美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

THE美濃路旅集 Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅集

                    THE濃路旅集 Ⅱ

 ◇清須宿より
   ↓ 清須宿概略図
   
   ↓ 「清須花火」図会 『尾張名所図会』より
 明治初年の神仏分離令により別当寺清凉寺から分離して川上神社となった。川上神社で行われる例祭は清須天王祭といわれ宝暦四年(1754)以前から尾張藩が許した花火が打ち上げられ、津島の天王祭と同日に同様の形式で華やかに行われたといわれる。2艘の船が車楽をのせ行ききさせたとのこと、天保の頃が最盛期だったとされる。花火は昭和初期に廃止されたといわれる。「清須花火」の図絵は、その時の模様を描いた絵ということです。
        
   ↓ 清須宿本陣跡  
 明治24年(1891)濃尾地震で建物が倒壊、火災にあい、わずかに残された正門のみが縮小され再建。美濃路の中において本陣の面影を残しているのは清須宿本陣のみでした。清須宿本陣跡は
美濃路にとって貴重な文化遺産である。
   
   ↓ 「琉球人清須駅本陣憩う図」図会 『尾張名所図会』より
     琉球人一行が度々清須宿に宿をとったといわれる。
   
 ◇宮宿、名古屋宿、清須宿、3宿の高札場。
   ↓ 熱田宮宿高札場
   
   ↓ 名古屋宿の高札場
   
   ↓  清須宿の高札場
   
 自身高札の枚数は2~3枚程と思い込んでいましたが、この3宿の高札場の絵を見ると、高札の枚数は数枚掲げられていたことが見てとれます。高札場の形はそれぞれ異なっていますが、ほぼ同じ様式で造られていると見ました。高札を掲げられる場所は宿場の中心といわれています。

   ↓ 清須宿概要(宿高等)
   
  ↓ 稲葉宿概略図
   
   ↓ 稲葉宿図 『美濃路見取絵図』より
   
 ◇稲葉宿琉球使節の泊まりについて・・・琉球国王の使節の江戸参府も美濃路通行であった。琉球使節は、徳川将軍の襲職を慶賀する賀慶使(慶賀使)と、琉球国王の襲封を謝恩する恩謝使(謝恩使)とがあり、寛永11年(1634)から嘉永3年(1850)まで各11回を数えた。使節の構成は正使・副使をはじめ賛議官・楽正を含めて100人弱。これを薩摩藩が先導するので数百人にものぼった。
 江戸上りの経路は、伏見まで船路、そこから東海道を通行するのが例であった。しかし、寛文11年(1671)帰国の途次桑名沖で難破する事故があり、そのためか正徳4年(1714)以後は美濃路を通るようになった。美濃路通行は賀慶使・恩謝使各6回を数えた。この地方では10月下旬から11月中旬に江戸上りの一行を迎え、年末から翌年の1月中旬の間に帰国の一行を見送った。稲葉宿に使節一行が泊まったのは3回。まず享保3年(1718)の参府である。吉宗の将軍襲職を祝す賀慶使として正使越来王子(こゆくわんず)・副使西平親方(にしんだおやかた)一行94人が、閏(うるう)10月22日に稲葉宿に泊まった。この時の詳しい様子はわからないが、江戸での儀式をすませて帰途、12月26日にここを通過したはずである。『尾張名所図会』によれば、このとき金華山禅源寺の僧が王子に詩1篇をを贈ったとされる。次は、天保3年(1832)の恩謝使である。11月3日、正使豊見城王子(豊見城ワンズ)・副使沢氏親方(たくしおやかた)以下琉球人97人と先導の薩摩藩士らを含め、併せて総勢790人が稲葉宿の60軒に分宿した。正使は本陣に、副使以下の琉球人は山田藤吉宅・山田藤大宅・金三郎宅に宿泊した。薩摩藩関係者は脇本陣吉田又吉宅その他に分宿し、さらに幕府役人が山田市三郎宅・禅源寺・崇福寺など8軒を占めた。この頃の稲葉宿の人口は約1500人。この日の混雑ぶりはいかばかりであったろうか。
 これだけの人数が宿泊するのだから布団や諸色の調達も大変であった。通行に先立って清洲代官からの通達により、近郷諸村から蒲団・膳椀・風呂桶・炬燵・飯炊き釜・火鉢等が宿内に運び込まれた。さらに、人馬の割当が行われ、それに満たない不足分は代銭の納入を義務付けられた。  以上が琉球使節の稲葉宿泊まりの書き込みです。
 ↓ 琉球人来朝行列図
  
 ◇朝鮮通信使(稲葉宿大通行について)・・・朝鮮通信使とは江戸時代に朝鮮王国が日本に派遣した外交使節団である。多くは将軍の代替り等の慶事に来朝した。慶長12年(1707)から文化3年(1811)まで、江戸時代を通じて12回を数えたが、そのうち10回は美濃路を通行した。その経路は漢城(ハンソン)・ソウルを発って陸路釜山に至り、海路に移って対馬・壱岐を経て瀬戸内海に入り大坂に到着した。そこから川舩で淀川を遡って淀に上陸して京都に入った。ここから草津・彦根・垂井を経て美濃路に入り、木曽三川では大掛かりな船橋を渡った。この船橋は将軍の上洛時と朝鮮通信使の通行の時だけ架けられたもので、天下の奇観として毎回の使節団旅行記録に記されている。こうして尾張に入り、熱田から東海道を江戸に向かった。
 使節の構成は正使・副使・従事官の3使をはじめ、その随員・医師・儀杖・警護・船員などである。総人数は大体500人弱であったが、一行を案内し警備にあたる対馬の宗氏とその従者を加えると2000人に及ぶこともあった。この近辺の旅程は、大垣泊~墨俣か起(昼休)~名古屋泊(名古屋若宮八幡社南に建っていた性高院が旅宿)となっていたので、稲葉宿は通過に過ぎなかった。しかし通信使は勅使・院使より丁重に遇されるのがつねであったので、通行に際しての準備と送迎は大変であった。美濃路の通行の最後となった第11次の宝暦14年(明和元年・1764)の様子を見てみると、このときは10代将軍家治の襲職の賀使であり、宗対馬守義暢の先導で正使趙趙曮・副使李仁培・従事官金相翊の3使を迎えたものである。
 使節当地通行は2月3日であったが、その準備は前年の4月頃から始まり、往還の修理、並木の補植、橋の架け替え、家の修理などお触れが出され、幕府や尾張藩の役人の点検を受けた。通行が近づくと使節が将軍に献上する鷹や馬の餌の調達も課せられた。
 いよいよ通信使一行の通行である。この通行は何十年に一度である。沿道の人々は遠路来日した隣国の異人とその風俗に目を見張ったと思われる。その見物にもお触れが出され、火の元の注意・不審者の届け・一行との売り買い禁止・喧嘩口論や高笑いの慎み・二階からの見物不可等々である。人々は雨落ちの内側で行儀よく見物しなければならなかった。夕方暗くなってからの通行には、家々は提灯を灯し、宿はずれでは松明をたいて迎えた。
 一行の接待は沿道の大名に割り当てられた。この地域は尾張藩が担当したが、市域全村から人馬が徴発されて継立にあたった。また稲葉宿の近辺では宿はずれに仮茶屋を二軒建てて、湯茶・菓子・煙草・草鞋などの接待をした。その手伝い人足は稲島・木全・天池・石橋・桜木の村々があたった。  との記載がされていました。
 ◇稲葉宿の茶壺道中について・・・茶壺道中というのは、幕府が山城国宇治より年間の飲用茶を求める行事で寛永9年(1632)宇治茶を将軍に献上したのに始まるといわれる。毎年立春から数えて100日以後の頃、江戸より3箇の茶壷が東海道を宇治まで運ばれた。その際、込野・北麻績・南麻績・目比・氷室・坂田・西溝口・野崎・今の各村は佐屋路の神守宿へ人足を出した(寛文覚書)。宇治の茶師上林家で新茶を詰め、帰路は中山道を経由するのが通例であったようだが、美濃路を経て東行することも少なくなかった。当地方の通行は、宝暦13年(1763)は5月28日、文政3年(1820)は5月26日、文政4年1821)は6月8日などが判明している(宮崎正吉所蔵文書・稲葉宿記録上)。
 茶壺の往来は将軍家の権威を背景に、大変盛大であり、時に横暴でさえあって人々に恐れられた。大名ですら道路の端に駕籠を下してひかえなければならなかったし(尾張交通史料)、無邪気な子供たちも「茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ」と童謡が示すが如く家の内で小さくなっていなければならなかった。宿舎には本陣が当てられ、宿役人は羽織袴の礼装で下座し、送迎の礼をつくした。また多数の人馬が使役され、稲葉宿における文政3年(1820)・同4年(1821)の数字は次のようであった。
      御茶壺下向
               (文政3年)  (文政4年)
  一、御朱印場馬     34疋     34疋
  一、御朱印人足    115人    109人
  一、御証文人足     42人     36人 
  〔文政三辰・同四巳年御朱印御証文御触留、稲葉宿記録上〕
 この御朱印は将軍の朱印状によって、御証文は老中など幕府役人の証明書で、人馬を使うもので、ともに無賃であった。この外に、実際には添人足、添馬を出すのが普通であり是も無賃であった。宿が添馬を出し、助郷が添人足を多く出しているのは茶壺道中の時であったとしている。また文政3年(1820)の稲葉宿における御朱印御証文人馬総数は、人足163人、馬138疋であるが、この中茶壺関係が157人・34疋であり、同様に文政4年の総数が163人・36疋の中、茶壺関係が155人・34疋 である。年間の御朱印御証文人馬の大半が、この茶壺道中で占められていあたのだから、その盛大さもうかがえる。特にこの通行が田植えの時期と重なったので、その負担は二重になって農民を苦しめたとしている。
   ↓ 稲葉宿概要(宿高等)
   
   ↓ 萩原宿概略図

   
 ◇萩原宿を前に進むと冨田の一里塚がありました。
   ↓ 冨田一里塚立札書き込み(興味深いことが書かれています)。
   
   ↓ 冨田一里塚(東塚)

   
   
↓ 冨田一里塚(西塚)
   

   ↓ 萩原宿概要(宿高等)
   
   ↓ 
起宿概略図
   
   ↓「
起川」図会 『尾張名所図会』より
 
黄丸印の所は起宿高札場、緑丸印の所は船橋河戸。起宿には定渡船場、宮河戸、船橋河戸の3ヵ所渡船場がありました。
   
 ◇起宿茶壺道中
 ↓ 茶壺道中 『宇治御茶壷の巻』より
 
 茶壺道中について・・・今日ではとても想像できないような権勢で街道を往来したものに茶壺道中がありました。これは幕府が山城国宇治より一年間の飲用茶を求める行事で、寛永9年(1631)宇治茶を第3代将軍徳川家光に献上したのに始まるといわれている。幕府は諸侯が家光の権威に服するか否かを試みるため、茶壺に特別な権威を持たせて往来させたが、いずれもそれに敬意を表したので、これを吉例として年々新茶が製されると、宇治から将軍に将軍に献上させるようになった。
 毎年立春から数えて100日を経過したころ、江戸から茶壺が東海道を宇治まで運ばれた。宇治の茶師上林家で新茶を詰め、帰路は中山道を経由するのが通例であった。その後元禄3年(1690)より上り下りとも東海道を通行するようになったが、帰路美濃路を通るようになったのは元禄6年からであったと思われる。
 『起町史』によれば美濃路通行は元禄6年より始まり、同11年から13年までは、尾張藩主綱誠・光友のあいつぐ死去により名古屋を避け東海道を下向し、翌14年から美濃路通行を復活した。しかし安永・天明期(1772~88)はまた桑名・熱田の東海道筋をとり、更に寛政2年(1790)以降美濃路通行通行を復活した。したがって茶壺の美濃路通行は一定していたわけではない。
 美濃路通行の場合の経路と日程を、文化7年(1810)の例で示せば次のようであった。すなわち宇治を出発して草津へ出、第一日は中山道守山泊、第2日は武佐・高宮・鳥居本・番場を経て醒ヶ井泊。第3日は柏原・今須・関ケ原・垂井ときて美濃路に入り、大垣で昼休、墨俣を経て起泊。第4日は萩原・稲葉を経て清須で昼休、名古屋・熱田を通って東海道へ入り鳴海泊。第5日は岡崎で昼休御油泊。その後は浜松・島田・江尻・三島・大磯・神奈川に泊まって、12日目に江戸に到着した。
 茶壺道中の一行は、数寄屋(坊主)頭・数寄屋(坊主)・2人衆・3人衆・5人衆などで供の者も多く、大坂城番(定番)が付添った。茶壺の数はおよそ30個ほどで、1番ち・2番・3番と番号が付され、長持に納められていた。特に1番・2番・3番・は丁重に扱われ、4番以下と区別された。
 茶壺の逓送のために使われた人馬を『大垣市史』によりみれば、次のようであった。安政3年(1856)5月の例であるが茶壺1番から3番までは1棹6人がかりで人足18人、4~8番は1棹5人がかりで人足25人、9~18番までは同様に4人がかりで40人、19番~23番3人が仮で15人、合計人足98人であった。このほか諸道具の長持、役人の籠、荷物等の継立にかかる人馬はきわめて多く、それらを加えると人足256人、馬34疋となった。さらに添人馬とか御馳走人馬を出すのが例で、その数は人足191人、馬13疋であった。またこれとは別に大坂城番の使用したものが人足68人、うま5疋でこれに人足30人、馬、1疋を添人馬として出した。以上を合計すると、大垣宿で茶壺道中の継立に要した人馬は、人足545人、馬53疋にのぼった。茶壺の往来は将軍家の権威を背景に威勢を誇り、時には横暴に過ぎ人々に恐れられた。勅使・院使・宮・門跡と同格、あるいはそれ以上の扱いを受けたので、大名ですら茶壺道中にあうと道路の端に駕籠を下して控えなければならなかった。勿論家臣は下乗し、下々のお供衆はかぶりものをとって土下座した。茶壺の宿泊には代替本陣があてられ、宿役人は羽織袴の礼装で下座し、送迎の礼をつくした。茶壺は宿泊の場合は勿論、昼休の時でも本陣玄関式台に1番・2番・3番の茶壺が据えられ、その他は中庭などに置かれた。そしてその地の領主の出役人が警護に当たるのが普通であった。
 茶壺道中がいかに権威をふりかざしたか、どんなに恐れられたかはいろいろな書物に書かれている。みじかな例では松本清張の『西海道談綺』の冒頭には、中山道奈良井宿の本陣宿泊をめぐって、100万石の加賀藩と僅か3万石の福知山藩の争いが出ている。そこへ1人の浪人の画策した「御茶壺急拠奈良井宿本陣泊り」風聞がもたらされ、両藩の争いが一挙にふっとぶ話があり、茶壺の権威がいかに大きかったかを興味深く描写している。他にも御茶壺道中にはいろいろな話題があるようです。
    ↓ 起宿の茶壺通行年月日
    
   ↓ 起宿脇本陣間取り図(幕末から明治にかけて)
   
   ↓ 史跡 起渡船場跡~定渡船場~ 掲示板の書き込み
   
   ↓ 起定渡船場(大正中頃)
   

   ↓ 起渡船場(昭和15年)
   

 ◇美濃路を通った諸侯はどの程度だったか
 ↓ 一例として享保8年(1723)に木曾川を渡船した月日・氏名・上りか下りであったか、起宿の船庄屋の覚書を記したもの。
 
 
  ↓ 起宿概要(宿高等)
   
   ↓ 墨俣宿概略図
   
 ↓ 御茶屋新田村・墨俣宿絵図 『美濃路見取絵図』より
 

 ↓ 墨俣宿図『美濃路見取絵図・解説篇』より 
 
 墨俣宿について・・・起宿から2里17町余、江戸からは約99里の距離にあった墨俣宿について、『尾張徇行記』は次のように記している。
 町長7町7間あり。町の名を河端・中町・本町・西町・横町と云。町並は大体よき処也、中町・本町の間旅籠屋多し、本陣は中町にあり農業の他には宿屋・茶屋・小商ひを以て渡世とするよし。茶屋は長良川の堤上にありて景色よし。
 本陣は中町にあり、代々沢井家が世襲し、明治に至るまで13代続いた。その跡地に「墨俣本陣跡」の碑が建っている。脇本陣は本町にあり、安藤氏が世襲した(途中3代加野氏がつとめた)。この脇本陣の門は、明治末年に本正寺に移築され、現在本正寺山門として残されている。
 大名の宿泊の場合には、たいへんな数の調度が必要であった。寛政7年(1795)「紀州様御止宿」の際、本陣が用意した入用道具は、火鉢30、行灯40、五徳19、煙草盆20、燭台25、膳わん、猪口・平・飯つぎ160人前、汁つぎ10、湯つぎ20、茶のみ茶碗100、風呂桶9、枕150、布団315枚、屏風32双、その他鍋・釜・やかん・十能・たらい・手桶・水荷い桶等々であった。このうち燭台5本、屏風22双は名古屋から拝借し、手燭7本は起宿本陣から借りている。紀州は御三家の1つであり不都合があってはならず、尾張藩から役人が出張し、宿内や付近の村に宿をとって警備に当たった。また本陣には7カ所の番所を設けて身辺を守護した。人数が多く本陣・脇本陣だけでは宿割りができない場合は、寺院や大家を御開本陣として割当て、さらに中等の宿泊者には幕宿、下等の宿泊者には下宿と称して一般の民家をわりあてた。
 墨俣は美濃路より古い鎌倉街道(中世の東海道)が東西に貫通していた。宿場は西の方から垂井―赤坂―墨俣―黒田であったが、この時代墨俣宿は美濃路の宿場より南の上宿地区を通り、すでに見てきた小熊から足近方面へぬけていた。この街道と宿場を現在の墨俣へ移したのは、応仁の乱時代の美濃国守護代斎藤妙椿の弟利藤で、長享元年(1487)のことであったという。(日下英之著より)
 幕末頃の墨俣宿における美濃路エピソード・・・幕末頃になると、美濃路通行の人や荷物の輸送に人馬では限界があり、荷車(大八車)と馬車が使用された。このため、北方代官所から、弘化5年に各村々庄屋宛に事故防止に万全を期するようにとの御触書が出された。こうして道行く人の安全対策がはかられ、美濃路は重要な街道として多くの人が往来したとの書き込み資料がありました。この書き込みから往時の美濃路において大八車、馬車等の事故防止策がはかられていたという事に驚きを感じました。

   ↓ 墨俣宿概要(宿高等)

   
   ↓ 大垣宿概略図
   
   ↓ 在りし日の大垣城(戦災焼失前) 
     大垣城下(大垣宿)の中央に聳え立つ大垣城。
   
 ↓ 大垣まつりポスター
 
↓ 大垣祭の祭やま行事について書かれた掲示板
 
 ↓ 大垣祭のやま
 

 ↓ 大垣祭夜のやま
 
   ↓ 大垣宿概要(宿高等)
   
 各宿場の本陣、脇本陣、問屋場、家数、人口等の記載が詳細に記してある宿場がありましたが、どのようにその確認を取ったか分かりませんでた。 しかし、私が集めた資料の中から宗門改文書の書き込みを見つけることができました。下記に記載します。
 ◇まず一例として起宿概要を記載します
  本陣=1軒      脇本陣=1軒      問屋場=2ヵ所
  家数=887軒    人口=4094人    旅籠屋=22軒
   ↓ 宗門改文書(しゅうもんあらためもんじょ)11冊 円光寺蔵 
        
 宗門改文書 11冊
 ◇宗門人別改留 4冊  宗門贈一札篇 6冊  宗門一札出入留 1冊
 宗門改は江戸時代にキリシタン信仰を根絶する目的で行われた。庄屋等は毎年受け持ちの戸ごとに人別帳を作成し、キリシタン信者でないことを檀那寺が証明し、印を押し役所に提出をしていた。毎年作成されたので、地区の戸籍台帳の役目を果たした。  との記載がありました。この書き込みから読みとれたのは、江戸時代において、庄屋等は毎年受け持ちの戸ごとに人別帳を作成し、役所に提出していたと記されている所に注目しました。この書き込みから、往時においての家数、人口は役所が把握していたことになります。美濃路の宿場においての家数、人口等が詳細に記されている理由がこの書き込みから知ることができました。
      ↓ 美濃路を通った象の絵
     
 象の美濃路通行について・・・象の美濃路通行は1729年中山道と美濃路の追分から始まった。ここ垂井の追分は美濃路中山道尾張路廻りの起点地になります。象の美濃路通行は垂井泊、墨俣休、起泊、稲葉休、清須泊、宮休とかなり早いスピードで美濃路を通り過ぎた。美濃路には揖斐・長良・境・木曽の川があり、巨大な象の渡しには大変な苦労があったと思います。美濃路で象の巨体を目の当たりにした人々は、その大きさにさぞかしびっくりしたと思われる。
   ↓ 中山道・美濃路追分写真(昭和初期) 美濃路終点地
   
   ↓ 中曽根村辺り~垂井追分図 明治24年測図(赤丸点は美濃路、緑丸点は中山道)
   
 ◇美濃路は垂井宿垂井追分が終点地になります。追分道院の辺りに黒丸印を付けました。
   ↓ 美濃路終点地絵図  『美濃路見取絵図』より
   
   ↓ 垂井追分道標について書かれた立札
    
   ↓ 美濃路・中山道垂井宿垂井追分道標  宝永6年(1709)の道標
 表には「是より 右東海道大垣みち 左木曽街道たにぐみみち」、裏には「宝永六年巳丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれている。垂井宿垂井追分が美濃路の終点地になります。

   
        

 
       以上。

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