美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

墨俣宿よりについて Ⅰ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                          墨俣宿~大垣宿へ

                         墨俣宿よりについて Ⅰ

     ↓ 墨俣宿~大垣宿図
     
 墨俣宿へ入るには長良川を渡らなくてはなりませんが、その前に境川(小熊の渡し)を船で渡ることになります。境川を渡ると茶屋新田村に入り、茶屋新田村(茶屋新田村の渡し)から墨俣宿へと入ります。ただ、今となっては堤防工事が施され、茶屋新田村の渡し場、墨俣宿の渡し場がどこにあったか正直全くわかりませんでした。長良川の河川改修工事で長良川の両岸とも渡し場は完全に消滅、現場で見ましたが渡し場のおおよその位置も想像さえできなくなっていました。
     ↓ 墨俣宿概略図
     
   ↓ 墨俣宿概要(宿高等)
       

 ↓ 御茶屋新田村・墨俣宿絵図 『美濃路見取絵図』より
 

 ↓ 墨俣宿絵図  『美濃路見取絵図』より
 
 ↓ 墨俣宿図『美濃路見取絵図・解説篇』より 
 
 墨俣宿について・・・起宿から2里17町余、江戸からは約99里の距離にあった墨俣宿について、『尾張徇行記』は次のように記している。
 町長7町7間あり。町の名を河端・中町・本町・西町・横町と云。町並は大体よき処也、中町・本町の間旅籠屋多し、本陣は中町にあり農業の他には宿屋・茶屋・小商ひを以て渡世とするよし。茶屋は長良川の堤上にありて景色よし。
 本陣は中町にあり、代々沢井家が世襲し、明治に至るまで13代続いた。その跡地に「墨俣本陣跡」の碑が建っている。脇本陣は本町にあり、安藤氏が世襲した(途中3代加野氏がつとめた)。この脇本陣の門は、明治末年に本正寺に移築され、現在本正寺山門として残されている。
 大名の宿泊の場合には、たいへんな数の調度が必要であった。寛政7年(1795)「紀州様御止宿」の際、本陣が用意した入用道具は、火鉢30、行灯40、五徳19、煙草盆20、燭台25、膳わん、猪口・平・飯つぎ160人前、汁つぎ10、湯つぎ20、茶のみ茶碗100、風呂桶9、枕150、布団315枚、屏風32双、その他鍋・釜・やかん・十能・たらい・手桶・水荷い桶等々であった。このうち燭台5本、屏風22双は名古屋から拝借し、手燭7本は起宿本陣から借りている。紀州は御三家の1つであり不都合があってはならず、尾張藩から役人が出張し、宿内や付近の村に宿をとって警備に当たった。また本陣には7カ所の番所を設けて身辺を守護した。人数が多く本陣・脇本陣だけでは宿割りができない場合は、寺院や大家を御開本陣として割当て、さらに中等の宿泊者には幕宿、下等の宿泊者には下宿と称して一般の民家をわりあてた。
 墨俣は美濃路より古い鎌倉街道(中世の東海道)が東西に貫通していた。宿場は西の方から垂井―赤坂―墨俣―黒田であったが、この時代墨俣宿は美濃路の宿場より南の上宿地区を通り、すでに見てきた小熊から足近方面へぬけていた。この街道と宿場を現在の墨俣へ移したのは、応仁の乱時代の美濃国守護代斎藤妙椿の弟利藤で、長享元年(1487)のことであったという。(日下英之著より)
 幕末頃の墨俣宿における美濃路エピソード・・・幕末頃になると、美濃路通行の人や荷物の輸送に人馬では限界があり、荷車(大八車)と馬車が使用された。このため、北方代官所から、弘化5年に各村々庄屋宛に事故防止に万全を期するようにとの御触書が出された。こうして道行く人の安全対策がはかられ、美濃路は重要な街道として多くの人が往来したとの書き込み資料がありました。この書き込みから往時の美濃路において大八車、馬車等の事故防止策がはかられていたという事に驚きを感じました。
 ↓ 墨俣村~大垣町への地図  明治24年測図(赤丸点は美濃路)
  
 ↓ 大正時代の茶屋新田~澤渡辺りまでの地図  大正13年印刷発行
  
  ◇墨俣宿概要(1750年頃)
  
家数=338軒    人口=1317人    旅籠屋=10軒
  本陣=1軒      脇本陣=1軒      問屋場=1カ所
     ↓ 墨俣川船橋絵図 文久2年(1862)
     
     ↓ 墨俣川渡場船橋之図(年代不詳)
     

     ↓ 墨俣川朝鮮人通過之節舩橋之図
     

 墨俣川船橋について・・・船橋は浮橋ともいう。川の両側の杭から太い縄を張り、それに船を並べつなぎ、その上に板を敷き橋とするものである。墨俣川に橋を架けた最初は不詳であるが、吾妻鏡に墨俣宿の記事を見れば、鎌倉時代の初期、すでに船橋を架けたことを知る。徳川時代には将軍通行と朝鮮人通行の時には必ず船橋を架けた。船橋を架ける時には、幕府は直属の役人を任命した。直属の役人は美濃国笠松御代官に協力方を命じ、笠松代官また国内に領地をもつ領主に協力せしめ、資材を出させた。寛永11年将軍御上洛の時には土井大遂炊頭等は美濃国笠松代官岡田将監に、墨俣橋架設役人として尾張藩並加納藩の両役人現場に出張した。これを御船奉行という。
  ↓ 朝鮮通信使行列絵
 朝鮮国から訪れた朝鮮通信使の宿泊地、昼食地が描かれている。朝鮮通信使が訪れた経路を読み取ることが出来る。また、御輿の上に正使をはじめ、行列に加わった使節、馬の手綱を取る日本人の姿が描かれている。
  
    ↓ 朝鮮通信使絵  明暦年
    
    
↓ 朝鮮通信使絵
    
    ↓ 朝鮮大行列記  朝鮮通信使の江戸参府には必ず美濃路を通行
    
     ↓ 朝鮮通信使船
     

 朝鮮通信使について・・・江戸時代日本は鎖国政策を取っていたが、唯一外交関係を結んでいたのは朝鮮国であった。その朝鮮王国から国書と共に徳川将軍代替わりの際などに派遣されたのが朝鮮通信使である。朝鮮通信使の一行は300人~500人規模で正使・副使・従事官の三使を中心に学者や画家・書家・楽師など多彩であった。昼休みに立ち寄った宿等でも通信使一行の知識人と詩をやりとりするなど、行く先々で日本人とのやりとりが盛んに行われたといわれる。美濃路の木曽川・境川・長良川・揖斐川には特別に船橋が架けられた記録が残っている。将軍の通行を除いて船橋を架けられたのは朝鮮通信使のみである。
  ↓ 朝鮮通信使一覧
  
     ↓ 明治中期の墨俣渡船
     
     ↓ 長良大橋を渡り墨俣宿へ来ました
      長良大橋西詰より墨俣宿辺りを撮る。
     

     ↓ 少し上流に進み墨俣と書かれたアーチ看板撮りました
     

 ↓ すのまた「歴史探訪」ガイドマップ
    墨俣宿を見回るに結構役立ちました。
     

 ↓ 昔の墨俣宿絵図(安永7年)
 
 上の絵図(昔の墨俣宿絵図)、前掲した『美濃路見取絵図 解説篇』を見ると、現在の長良川、犀川の川筋が違っています。御茶屋新田村より渡船で墨俣宿へ渡ることになりますが、現在地において、墨俣宿のどこに渡し場があり、美濃路筋が墨俣の何処からになるのかはっきり特定できませんでした。次に得た資料によってこの辺りの河川が改修されたことが分かりましたが特定はできませんでした。それゆえ、墨俣宿の始めに出会ったのは明台寺としました。
   ↓ 長良川「犀川遊水地」について書かれている掲示板の書き込み掲載
      この附近の河川は改修されたことが書き込まれている。
   

   ↓ 寺町と史跡・文化財について書かれた掲示板書き込み
 墨俣宿は寺町と異名を持つ宿との書き込みですが、宿の広さのわりに神社仏閣が背中合わせで建っていることを実感させられました。
   
   ↓ 明台寺(紫陽花がきれいに咲いていました)
   

   ↓ 明台寺山門
   
   ↓ 明台寺扁額
            

   ↓ 明台寺本堂
   
    ↓ 明台寺は西美濃第十九番目の霊場、霊場の碑を撮る。
         
 ここ明台寺の寺号が書かれたものはどこにも見当たりませんでした。寺の山門には院号が書かれたものを写真に撮りましたが、私には読めませんでした。家に帰っていろいろ調べてみましたが私には難しくお手上げ、ここで気になって仕方なかったものですから明台寺さんに電話で尋ねました。電話で対応してくださったのは男性で住職さんのように思いました。
 教えて下さった内容は、まず、寺の回りに寺号が書かれたものは置いていないとのことでした。次に寺には3つの号があるといわれました。山号・院号・寺号とのことです。すなわち〇〇山・〇〇院・〇〇寺ということになると思います。寺によっては山号と院号と寺号の内から寺名をつけているようです。とりあえず寺には3号呼び名があると理解しました。それで明台寺さんの院号の読み方は今風に書けば「密厳院(みつごんいん)」と読むと教えて頂きました。寺には3号呼び名があること、明台寺さんの院号が印象に残ったおかげで勉強できました。感謝です。
     ↓ 土岐悪五郎の墓
 墨俣宿の資料の中に土岐悪五郎貞康(頼里)の墓が明台寺にあることが分かりました。美濃国の守護土岐氏は足利氏の有力な家臣であったが、南北朝の争乱期に一族は南朝と北朝の二手に分かれて抗争した。悪五郎は土岐氏全盛時代の守護頼康の弟で、兄と共に北朝方の武士として活躍した。『太平記』には「土岐悪五郎ハ、其ノ比天下二名ヲ知レタル大力ノ早ワザ、打物取テ達者也」とあり5尺6寸の大太刀を使っていたという。
 生前この地にも居住したこともあるのか、墨俣川のほとり、美濃路の渡し場の口元に、土岐悪五郎の墓という五輪塔があった。「おこり」の病が出たとき、この五輪塔を縄でしばって祈れば治るといわれ、治った後木刀を捧げお礼参りをする風習があったと『新撰美濃志』は伝えている、昭和初年犀川改修工事のため明台寺境内に移されたものである。 と書き込まれています。
     
  ここからはとりあえず美濃路を進みました。
     ↓ 美濃路墨俣宿渡船場常夜燈について書かれた掲示板
     
     ↓ 常夜燈撮る
     

     ↓ 旧常夜燈台座の由来について書かれた立札
     
     ↓ 旧常夜燈の台座
 この常夜燈の台座は、墨俣神社に五穀豊穣と旅の往来安全を祈念した多数の信仰者の寄進寄って建立された。
     

     ↓ 墨俣本陣跡の碑
               

 墨俣本陣について・・・特使階級たる勅使・諸侯・朝鮮人使節・琉球人使節等は、本陣に宿泊したものである。これらの中特に多く利用したのは、諸侯の参勤交代における宿駅往来の際である。即ち諸侯をはじめ、団体の通行に当たっては、夫等の休泊に備えるため、特殊な設備を必要とした。この必要に起こったのは本陣である。尚この本陣のみにて収容しえざる場合、その副たる役を成したるものに、二の本陣または脇本陣があった。墨俣宿に於いては専ら脇本陣の名称を使用した。その数は宿駅により相違があり、本陣2・脇本陣1の所も、本陣1脇本陣2の所もあったが墨俣宿では本陣1軒、脇本陣1軒であった。ただ、多人数御通行の場合は本陣に一行中のおもな人を休泊せしめ、それに次ぐ人を脇本陣に、それでも上役の休泊に困るときは付近の寺院または庄屋などを御開御本陣(御除御本陣、または御明御本陣という)といい。本陣の補助として休泊せしめた。
 墨俣本陣は慶長年中に始まり、慶長5年関ケ原の合戦の時、伊達政宗公が御宿泊したと伝え、伊達様御本陣とも言った。本陣は高貴の御方の休泊所となすものなれば、門・玄関・上段の間などの特別な設備があり、またこれら貴賓を休泊せしめるところで、宿駅の領主は御もてなし並部屋の装飾にも意を留め、家屋の修繕及び普請には、普請奉行を遣わし用材の下附、或は費用の給与、又は補助金を与えたるものにて、常に領主の監督もとにこれを経営した。
     ↓ 紀伊殿宿札と本陣への拝領物
 墨俣町史等には紀伊殿宿札と本陣への拝領物が載せられていましたが、墨俣町(大垣市)に問い合わせをしたところ、今はないとの返答でした。また宿札(関札)についても訪ねてみましたが、宿札の所在もすべて分からないとの返答でした。美濃路の中で現存している宿札があるのが確認できたのは起宿のみでした。
     
  ↓ 本陣間取図
  
   ↓ 墨俣宿本陣宿札
    
   ↓ 墨俣宿本陣宿札
   
   ↓ 墨俣宿関札・下馬札
            

 墨俣宿役人・・・徳川幕府創設により宿駅も改正され、役人の名称も変わった。即ち問屋役・年寄・帳付・馬指などで、これらは宿駅を通行する人馬の輸送並荷物の運送に関する事務を行った。
 問屋役=または年寄ともいい名誉職である。専ら駅の人馬継立(人馬輸送)を掌り、または随時これ等を指揮統括し、これに関する事務会計を司る。
 年寄=又は庄屋ともいい、時には年寄・庄屋とニ役に分けて、役人を求めることもある。その時の庄屋は顧問とみてよい。
 庄屋=宿駅村以外では、村の最高名誉職で村政を掌る。墨俣宿としては庄屋は年寄を補佐する役を務めている。
 帳付=問屋の配下にあり、問屋場に出勤して、人馬・輸送等に関する記録等をなすもの。
 馬指=問屋の配下にあり、駅馬または助郷より寄せたる馬の支配をするもの。
  以上が墨俣宿に関する役人についての書き込み。

 ◇墨俣宿における〔御茶壺御泊〕・・・天保11年6月6日、御茶壺醒ヶ井御泊、7日大垣御休のはずであったが、起川出水にて、川留となったので、7日大垣御休を改め、赤坂御休、同晩俄に墨俣宿にてお泊り。
 御茶壺三釣と釣壺不残本陣御泊。即ち御茶壺並釣壺は三の間より御玄関迄に不残釣込み、御茶壺おつきの役人と、墨俣宿へ出張せる代官と立合にて員数御改めありて、御茶壺と釣壺北方代官本杉為三郎に守らせ、おつき役人等は定めの宿舎へ行く。北方代官は助郷より庄屋10人、頭百姓より10人計20人の不寝番を立て、尚御茶壺釣の人足にも、不寝番を立て、御茶壺の傍を守らせ、北方代官御手代壱人をも不寝番とした。又御茶壺船渡し御乗船は、特に警戒し、墨俣にては、御座船を浮かべた。御茶壺とはいえ、貴賓同様に取りあつかった。尾州藩にても、御茶壺通行に模して、茶壺の通行をなす。為めに将軍の御茶壺を公儀御茶壺と云い、尾州藩の茶壺を御国御茶壺と称した。御国御茶壺は必ず公儀御茶壺通行の翌日、墨俣宿本陣に宿泊した。
     ↓ 美濃路道標と神社(神社名分からず)
            

     ↓ 美濃路道標と前方撮る
 赤丸の印辺りの所に高札場があったと思われる
。この通りには高札場も建ち札ノ辻とも呼ばれていた。私が見まわしたところ墨俣宿の中心であった可能性が高いと感じました。
     
     ↓ 史跡 墨俣宿の碑
     

 ↓ 史跡墨俣宿掲示板書き込み
 

 脇本陣跡・・・本陣跡より進むこと近くにありました。子供の健やかな成長を願って飾る「つるし雛・つりびな」の祭りが行われていました。この祭りは桃の節句、ひな祭りの縁起物つりびなが飾られる祭り。のぼり旗もあちこちに立てられ、のぼり旗には「いき粋墨俣つりびな小町めぐり」と書かれていました。墨俣宿早春の風物詩になっているようです。また、再建されたこの建物は、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、宿場町を偲ばせている。週末には地元の町づくり団体がお土産処を開店しているとのことです。
 ↓ 脇本陣跡について書かれた立札の書き込み
 
 ↓ 美濃路墨俣宿脇本陣跡
 

 ↓ 脇本陣跡はこじんまりとした店屋さんとなっています。
   いき粋墨俣つりびな小町めぐりで賑わっている日に撮りました。
           

 脇本陣の門は現本正寺の山門として移築されている。
 ↓ 本正寺(本正寺山門と鐘楼)    かっては本正寺山門が脇本陣の門であった。
 

 ↓ 脇本陣間取図
 
 脇本陣について・・・墨俣宿における脇本陣は徳川時代より始まり、それらの建造物は、本陣とともに尾張藩の支配にて建築並修繕をなした。また門の建築も許された。当時の建築資料なきも、本陣と大同小異なるべし、なお脇本陣安藤家の安藤与左衛門守吉という。その後与左衛門吉豊まで6代の間脇本陣をつとめ、吉豊歿後加野源兵衛、脇本陣つとめしも宿駅御通行衆の休泊には旧脇本陣安藤与左衛門宅を使用す。加野源兵衛脇本陣の次には、旧脇本陣の安藤与左衛門に復旧す。脇本陣跡の門は明治末年本正寺に移し山門となす。
 墨俣宿助郷について・・・宿駅助成として伝馬役夫を出さしめるために、特に定めた宿駅附近の村落を助郷という。蓋市、江戸時代街道往来漸く、繁きを加え、宿のみにて人馬運送の用途を満たすことが出来ない。故にその補助として附近の諸村に、この役を課した。助郷には定助郷と加助郷の別あり、定助郷は定置の助郷にして、その割合は高百石に付、馬2疋、人足2人である。加助郷は大通行にて、定助郷以外の諸村に課するものである。寛永17年初めて美濃国駅助郷制を定められ、岡田将監手代濃州郡奉行鈴木半右衛門立合いにて令す。この時定められた墨俣宿助郷村々は、元禄7年、改訂と大差なかるべし。
 助郷村は墨俣宿のみにあるものではなく、どこの宿場にも助郷(助郷村)が存在し、役割は墨俣宿とほぼ同様なものであった。

   続きの書き込みは 墨俣宿よりについて Ⅱ
 としています。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« 起宿よりについて Ⅱ | トップ | 墨俣宿よりについて Ⅱ »