美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

THE美濃路旅集 Ⅰ

2016-10-17 | THE美濃路旅集

                   THE美濃路旅集 Ⅰ
       私が記載(ブログ)したTHE美濃路旅をまとめて記載しています。      

 美濃路の原型について・・・美濃路の原型は織田信雄(のぶかつ)時代にできたといわれる。即ち、天正2年(1584)小牧・長久手の戦いに先立って、信雄が井之口から長束・小池正明寺・高御堂・小沢・石橋を経て櫛作(一宮市串作)・河室(串作の小字)に至る幅5間の道を築かせ、更にこの道路に添って道幅3間の各村への連絡道路を作らせているが、この時大略の形ができ、その後整備されたものであろう。次いで慶長5年(1600)関ヶ原の役の家康凱線路、更に寛永11年(1634)の家光上洛路もこの美濃路であり、この街道の重要性はますます高くなった。街道の名称は美濃路の他、美濃街道、美濃路街道、家康凱旋・天下統一に因み、吉例街道ともいわれ、稲葉宿辺りでは、近江路・起街道・墨俣道などともいわれたとしている。
 『尾張志』には、慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋した際美濃路を開き街並みとし、「御吉例街道」「御悦街道」と称したとある。さらに稲葉・萩原・起の3か村が同年美濃路の宿駅として起立したと記している。東海道の伝馬制度より1年早いが、宿の起立の指示のみで伝馬制が設立まで至っていないようである。これを証明する伝馬手形・伝馬役米・印状が現存しないためだが、美濃路が開けて今日まで数百年経つことになる。
 美濃路は東海道の難所「鈴鹿峠」と「七里の渡し」を避けることもできるので交通量も多かったとされる。江戸時代初頭の将軍の往来や朝鮮通信使をはじめ西国大名や琉球使節などの大通行にも利用される重要な街道であった。5街道ではありませんが江戸と京都を結ぶ大動脈(脇往還)といっても過言でないほどの街道になると思います。美濃路は道中奉行の支配下にあった。
 美濃路には大きな川が5河川あります。庄内川・木曽川・境川・長良川・揖斐川という事ですが、このうち木曽川・境川・長良川・揖斐川には船橋が架けられていますが、庄内川には船橋が架けれれた記録はありません。往時としては珍しく庄内川には枇杷島橋(江戸時代初めの頃)が架けられたからではと思います。また、美濃路には日本三大青果市場の一つと呼ばれた市場がありました。それは、下小田井市場です。下小田井市場は徳川家康の命を受けて造られた市場でしたが、昭和30年頃市場が手狭との理由で枇杷島市場に移転しました。

  ↓ 美濃路図
  
 ◇美濃路の書き込み始め名護屋・熱田
の図を掲載します。

  ↓ 尾張図(名護屋・熱田図) 『大日本五道中図屏風』より (三井文庫蔵)
  

 美濃路は宿駅廃止制度(明治3年~明治5年)により、美濃路の宿場は廃止され、旧美濃路の存在はなくなりました。現在正式な本陣・脇本陣・問屋場・高札場のある所は1カ所もありません。また、明治24年測図、明治26・7年製版の地図がありますが、旧美濃路の機能がなくなって20年ほど経過しており、明治24年の測図は旧美濃路の道筋が変化している可能性は否定できない。また、明治24年測図においては、宿の表記ではなく市・町・村の表記になっています。ただ、旧美濃路路は部分的には残っていると思います。美濃路の歴史をひもとくと大変興味が沸き、現在の美濃路と称される路線図を見ながら数回旅をしましたが、大変楽しい旅をすることができ満足しています。現在の美濃路はすべてにアスファルト舗装が施されこのことを見て、アスファルト舗装された美濃路は旧美濃路ではないと感じました。旧美濃路路は残っているとの判断はしていますが、旧美濃路路も道路整備(道路拡幅工事等)・道路区画事業・宅地開発・河川改修工事・川への架橋等々にて旧美濃路路もかなり減少しているのが現実ではと感じています。旧美濃路の原風景は今はないというのが実感です。
 美濃路の機能がなくなったことで、明治24測図・明治26・7年製版の地図をみると、熱田宿=熱田町、名古屋宿=名古屋市、清須宿=清洲村、稲葉宿=稲葉村・小沢村合併で稲沢村、萩原宿=萩原村、起宿=起村、墨俣宿=墨俣村、大垣宿=大垣町、垂井宿=垂井町と名称の変化がみとれます。宿の記載ではなく市・町・村の自治体名に変更されています。明治21年(1888)4月25日に市制と町村制が公布され、翌明治22年(1889)4月1日以降に施行されたことが分かりました。ただし、全国同時ではなく、一部府県では1カ月~10カ月半の遅れがあったとされる。 
 宿場には主に本陣、脇本陣、問屋場、高札場等がありますが、美濃路の中、本陣の面影を残しているのは清須宿のみ。それも、清須宿本陣の面影として残っているのは門のみです。大垣宿には本陣跡の建物がありますが、新しい感じの建物で本陣の面影を感じとれる建物ではありませんでした。次に脇本陣の面影を残しているのは、起宿脇本陣跡と墨俣宿脇本陣跡です。両脇本陣に共通する所は、濃尾震災にて倒壊、その後、脇本陣時代の構造を色濃く残し再建されている所です。そのほかの宿場では本陳跡、脇本陣跡、問屋場跡等の碑等はたてられている所がありますが、面影をとどめていないところが殆どでした。ただ、名古屋宿には当初から本陣、脇本陣はおかれていませんでしたので面影も何もなくてもといったところです。私は宿場の高札場に焦点を絞りました。勿論、今においては高札場は跡のみとなっています。ただ、宿間の距離(里程)は稲葉宿から萩原宿を例にすると、稲葉宿の高札場から萩原宿の高札場の距離(里程)とされている。高札場は宿場の基点になる所と考えてよいと記憶しています。高札場の位置の確認をすることは、美濃路の旅の主な目的の一つとしていました。
 
 ◇江戸時代初めの頃庄内川に架けられた枇杷島橋の絵、木曽川・境川・長良川・揖斐川に架けられた船橋図を掲載します。船橋は将軍の渡河・朝鮮通信使渡河の際に架けられました。
  ↓ 「枇杷島橋風景」 『名古屋名所団扇絵集』より
  

  ↓ 起川(木曽川)船橋絵図・船橋を渡る朝鮮通信使一行と船橋の図
 天和2年(1682)には44隻の大船と233隻の小船を並べて、全長855メートルの橋を架けたとされている。
   
  ↓ 美濃路小熊川船橋絵図  寛延元年(1748)
  
  ↓ 墨俣川(長良川)船橋絵図 文久2年(1862)
  
 ↓ 正徳度美濃路佐渡川(揖斐川)船橋絵図 正徳元年(1711)
 


 ◇美濃路は東海道から美濃路に入って中山道を通り抜ける場合は「東海道美濃路廻り」。その逆の場合は「中山道尾張路廻り」と称した。私の場合「東海道美濃路廻り」にて旅をしました。

   ↓ 美濃路道標〔起点地(追分)道標〕
 往時は東海道、美濃路分岐点東北の所に建てられていた。この道標が建てられていた西側には、熱田宿の高札場が建てられていた所になり、高札場の多くは宿場の中心にあたる所に建てられていた。また、高札場が建てられている通りは札の辻とも呼ばれ、美濃路の道標は熱田宿の中心地(札の辻)に建てられていたことになります。
   
   道標書き込み
   東 左 京〇〇
   西 是よりきた あつた御本社二丁
   南 東 江戸かい〇〇 北 さやミのちきそ 道
   北 宝暦八戊寅年
 と刻まれている。ただ、戦災の影響で道標がかなり傷んでおり、文字は読みにくく痛々しい感が否めない(〇は判読不明文字)。
   ↓ 熱田宿図  『尾張国絵図』より  元禄頃(1688~1704)
   
   
↓ 熱田宿概略図
   
   ↓ 熱田宿概略図
 
   ↓ 熱田神宮之図(熱田宿は熱田神宮の門前町)
   
 ◇熱田神宮には東西南北に門が建てられていましたが、清雪門(北門)以外は戦災で焼失。熱田神宮の門の写真掲載。
   ↓ 在りし日の海上門(正門・海蔵門・南門) 戦災焼失前
   
   ↓ 在りし日の鎮皇門(西門) 戦災焼失前  
   
   ↓ 在りし日の春敲門(東門) 戦災焼失前
   
   ↓ 清雪門(北門)「開かずの門」
 一説によると、天智天皇の時代に熱田神宮を訪れた新羅の僧がこの「清雪門」より侵入し神剣を盗む。その計画は失敗に終わり熱田神宮に無事戻った。神剣は二度とこのような災難に遭わぬよう厳重に保管。このことがきっかけで清雪門は永遠に閉ざされることになったといわれる。
   
 ◇裁断橋、姥堂について・・・熱田宿の東を流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の蛯堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になる我が子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり再び橋の架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の遺志を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られているかな文字の銘文、母が我が子を思う銘文とし、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。裁断橋は別名、「裁談橋」・「讃断橋」・「齊淡橋」・「三淡橋」などと称し、俗に「御姥子橋」又はサンダガ橋とも呼ばれていたようです。
   ↓ 姥堂・裁断橋図会 『尾張名所図会』より  裁断橋は東海道熱田宿出入り口
   
   ↓ 在りし日の裁断橋・蛯堂
   
   
↓ 「源太夫社」図会 『尾張名所図会』より
 図絵右の所に高札場が描かれている。高札場の建っている通りは札の辻と呼ばれました。また、源太夫社前(東側)は東海道と美濃路の追分になります。
   
   ↓ 在りし日の上知我麻神社(源太夫社)
 上知我麻神社は大黒天を併祀していたことから、正月の初ゑびすは賑わったといわれる。東海道と美濃路・佐屋街道の分岐点にあったが、戦後の都市計画道路の開設で邪魔になり、熱田神宮に移されたようです。
   
   ↓ 明治期の上知我麻神社(源太夫社)
 東海道突き当りに上知我麻神社、突き当り右に曲がれば美濃路、左に曲がれば七里の渡し。
   
   ↓ 熱田東浜御殿辺りの図(熱田浜の図) 『熱田東濱御殿及舩場之図』より
   
 ↓ 美濃路起点地よりの絵図 『美濃路見取絵図』より
 
 ↓ 熱田神宮絵図 『美濃路見取絵図・解説篇』より
 
   ↓ 熱田宿概要(宿高等)
   
   ↓ 熱田神宮第一神門址と刻まれた碑がたっていました
   
   ↓ 「熱田神宮一の鳥居(寒中大宮夜参りの図)」 『尾張名所図会』より
   
   ↓ 美濃路・佐屋街道分岐点辺りの絵図 『美濃路見取絵図』より
   
 佐屋街道・・・東海道は宮宿から桑名宿まで海路「七里の渡し」を経由し多くの旅人に利用された。しかし、天候や潮の干満など不確実な要素が多々あり船にて船酔いなどの心配から熱田から美濃路と同様の道を北へ進み、この場所から美濃路と分岐して西へ行く街道。岩塚、万場、神守そして佐屋宿と四つの宿場を経て佐屋「三里の渡し」より佐屋川を下り木曽・長良・揖斐川河口を横切り桑名へ至る。佐屋回りと呼ばれる。脇往還(街道)、佐屋街道も多く利用されていた。寛永11年(1634)開設された。
   ↓ 佐屋街道道標(戦災にあい破損、痛々しい感が否めません。)
   
  ◇佐屋街道道標の書き込み
  東 右 なごや 木曽 海道
  西 右 宮海道 左なこや道
  南 さや海道 津しま道
  北 文政 辛巳年六月 佐屋旅籠屋中
    と刻まれています
 ◇佐屋路の分岐点を過ぎると名古屋と町続きの古渡村。江戸時代にはこの分岐点南を熱田、北を名古屋といい、ここから佐屋路がのびていたので「三所の堺」といわれていた。 
 ↓ 東本願寺全図  『尾張名所図会』より
 
   ↓ 「橘町大木戸」図絵 『尾張名陽図会』より
 橘町大木戸は美濃路・本町通にあり、夜10時には完全に閉じられるため出入りできず、夜遅く着いた人は木戸が開くまで待たなければならなかった。
   
   ↓ 「西本坊櫻花」絵 『名古屋名所団扇絵集』より
    
 ↓ 「大須真福寺」図会 『尾張名所図会』より
 

   ↓ 名古屋宿概略図
   
   ↓ 「若宮祇園祭禮」絵  『名古屋名所団扇絵集』より
   
 ↓ 若宮まつり7輌山車揃い
 若宮まつりは6輌の山車が焼失して大変残念なことになったことと思われますが、何とか福禄寿車が残る。

 

   ↓ 「伝馬会所・札の辻」図会  『尾張名所図会』より
    この図絵緑丸の所は高札場、赤丸の所は伝馬会所になります。
   
 ◇『名古屋東照宮祭礼図屏風』 六曲一双
 ↓ 左隻
 
 ↓ 右隻
 
 ↓ 東照宮祭山車図
  三幅の内、中央には祭の夜景、両側には山車が向ってくる様子が描かれている。
 
 ↓ 東照宮祭9輌山車揃い
 東照宮の山車もほとんど戦災で焼失、現在は舞楽のみが行われている。名古屋三大祭の一つといわれているが、名古屋最大の祭と思われる。 
 
 
 
   ↓ 「四月十六日御宮舞楽」図会 『尾張名所図会』より
   
   ↓ 東照宮舞楽
   
   ↓ 天王祭試楽図会 『尾張名所図会』より   天王社=那古野神社
   
   ↓ 天王祭 朝祭
   
 ↓ 名古屋城全図(西面)  『尾張名所図会』より
   名古屋城下(名古屋宿)の北方向に聳え立つ名古屋城。
 
   ↓ 名古屋城(戦災で焼失する前)
   
   ↓ 名古屋宿概要(宿高等)
   
   ↓「伝馬橋」図絵  『尾張名陽図会』より
 堀川沿いには無数の材木が立っており、人々が伝馬橋を渡る様子が垣間見える。往時の伝馬橋一景。
   
   ↓ 「伝馬橋の景」 『名古屋明細全図』より  明治28年(1895)
   
   ↓ 「五条橋」絵  『名区小景』より
   
   ↓ 「五条橋」図会  『尾張名陽図会』より
   
   ↓ 中橋裏浅間社図絵 『尾張名所図会』より
 中橋は堀川七橋の一つで、このあたり南北十余町にわたって商家が並び、その土蔵の数は数えきれないほどあったといわれる。
   
 ◇四間道とは・・・四間道は元禄13年(1700)の元禄の大火で1649軒の町家と15の寺社が焼失したといわれる。そのため、防火の目的や商業活動の為道幅を四間(約7メートル)に広げたことによりその名がついた。四間道を挟んで東側には石垣の上に連続する土蔵、西側には町家が立ち並ぶこの独特な景観は元文年間(1740年頃)に形成された。石畳や屋根神様、そして子守地蔵尊など、下町情緒が今も都心に残る重要な地域となっている。
   ↓ 名古屋城下を襲った大火による消失地域図
   
   ↓ 名古屋城に保存されている五条橋擬宝珠
 名古屋城下京町筋の堀川に架かる五条橋に掲げられた擬宝珠。清洲越しの前の年号である「慶長七年(1602)」の銘文があり、清須城下にあった五条橋を名古屋へ移したことが判る。尾張の鋳物師頭であった水野太郎左衛門二代の作と伝えられている。
     

   ↓ 「榎権現祭禮」絵  『名古屋名所団扇絵集』より
 白山神社祭は現在も行われてますが、団扇絵集に描かれているような活況さは今はない。
   
   ↓ 八坂神社提灯祭(祭の日)
   
   ↓ 大提灯
   
   ↓ 大提灯と山笠提灯
   
 ◇八坂神社より美濃路を進むと庄内川、枇杷島橋を渡ることになる。
   ↓ 枇杷島橋絵図  『美濃路見取絵図』より
   
   ↓ 「青物市」図会(下小田井市場図会)  『尾張名所図会』より
    枇杷島市場は昭和30年頃まで美濃路で続けられた。
   
   ↓ 枇杷島小橋西詰から問屋町望む。
   


  続きの書き込みは THE美濃路旅集 Ⅱ としています。

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