葛飾北斎は『北斎漫画』出版のため、名古屋の本屋永楽屋に招かれ、文化14年(1817)10月5日、達磨忌にちなみ門前町西掛所(西本願寺)の境内で120畳という巨大な紙に藁を束ねた特大の筆を用い、観客の目前で大達磨を描いて見せるというパフォーマンスを行った。下の絵は現在でいう宣伝ビラとして描かれたものといわれる。
 
 ↓ 『北斎大画即書細図』
  北斎が観客の目前で達摩絵を描いている光景が描かれている
 
     ↓ 尾張名所図会挿絵草稿 江戸時代後期
 文化14年(1817)西掛所(西本願寺)で北斎が120畳という巨大な紙に大達磨を描く様子を伝える。この絵は「小治田之真清水」に採用された。この絵は『尾張名所図会 附録』に掲載されている。
      
     ↓ 在りし日の西本願寺別院
      
     ↓ 在りし日の西本願寺別院
           

 ◇西本願寺掛所(西本願寺名古屋別院・西別院)について・・・門前町の西側、蓮如上人が伊勢の国桑名に建てた願証寺に始まる。門人の一揆によって亡んだあと、顕如上人が桑名と清洲に再建した。名古屋遷府「清洲越」の際、清洲願証寺を移したが、桑名願証寺がのちに高田派へ転じたためここが本願寺掛所となった。
 ※東西本願寺について・・・基本的に西本願寺は豊臣秀吉が創る。そして東本願寺を創ったのは徳川家康。ただ、厳密にいうと秀吉が創ったのは「本願寺」であり「西本願寺」ではない。その頃はまだ分裂はしていなかったから。現在でも何の注釈がなく「本願寺」といえば「西」を指す。宗派としても「西」が「本願寺派」で「東」は「大谷派」。もう少し厳密にいうと我々は簡単に「西本願寺」「東本願寺」と気安く呼んでいるが、実は現在、東側に「本願寺」というお寺はない。正しくは「真宗本廟」という。なので「西本願寺と東本願寺」があるのではなく、「本願寺と真宗本廟」があることになる。ところが「西本願寺と東本願寺」という俗称が一般に定着して、今さら「真宗本廟」といっても誰も分からない状況になっている。もっとも、昭和62年まで東西とも「本願寺」を名乗っており、「西本願寺」と「東本願寺」という区別に必然性はあったといわれる。

 ◇西本願寺名古屋別院より元の場所に戻る
     ↓ 大須アーチをくぐり前方撮る
     

     ↓ 夜の東仁王門通り(2013年12月撮)
     

 東仁王門通りは美濃路右側、私はここを左に曲がり大須観音へ行きました。
 昭和初期には仁王門本町通りから東が東仁王門通、西が仁王門通。この界隈には大和屋、世界館、電気館などの劇場や映画館や飲食店が軒を並べ、夕刻になると仕事を終えた人達が繰り出し、夜遅くまで賑わったと言われる。 
     ↓ 仁王門通り(アーケード街入口)
     
     ↓ 在りし日の大須門前
     
     
↓ 在りし日の大須仁王門通夜景
     
     ↓ 在りし日の大須仁王門通 門前
     
     ↓ 在りし日の大須門前
     
     ↓ 大須観音本堂(彩のある寺でした)
     
  大須観音について・・・大須観音の正式名称は北野山真福寺宝生院といい、現在は真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺であるが別格本山という特別な寺号を与えられている。この寺の由緒は古く、建久年間(十二世紀末)に尾張氏某の尾張国中島郡長岡庄大須(岐阜県羽島市)に中島観音堂を建てたのが始まりである。その後元亨4年(1324)に後醍醐天皇はここに北野天満宮を勧請し、この時から中島観音堂も社僧となり、やがて宝生坊の名も起こった。大須観音が今も寺紋に天神様ゆかりの梅鉢の紋を用いているのはこのためである。
 この頃伊勢の国から来往した能信上人が宝生坊住職となり、一寺を建立して真福寺と称した。天皇は能信に深く帰依し、元弘3年(1333)伽藍の名称を正式に北野山真福寺宝生院と改めた。

 ここ大須界隈には寺院が多くあります。そのことについて・・・大木戸を過ぎれば城下である。街道筋の両側には町家が軒を並べているが、一筋はいると寺院の多いことに驚く。城下町の寺院は防衛上の見地からその配置が考えられ、防備の最も弱い街道筋に配置された。美濃路の南口を固める大須付近の南寺町と飯田街道を押さえる小川町・松山町あたりの東寺町が代表例であり大曽根方面には堀と石畳みを巡らした建中寺や長久寺・相応寺などが名古屋の外郭として配置されたとのことです。
 城下町の寺院・・・安土桃山時代~江戸時代にかけて、城下町を造る時、重要な所に寺を造った。敵が攻めてきた時に出城として敵を食いとめたり、境内に兵を集めて駐屯地の役目を果たすため、城下町の入り口や重要な交差路に大きい寺を置いたり、小さい寺を密集させたりしていた。現在も城下町がよく残っている所には、城のような立派な石垣が築かれている。寺は城の出丸的役を担っていた。
     ↓ 城下のころの大須付近(末広町・門前町・橘町辺り)の地図
       町屋・侍屋敷・各寺の坪数の書き込みがされている。
     
 末広町、門前町の町並みについて・・・美濃路に沿った両側は商家であるが、その裏側はすべて寺社によって占められている。中でも総見院・万松寺・性高院・白林寺・政秀寺・若宮八幡は、広く知られた寺社である。いずれも第二次世界大戦の戦火を受け往時の面影はうすいとされている。
     ↓ 在りし日の門前町年末の賑わい
     

 この商店街、今でもなく昔でもなく、何とも言えない雰囲気を醸し出しています。納得です!大須観音!!!
     ↓ 大須観音仁王門
     
 この仁王門には左右に仁王像が建っており、これは撮らざるを得ない代物でしたので力を入れてシャッターを押しました。
     ↓ 仁王門左仁王像
     

     ↓ 仁王門右仁王像
     
     ↓ 在りしの大須観音山門(仁王門)
     
 ↓ 「大須真福寺」図会 『尾張名所図会』より
    
     ↓ 上の「大須真福寺」図会、仁王門部分。
     
     ↓ 大須観音図会 『尾張名陽図会』より
     
     ↓ 大須観音 『名古屋名所団扇絵集』より 
     
 
     ↓ 明治期の大須観音(明治期には五重塔が建っていたことが見とれる)
     

     ↓ 在りし日の大須観音
     
     ↓ 在りし日の大須観音
     
     ↓ 大須観音絵  『尾張年中行事絵抄』より
     
     ↓ 「大須夏夜」図絵 『名古屋名所図会』より  昭和7年頃
     
     ↓ 夜の大須観音絵
     
     ↓ 「大須奉納馬の頭」図絵 『尾張名所図会』より
 もともとは桶狭間の合戦で織田信長公の勝利を喜んで、地元の人たちが飾り馬を引いてお祝いに駆けつけたことを発祥とする郷土の祭礼行事。また、大須観音は昔から馬とは大変縁が深く、川の氾濫から多くの什物を救われた故事から、馬に感謝するとともに、現在では地元の子供たちが馬の頭の御輿を担いで身体健康を祈念しながら商店街を練り歩く。この行事は大須観音年中行事の一つ「馬の塔」として5月18日に行われている。
     

     ↓ 夜の大須観音通り(2013年12月撮)
               
     ↓ 夜の仁王門通(2013年12月現在大須仁王門通改修中でした)
     

 大須観音より美濃路元の所へ戻りました。

     ↓ 美濃路前方を撮る
     

     ↓ 大須本町通撮る〈美濃路・本町通歩道側)
               

 この場所より美濃路を離れ大須万松寺に行きました。萬松寺本堂は近代的な寺といった印象でした。明るい光が照らす納骨堂「水晶殿」が2009年に設立されているとのこと。
 萬松寺について・・・天文9年(1540)尾張一円を領していた古渡城主、織田備後守信秀(織田信長の父)が織田家の菩提寺として開基。御本尊は十一面観音菩薩。曹洞宗大本山総持寺の末寺、開山は信秀の伯父の大雲永瑞和尚。正式寺号は亀嶽林(山)萬松寺、当時の場所は名古屋市中区錦通と丸の内2・3丁目にまたがった所で、大殿を中心に7堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は5万5千坪といわれる。その後、慶長15年(1610)名古屋城築城にあたり、徳川家康の命により現在の地(大須)に移転した。当時、寺域は2万2309坪の広さがあったといわれる。
 ◇萬松寺本堂と万松寺内に建っていた萬松不動明王、白雪だきに真天掲載。
   ↓ 万松寺・若宮八幡社辺り絵図 『美濃路見取絵図』より
   
     ↓ 萬松寺本堂
     
     ↓ 萬松寺玄関
     

     ↓ 萬松寺境内に建つ萬松不動明王(萬松不動明王の右側奥が万松寺)
     

     ↓ 萬松不動明王拝殿前(提灯撮る)
     

     ↓ 萬松不動明王拝殿
      
     ↓ 在りし日の身代り不動明王 
             

     ↓ 萬松寺境内に建つ白雪だきに真天
     

     ↓ 白雪だきに真天拝殿
     

     ↓ 織田信秀公墓所へ通じる通路
 萬松寺と織田信秀・・・萬松寺は織田信長公の父・信秀公の菩提寺として開基された。信秀公の葬儀は菩提寺である萬松寺で執り行われ、その時に起った『ご焼香事件』は信長が「うつけ者」と呼ばれる元となった事件といわれる。
     
     ↓ 織田信秀墓所
              
     ↓ 織田信秀についての書き込み
     
     ↓ 信秀公木像
     
     ↓ 「萬松寺」図会 江戸時代末期ごろ
     
     ↓ 在りし日の大須万正寺通り
     
 
松寺より美濃路に戻る。
       

     ↓ 
次の通りは赤門
     

 前に進むこと広い道路に出る。この通り若宮大通といい、開通した当初は100メートル道路といって話題になった記憶があります。
     ↓ 若宮大通から前方(美濃路)撮る
     
 この先は末広町に入ってくると思います。末広町(この先)が名古屋宿内になっているのか、そうでないかの判断ができません。いろいろ調べたり、尋ねたりしましたが判断しかねました。しかし、私の判断にてこの辺りから名古屋宿になると判断しました。この先の書き込みは名古屋宿の書き込みとします。

 

   
続きの書き込みは 名古屋宿よりについて Ⅰ としています。
       

 

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