美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

垂井宿よりについて Ⅱ・垂井宿の旅 

2016-10-17 | 垂井宿の旅

                 垂井宿よりについて Ⅱ・垂井宿の旅 
                       
     ↓ 街道に戻り古民家を撮りました
     

     ↓ 古民家から大鳥居方向を撮る
     
     ↓ 古民家蔵窓シンメトリーに撮る
     

     ↓ 日目上人法華塚
     

   ◇垂井宿の商家
     ↓ 垂井宿の商家について書かれた立札
     

     ↓ 垂井宿の商家
     

 垂井宿長浜屋について・・・江戸時代旅籠屋として栄えた。天保2年(1831)13代将軍家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に宿泊したおり、お神輿担ぎ23名が泊まったという記録があり、その後鉄道の開通により旅人が減少したため酒屋となった。
     ↓ 長浜屋
               
     ↓ 垂井曳まつ
りの際には西町の攀鱗閣会所として利用されていました。
     
       ↓ 天保2年の長浜屋間取図
       

 垂井宿高札場・・・高札場は本龍寺(写真)山門前に建てられていた。本龍寺山門や書院の玄関は脇本陣から移築されたものといわれている。松尾芭蕉は元禄4年(1691)この寺の住職を訪ね冬籠りをして「作り木の庭をひさめる時雨かな」などと詠んだ。文政2年(1855)化月坊が住職世外とで時雨庵を建て句会を開き句碑を建てている。
     ↓ 本隆寺山門
     
     ↓ 本龍寺本堂
              
     ↓ 本龍寺境内に建つ時雨庵
               
     ↓ 作り木塚と芭蕉翁木像について書かれた立札
     

     ↓ 時雨庵横に句碑が置かれていました(作り木塚と思われる?)
     

     ↓ 在りし日の本龍寺
     
     ↓ 垂井宿西町辺りの絵図  『中山道分間延絵図』より
     
 八重垣神社について・・・文政2年(1353)8月、後光厳天皇が祇園社の祭神を迎えて祈願された勅願の宮で、明治初め八重垣神社と改称し垂井の氏神として崇拝されてきた。例大祭(垂井曳まつり)は5月2・3・4日で県文化財3輌の曳の舞台で子供歌舞伎が演じられている。
 ↓ 八重垣神社由緒書
           

  ↓ 八重垣神社
  

     ↓ 八重垣神社に置かれている「さざれ石」について書かれた立札
     

     ↓ 「さざれ石」
     
     ↓ 八重垣神社拝殿
     

 2014年5月2日、垂井曳やま祭試楽の日、八重垣神社前には3輌のやま勢揃い。垂井曳やま祭は八重垣神社祭ともいわれ、試楽、本楽には子供歌舞伎奉芸が八重垣神社前にて行われます。2014年の試楽奉芸(夜芸)は東町の(鳳凰山)が行いました。
   ◇垂井曳祭(試楽) 八重垣神社前にて
     ↓ 東町の・八重垣神社前にて
     
     ↓ 西町の・八重垣神社前
     
     ↓ 西町の(八重垣神社前)  
     
   ◇3輌が集合
     ↓ 3輌(八重垣神社前)
     
     ↓ 3輌(八重垣神社前)
     
     ↓ 3輌(八重垣神社前)
     

 ◇
2014年5月2日、垂井曳祭の日の試楽奉芸・夜芸
     ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
 
    ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
     ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
     ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
     ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
     ↓ 子供歌舞伎・夜芸
     
     ↓ 在りし日、八重垣神社前に集まったやま。
     
     ↓ 垂井宿 西の見付と広重の絵について書かれた立札
              

     ↓ 垂井宿 西の見付跡
               

     ↓ 西の見付跡とともに中山道京方向撮る
      「木曽街道六十九次之内 垂井」 廣重画はこの辺りより描かれた
     
     ↓ 竹中半兵衛
 竹中重治(通称、半兵衛)と垂井宿・・・秀吉を支え、黒田官兵衛を立派な軍師へと導いた。半兵衛は岐阜県大野町に生まれ、父重元とともに垂井町に移り、菩提山城を拠点に活躍した人物。垂井町は竹中半兵衛ゆかりの地としている。播磨三木城包囲攻撃をしていた半兵衛は秀吉の勧めもあり京で療養をしていたが「武士が座死することは恥だ」といい、病の中戦場に戻り36歳の若さで陣中で病死、生涯を閉じた。
     
   ※ 垂井宿にて
     ↓ 駱駝見世物之図
      文政10年(1827)北国へ興行へ向かう途中垂井宿を通過した
      
     ↓ 天竺大象図 文久3年(1863)舶来の象
 8代将軍徳川吉宗に献上されるため、垂井宿から美濃街道を通って江戸へ向かった。
      
     ↓ 「垂井」絵  木曽街道六十九次之内
      
     ↓ 明治後期の垂井宿町並み
      
     ↓ 市の面影を残すかご市
      
     ↓ 肥料販売店
     
     ↓ 在りしの垂井中町あたり町並み
     
     ↓ 在りし日の垂井町町並み
     
  ↓ 濃尾震災惨状真図
   
 濃尾震災について・・・明治24年(1891)10月28日午前6時37分11秒、東海地方を中心に突然大地震が発生した。震源地は岐阜県本巣郡根尾村水島で、大断層が現れた。マグニチュード8・4は近代のおける日本地震史上、最大規模のもので、関東大震災をしのぐほどのものであった。岐阜市・笠松・関等の被害が最も甚だしかった。「不破郡垂井・関ケ原両地方は震動が激烈であったが人家幾分の被害に止まり」とあるように、荒尾・牧野・赤坂以西の被害度は少なく、それ以東が大きかった。10月29日の朝日新聞号外記事「岐阜・大垣・彦根・長浜地方等の様子」に惨状の甚だしさが掲載されている。これによると鉄道線路が裂線し、垂井駅より東へは進むことができなかったこと、また岐阜・大垣は炎焼の中にあり、長良川の鉄橋が300尺ほど震動のために落ちてしまったこと、地盤が上下に変動しところどころに裂け目ができたことが記載されています。 『垂井町史』の中に濃尾震災についての記載があり書き込むこととしました。 
     
   ◇長屋氏屋敷跡
     ↓ 足利尊氏滞在の長屋氏屋敷跡について書かれた掲示板
     
     ↓ 長屋氏屋敷跡の碑
     
     ↓ 永法寺
     

     ↓ 玉泉禅寺
     

 ◇垂井の泉
   ↓ 垂井の泉と大ケヤキについて書かれている掲示板
            
     ↓ 垂井の大ケヤキ(県指定の天然記念物)
      樹齢約800年、高さ20m、目通り約8・2m
 2015年9月11日の台風にて大ケヤキが根元から倒れたという記事を目にしました。少し面食らっていますが、本当でしょうか。本当としたらば大変残念なことで寂しい限りです。
     

     ↓ 垂井の泉について書かれた立札
     
     ↓ 垂井の泉
     
     ↓ 在りし日の垂井の泉
     
     ↓「垂井湧水・南宮一鳥居」図会  『木曽路名所図会』より
                       
     ↓ 専精寺
     
   ◇紙屋塚
     ↓ 紙屋塚について書かれた立札
     
     ↓ 紙屋塚
     

  ここをあとにして帰路(JR垂井駅)に向かいました

     ↓ JR東海道本線 垂井駅
     

     ↓ 初代垂井駅(昭和28年頃)
     

     ↓ 垂井駅下りホーム旅客列車(大正3年頃)
     

     ↓ 国鉄であった頃の垂井駅(明治26年)
     

 
    以上記載しました。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« 垂井宿よりについて Ⅰ・垂井... | トップ | THE美濃路旅集 Ⅰ »