美濃路・THE美濃路

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名古屋東照宮祭について(名古屋三大祭)

2016-10-17 | THE美濃路祭

               名古屋東照宮祭について(名古屋三大祭)     
            必見!名古屋東照宮(祭)の魅力はいろいろ!!!
     名古屋東照宮祭は美濃路名古屋宿に建つ名古屋東照宮で行われる祭です。
      東照宮山車引きは行われなくなりましたが雅な舞楽は必見です。
 名古屋東照宮祭神は徳川家康、江戸幕府初代将軍です。
 ↓ 徳川家康肖像画  徳川義直筆
 
 東照宮祭、若宮祭、那古野神社大祭は名古屋三大祭りとされていた。ただ、この三大祭いずれもが戦災(昭和20年・1945)の影響を大きく受け、現在も祭は行われてはいますが、戦災前の祭と同様の形で行うことができなくなりました。往時の記録を見ると歴然としています。戦災前の祭が行えれば、大変盛大な名古屋東照宮祭を観ることができたと思いまが、現在の祭の規模では名古屋三大祭とはいえないと思われます。
 ↓ 名古屋城内における東照宮・天王社の位置図  『享保年間酉年名護屋絵図』より  
    享保年間(1716~1736)
 
 ↓ 東照宮・天王社・明倫堂を記した図  『安政名古屋図』より
 東照宮と天王社(那古野神社)は当初名古屋城三之丸に建っていたが、明治9年(1876)名古屋鎮台が置かれるのを機に、東照宮・天王社ともに名倫堂跡地に遷座するに至った。名倫堂は尾張藩の藩校。寛延2年(1749)創立。明治4年(1871)廃校。因みに、東照宮が建っている場所には若宮八幡社が建っていたが、東照宮を建てるがため若宮八幡社を現在地に遷座させたと考えられる。東照宮祭神は徳川家康である。
 
   ↓ 「三の丸 御宮(東照宮)の図」図絵 『尾張名所図会』より
     往時は名古屋城三之丸にて東照宮祭は行われていました。
    
 ◇名古屋東照宮山車引出しについて・・・徳川家康の三回忌の元和4年(1618)に祭礼が始まり、当初は数ケ町の警固のみで簡単な行列であった。翌5年東照宮が完成しその年に七間町が大八車を2輌組み見合わせ西行桜の能人形を飾った山車を引きだした。これが当初祭りの第一号の山車であり、よく元和6年同じく七間町が弁慶と牛若丸が五条橋で大立ち回りを演じるからくり人形を載せた橋弁慶に替え行列に曳き出すと、これが大好評でこれに刺激を受けた各町が山車、練り物を造りだし、元禄、宝永の頃は山車9輌と三十五町が繰り出す警固な行列が本町通り、末広町のお旅所まで練り歩く壮大な行列が完成した。その後この祭は大祭礼化していった。
   ↓ 天保年間の東照宮祭礼行列行程地図 『天保年間名古屋藩士屋鋪割図』より
 東照宮祭では、天保時代名古屋城三之丸に建っていた東照宮から本町通を通り、東照宮御旅所までを行列をする。赤矢印は、三之丸東照宮と東照宮御旅所を記し、赤丸点は行列した所を記しました。
   

 ◇東照宮祭礼図(部分) その1~その6まで掲載します
 ↓ その1
 三丸東照宮社頭〔東照宮祭礼図(部分)〕旧暦4月17日早暁に供御を奉って、三丸社頭より御輿は末広町の御旅所に幸する。
 
 ↓ その2
 大名小路〔東照宮祭礼図(部分)〕 大名小路の北端の東竹腰邸と西成瀬邸の間を通って、城下町に開く三丸本町門に向かう。
 
 ↓ その3
 本町門前広場〔東照宮祭礼図(部分)〕 大名小路南端三丸本町門前広場に出る。
 
 ↓ その4
 本町門〔東照宮祭礼図(部分)〕 本町門を通り、土居で固める桝形の橋台を通る。
 
 ↓ その5
 本町通京町筋へ〔東照宮祭礼図(部分)〕 三丸南辺に面する武家地を過ぎて、町木戸門より町人地本町通に入る。
 

 ↓ その6
 本町通富田町〔東照宮祭礼図(部分)〕 本町通桜ノ町を筋を経て伝馬町筋に向かう。西側に桜天神社にある時の鐘が見える。
 
 
 名古屋東照宮祭礼は三の丸東照宮から若宮八幡社北のところにある、東照宮御旅所まで行列が行われた。1821年『名古屋東照宮図巻』製作を森高雅に下命、1822年に完成とされる。   
  ↓ 図鑑より
 この絵の中、現金掛け値なしの店の暖簾が描かれていますが、伊藤呉服店(のちの松坂屋)と思われます。
  
  ↓ 東照宮祭礼絵 『尾張年中行事絵抄』より
  
 ◇『名古屋東照宮祭礼図屏風』 六曲一双
 ↓ 左隻
 
 ↓ 右隻
 
 ↓ 東照宮祭山車図
  三幅の内、中央には祭の夜景、両側には山車が向ってくる様子が描かれている。
   

 『尾張名所図会』にこの東照宮祭礼が描かれた図会があります。其一~其七まであり、その様子が見事に描かれています。掲載します。
  ↓ 「御祭礼全図」其一
  
  ↓ 其二  この図絵には御榊、御獅子が描かれている。

          
  ↓ 其三  七間町の「橋弁慶車」が描かれている。
  
  ↓ 其四  
 この図絵には玉屋町、両替町、瀬戸物町、大津町、益屋町、間鍛冶町、五條町、和泉町、上七間町、練屋町、伝馬町、駿河町の練り物行列。伝馬町の山車「林和靖車」が描かれている。
  
  ↓ 其五
 この図会には嶋田町、小市場町、吉田町、石町、小牧町、西鍛冶町の練り物行列。上畠町の山車「雷車」。長者町の山車「二福神車」が描かれている。
  
  ↓ 其六
 この図絵には桶屋町、諸町、常磐町、呉服町、伊勢町、茶ヤ町の練り物行列。桑名町の山車「湯取神子車」、宮町の山車「唐子遊車」、京町の山車「小鍛冶車」が描かれている。
  
  ↓ 其七
 この図絵には大和町、淀町、上御園町、下ミソノ町、長島町、福井町、富田町、小櫻町の練り物。中市場の山車「石橋車」、本町の山車「猩々車」が描かれている。
  
       ↓  七間町「橋弁慶車」(1620年新造) 『尾張名所図会』より
 東照宮祭礼山車曳行は七間町の西行桜の能人形を曳き出したことにより始まったといっても過言ではない。9輌の山車の先頭(一番山車)を行くのは当然七間町「橋弁慶車」であって良い。
        
       ↓ 七間町 橋弁慶車絵  伊勢門水画
        
 ↓ 七間町の橋弁慶車
 
       ↓ 伝馬町「林和靖車」(1733年新造」『尾張名所図会』より
           
       ↓ 上畠町「雷車」(1648年新造) 『尾張名所図会』より 
          
       ↓ 上畠町・雷電車 と 伝馬町・林和靖車絵  伊勢門水画
               
       ↓ 長者町「二福神車」 『尾張名所図会(部分)』より
       
       ↓ 桑名町「湯取神子車」(1658年新造)『尾張名所図会』より
 湯取神子車は、名古屋市東区筒井町に現存していることを知りました。
       
     ↓ 在りし日の桑名町「湯取神子車」
     
      ↓  二福神車(上長者町)と湯取車(桑名町)
        
       ↓ 宮町「唐子遊車」(1756新造)・京町「小鍛冶車」(1707年新造)
           『尾張名所図会』より
       
       ↓ 宮町 唐子車絵   伊勢門水画
       
       ↓ 京町 小鍛冶車  伊勢門水画
        
       ↓ 中市場町「石橋(しゃっきょう)車」(1704年新造)
         『尾張名所図会』より
        
       ↓ 中市場町 石橋車   伊勢門水画
        
       ↓ 本町「猩々車」(1658年新造)『尾張名所図会』(部分)より
       
       ↓ 本町 猩々車  伊勢門水画
       
 ↓ 東照宮祭9輌山車揃い  
 
 以上掲載しました。このお祭りをどう形容したらよいか分かりませんが、この図絵を見て壮大な大行列を堪能させてもらいました。この図絵よりみるに本町通沿いに建っている家は、本町通が見える様に建てられている。商家ということでしょうか。練り物行列には各町の練り物の他にも行列に加わっている物があります。名古屋宿内にあるほとんどの町内の参加が見られ、私の想像を超える賑わいだったように思います。ただ、残念なことに第二次世界大戦により大部分の山車が焼失してなくなり、山車行列は行われないことになりました。現在の東照宮祭礼は舞楽を奉納する形で受け継がれています。
   ↓ 在りし日の東照宮祭礼
   

   ↓ 在りし日の東照宮祭写真
 この写真は、広小路本町交差点の雑踏を南側からとらえる。からくり人形が載る山車が交差点にさしかかったところ。電車の運行を一時止めて祭礼を執り行った。山車の奥に写る時計塔は長谷川時計舗。
   
   ↓ 東照宮遷座地  『名古屋鳥瞰図』より  昭和11年(1936)
 赤矢印の所は東照宮ですが、東照宮は那古野神社西に建っています。東照宮北方向に名古屋城が建っています。
   

 2014年4月16日東照宮御大祭舞楽を観てきました。東照宮御大祭が催されるに際して、普段の東照宮とは様変わりした光景を観ることができました。名古屋東照宮の神職さんの話では、全国にある東照宮の中にあって舞楽祭が行われるのは、名古屋東照宮のみではないかといっておられました。16日は前夜祭でその様子を写真に撮ってきましたので掲載します。
   ↓ 祭礼の日の東照宮鳥居(7個の提灯がさげられていますが、中央の提灯には「東照宮」の名が入っており、両横には3個ずつ「献灯」の名が入った提灯が下げられています。何か理由があるのでしょうか。
   
   ↓ 東照宮本殿(東照宮本殿表部分、元は彩色がされていたとのことです。現在は少し色味かかった部分がある程度で、経年劣化で彩色部分は色あせたということです。)
   

  東照宮御大祭 舞楽目録〔用紙が横に長く2枚(右・左)にて掲載します〕
  ↓ 右
  

  ↓ 左
  

 ≫ 舞楽写真掲載
 
  ↓ 振鉾
   
   ↓ 振鉾
   
   ↓ 萬歳楽
   
   ↓ 延喜楽
   

 打球楽(たぎゅうらく)について・・・騎馬装束を着けた舞人たちがホッケーのスティックに似た球杖を高く振り上げて舞台の上に置かれた木製の球を打つさまを主題とした舞である。舞の後半、一臈だけが自分の前に置いた球を八方から打つという独特の動作をするのが珍しい。本来四人の舞人として作られているが、今回は都合により舞人は二人である。
   ↓ 打球楽
    
   
   ↓ 打球楽
   

   ↓ 陪臚
 陪臚(ばいろ)について・・・天平年間に我が国に渡来した林邑(ベトナム)の僧侶哲が伝えたといわれる林邑八楽の一つ、武官裲襠装束に剣を着けた楯と矛を持った舞人による戦いを象徴する舞である。陪臚の原曲は管弦曲としてしばしば演奏されるが、舞楽の時は日本で創作された夜多羅拍子に変えて舞、これを破の章とし、終曲の急の章には壱越調の新羅陵王をあてて一具を構成している。

   
   ↓ 陪臚
   

   ↓ 陵王
 陵王(りょうおう)について・・・左方走物の代表的なものである。曲と舞の起源には諸説あるが、中国の北斉、蘭陵王長恭は勇将であったが、やさしい美貌であったため、戦場では常におそろしげな仮面着けて指揮をした故事によるものが知られている。面(仮面!)を付けての登場、舞が行われる。初めて観る舞楽で、陵王が舞われ始めると、私自身不思議な感慨と、高揚感をあじわいました。
   

   ↓ 陵王 
   
    
   
    
   
   ↓ 落蹲
 落蹲(らくそん)について・・・この曲を二人で舞うときは納曽利といい、双竜舞の別名があるように竜が遊びたわむれているようすをうつしたといわれている。落蹲の名はこの曲の破の終わりに舞人が蹲踞するところから出たものと思われる。右方走物の代表的なものである。
   
   
   
  ↓ 落鱒
  
  

 長慶子(ちょうげいし)について・・・長慶子には舞はなく舞楽の最終の曲として演奏される。平安中期の音楽の天才源博雅の作曲とも、唐楽の長慶楽を彼が改作したものともいわれている。はぎれのいい楽句はととのった転結を示し、躍動的な三度拍子とあいまって舞楽の終わりにふさわしい曲として愛好されている。
   ↓ 「四月十六日御宮舞楽」図会 『尾張名所図会』より
   
   ↓ 「御宮 舞楽」絵  『尾張年中行事絵抄』より
     御宮がどのように建てられていたかを絵抄より観とれます。
   
 東照宮本祭は伺ったところによれば翌17日(徳川家康命日)、東照宮本殿内にて関係者のみにて執り行われ、一般の人は観ることはできないとのことでした。
 また、東照宮祭を私なりに関心を持ち書き込みをしましたが、名古屋最大の祭だったと思われる。現在、往時を引き継いで行われるのは舞楽のみですが、雅な舞楽を堪能させてくれました。

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