美濃路・THE美濃路

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昔の枇杷島橋について

2016-10-17 | 美濃路

                                   昔の枇杷島橋について
    枇杷島橋=
枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋。江戸・明治・大正・昭和の枇杷島橋。
           美濃路の橋はと問われれば
枇杷島橋と答える!

 1806年ごろ描
かれた『美濃路見取絵図』をみると、美濃路には大きな河川が5河川あります。庄内川・木曽川・境川・長良川・揖斐川という事です。そのうち4河川、木曽川・境川・長良川・揖斐川には渡船場が記載されています。また、将軍・朝鮮通信使が渡河する際には船橋が架けられたことがみとれます。ただ、ここ庄内川には渡船場も船橋を架けられたことも描(書)かれていません。特異な場所と考えてよいのではと思います。ここ庄内川には枇杷島橋が架けられていたからです。橋を架けた理由についてはいろいろあったと考えます。橋が架けることができた理由もありました。枇杷島橋が架けられる前にはここ庄内川には渡船場がありましたが、江戸初期に枇杷島橋が架けられたため、渡船場も船橋もかける理由もなかった事になります。美濃路の歴史にあって枇杷島橋は注目度が薄いのではと感じています。往時としては大きな川に橋が架橋されるのは珍しく、枇杷島橋は名所地、景勝地としては名高い橋という過去がありましたが、現在は面影すらないためか往時の枇杷島橋を知る方もかなり少なくなっていると思います。枇杷島橋は枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋の3橋を総称して枇杷島橋といっていましたが、昭和33年中島が完全撤去され枇杷島橋の歴史に終止符が打たれたと私自身は考えています。また、往時枇杷島橋上に佇んで周りの景色を見わたした人すべての人々が、その景色に旅の疲れを癒されたとともに、想い出に残る絶景を瞼の奥に撮りこんだことと思います。
 川の大きさを私なりに判断すると庄内川は境川より大きく、木曽川・長良川・揖斐川よりは小さい川であったと思っています。
                                           江戸期の枇杷島橋について・・・枇杷島橋は庄内川を一橋で渡したものでなく、川中に島をつくり、二橋で渡した特徴のある構造の橋である。二橋にした理由は、川幅がおよそ200メートルもあり、土木技術上の問題であったのか、軍事上の問題であったのかはっきりしないとされている。

   ↓ 枇杷島橋絵図  『美濃路見取絵図』より
   

 枇杷島橋について・・・枇杷島橋架橋年は、慶長13年(1608)説と元和8年(1622年)説の二説があるとされています。文献資料はあるようですが考察するにとどまり、明確な年数は確定されていないと思います。
 『にしびの文化財』をみると詳細な文献資料の書き込みがされています。書き込みの詳細については省略しますが、大きく分けると次のような書き込みになっています。
 一、慶長13年に枇杷島橋ができる。
  『地方古義』
 二、元和8年に枇杷島橋ができる。
  『張州府志』『尾張名所図会』『張州雑志』『尾張徇行記』
 三、元和8年に枇杷島橋の掃除給をもらう。
  『寛文覚書』『塩尻』『尾張志』『張州雑志』
 四、元和8年に枇杷島小橋ができる。
  『地方古義』
 以上の文献から枇杷島橋の架橋年が2説に分かれている。
 慶長13年と元和8年は年数にして14年の隔たりがあります。しかし、この間に城下を清洲から名古屋への清洲越しがあります。清洲から名古屋へ引っ越すに庄内川を渡らなくてはならない。この際に枇杷島橋が架かっていたかどうかがよく問題にされるところです。庄内川に橋が架かっていなかったら、渡し船で渡らなければならないという不便さがある。そのため清洲越しに備えてあらかじめ橋が架けられていたとする慶長13年説を支持する考えもある。今となってははっきりとしたことは断言できないかと思います。
 『西枇杷島町史』では元禄3年に橋の形式が固定されているしているとしている。しかし『西枇杷島町史』が引用している『御普請所留』には元禄3年に橋の形式が固定されたと記されてなく、その後も橋の架け替えにより橋の大きさは変わっている。『西枇杷島町史』の中『御普請所留』から抜粋すると枇杷島橋の長さは次のようである。
 元禄3年(1690)
  枇杷島大橋 長さ69間横3間半
  中島 石垣長13件尺幅6間5尺
  枇杷島小橋 長さ29間横3間半
 寛保2年(1742)
  枇杷島大橋架け替え
 寛保4年(1744)11月
  枇杷島小橋の板打ち替え
 延享2年(1745)
  枇杷島小橋、長さ29間を西より3間橋台部分を張り出したため、長さが26間となる。
 宝暦5年(1755)
  枇杷島大橋、檜にて架け替え
 宝暦6年(1756)
  枇杷島小橋架け替え
 ・・・〈以下略〉・・・
 この『御普請所留』には慶長19年(1614)から嘉永6年(1852)までの庄内川に関わる普請や水害、枇杷島橋のことが記されている。
 元禄3年(1690)に初めて枇杷島橋に関する記録が見られ、枇杷島橋が最初に架けられたとみられる元和8年(1622)の記録もなく、また、慶長13年(1608)の枇杷島橋架橋の記録もない。しかし架橋が慶長13年あるいは元和8年にしても、元禄3年までのおよそ70~80年間、橋の架け替えがなかったとは考えられない。『御普請所留』は慶長年間からその都度、記録されたものではなく、後世のある時期にまとめられたものと考えられる。川口惣七家は寛保3年(1743)から庄内川堤見廻り役も橋守役とともに兼務するようになり、このあたりから書き留めるようになったものと推測されるとしている。
 
 ◇枇杷島橋橋守についての書き込み   
  『西春日井郡誌』より  『西春日井郡誌』は大正12年3月30日発行
 枇杷島橋橋守について・・・元和8年11月23日枇杷島の橋成りし時、徳川義直は市兵衛、九左衛門両人に橋守を命じ掃除料として除地畑1反4畝26歩を給せられる。いつ頃の者にや唯子12月と記すのみにて年不明なれど、勤方心得書付なるものあり
 一、 日々橋所見回り掃除は勿論、橋杭に藻、草等懸り候はゞ入念取拂可申事。
 一、 出水等有之之節は附猶亦可心懸け事。
 一、 橋の近火事等有之侯はゞ早速駈付消留方差図可致候事。
 右の趣急度相守若破損變事等有之節は早速役所に申達事。
 かくして橋守は明治6年迄之を継続せり。
 『西春日井郡誌』では橋の架橋年を元和8年とし、橋守は明治6年まで継続していたとの記載がありました。橋守が明治6年まで続いたとの記載から、明治6年まで車での通行ができなかった可能性が出てきました。また、『西春日井郡誌』に「中島の景」と題した書き込みがあります。往時の中島の様子が書かれています。記載します。
 「中島の景」・・・中島の景。本郡を流るゝ庄内川は至る所其の景観に富めども殊に西枇杷島町中島附近の眺望を以て最も絶佳とす。四面を環れる清流は常に島の周囲を洗ひ絵の如き島上の松林屋宇また実に水上に浮かぶに似たり。町と相通ずるに大小の二橋を似てし、大なるは鉄、小なるは木。鉄なるは赤、木なるは白其配趣の妙亦一段の趣あり。面して一度この橋上に佇立すれば、北には御嶽の雪峰遥かに信美の群山を祓いて雲外を聳ゆるを望み、南には蜿蜒たる赤色鉄橋深緑の松葉と相映ずるを見る。東には名古屋の市街雲煙の間に隠し見して金城夕陽に輝き、西には伊吹養老の諸山脉翠色滴るが如し。俯して庄内川流白沙布を曳けるが如く、仰げば清征碑魏然として燦然たり。もしそれ堤上櫻花爛熳として雲の如く胡枝子咲き乱れて錦の如き往時(弘化2年此の邊り堤上に数千株の桜植得たり)の景をも併せ望むを得ば是ぞ真に錦上更に花を添ふるものならんか。古人は此の地に於いて二十余国を望み得と稱し枇杷島八景を唱へしものありき、今当時の詩文を記し昔時の風景をしのばん。  と記しています。
 庄内川堤防に桜の木が植えられた年を弘化2年(1845)とし、中島からの眺望を情景豊に書き込んでいることが読みとれます。
         
   ◇枇杷島橋の位置について
   ↓ 旧美濃路枇杷島橋辺り地図   明治24年
 枇杷島橋は美濃路を名古屋方向からくると、庄内川に架かる枇杷島橋を渡るのですが、この時代の枇杷島橋は美濃路をまっすぐ進むように造られていました。図中に美濃路と岩倉街道の分岐点を記しました(赤丸点は美濃路、赤丸の中黄色丸の地点は美濃路と岩倉街道の分岐点)。掲載の地図の枇杷島橋の位置は当初枇杷島橋が架けられた位置とほぼ変化なしと見ます。
    
   ↓ 枇杷島橋辺りの図  『名古屋熱田実測図』より  明治27年(1894)
   
   ↓ 枇杷島橋辺りの図  『名古屋案内地図』より  明治42年(1909)
   
    
   ↓ 枇杷島川堤及街道図 大正元年 
     美濃路
枇杷島橋が描かれています。
    
   ↓ 枇杷島橋図  大正頃
 枇杷島大橋の橋の付け替えがあり庄内川下流部に架け替えられた。枇杷島小橋は元の位置にあることが見えるという事です。この時点において美濃路は旧美濃路ではなくなりました。赤点は美濃路を赤丸の黄丸の所は美濃路と岩倉街道の追分地点になります。
   
   ↓ 在りし日の枇杷島橋
    
   ↓ 在りし日の枇杷島大橋
   
   ↓ 枇杷島橋  明治14年架設
   
 
   ↓ 枇杷島橋之図  『名古屋明細全図』より  明治28年(1895)
   
   ↓ 在りし日の枇杷島橋絵
   
   ↓ 明治時代の枇杷島大橋
   
 >明治期の枇杷島橋について
   ↓ 明治期の枇杷島大橋の親柱
   
   ↓ 枇杷島大橋 濃尾地震(明治24年)で崩落
   
   ↓ 枇杷島橋震災にて崩落 
   
   ↓ 枇杷島橋震災にて崩落
   
   ↓ 枇杷島橋震災にて崩落
   
   ↓ 震災後の枇杷島大橋の仮橋工事  『濃尾大震災写真帖』より
   

   ↓ 大正期の枇杷島橋の地図(大正9年頃)
 大正期に入ると、それまで架かっていた橋の位置とは違うところ(庄内川下流部)に枇杷島橋が架けられているのが分かります。この橋の位置の変更理由の一つに、美濃路を名古屋方向からくるに、庄内川の坂が急坂であったため、坂を上がりやすいように橋を付け替えたことが理由の一つになっているようです(赤丸点は美濃路、赤丸の中黄色丸の地点は美濃路と岩倉街道の分岐点)。この図では往時の美濃路筋がなくなっている事がみとれます。美濃路の道筋の変化があり、往時の美濃路は消滅したことになります。
   
   
↓ 大正元年、枇杷島大橋完成渡り初め
   
 
  ↓ 枇杷島小橋について書かれた立札
  
   ↓ 旧枇杷島橋 小橋々柱  明治20年(1887)造築
   
 上の写真について、『西枇杷島町関係文化財等の調査』の中に、枇杷島橋の橋柱について次のような記載がある。
 枇杷島大橋 橋柱4本
  2本は橋名を彫るー「枇杷島橋」「ひ者志ま橋」
  2本は年号・年数を彫るー初め「明治十四年七月」と彫り、後に「廿五年」と彫り直す
 枇杷島小橋 橋柱2本
  1本には「枇杷島小橋」と彫り、ほかの1本には「明治二十年十月」「明治三十年三月
修繕」と彫る。大正元年枇杷島橋が現位置に架けかえられたあと、小橋橋柱は暫くそのその辺りに置かれていたが、後に郡役所に移され、現在は清須市西枇杷島町西枇杷島小学校校庭片隅に置かれている。
 それぞれの橋柱から枇杷島大橋は明治14年(1881)に架け替えられている。これ以前の架け替えが大橋は文政5年(1822)であり、じつに大橋は59年ぶり、小橋は46年ぶりの架け替えとなる。この間修繕はなされていたものの、大橋・小橋は老朽化していた。明治13年(1880)に西春日井郡が成立し下小田井村(清須市西枇杷島町)の宝国寺に仮の郡役所を置き、同17年(1884)には大橋と小橋の間の中島に郡役所を移している。中島に郡役所を置いたことから大橋と小橋の架け替えがこの頃に行われたとしている。
   ↓ 明治期の枇杷島小橋 
    
   ↓ 枇杷島小橋  大正元年10月架橋
   
   ↓ 枇杷島小橋
   
 ≫中島
 尾張の名所の中島・・・枇杷島大橋・小橋は東海道と中山道を結ぶ美濃路にあり、名古屋の城下の口に当たる。美濃路は脇街道であるが、東海道の鈴鹿峠や七里の渡しなどの難所を避けたい人たちにとって、美濃路が重宝がられた。大名行列や朝鮮通信使・琉球王使などの一行等々もこの美濃路を利用している。美濃路を通る人たちや名古屋の城下の文化人たちにより枇杷島橋の雄姿やこの橋からの眺望の素晴らしさが評判になっていった。
 『西枇杷島町史』に芭蕉七部集の『曠野集』(元禄2年刊)巻七には「名所の部」に竜田川・隅田川・吉野・唐崎・瀬田などと並べ、「枇杷島橋眺望」として、含呫が
 雪残る鬼嶽さむき弥生かな
 の句をよんでいる。鬼嶽は御嶽のことであろう。
 とあり、元禄年間(1688~1703)には名所として枇杷島橋は知られていた。また松尾芭蕉が雪見に枇杷島の地を訪れ「市人よこの笠売う雪の笠」や「市人にいで是売らん雪の笠」の句を残していると『西枇杷島町史』にある。
 枇杷島橋周辺は、青物市や遠近の眺望だけでなく、枇杷島橋そのものも中島をはさむ大橋・小橋が見事な景観であった。そのため多くの文化人が枇杷島橋周辺を訪れ、枇杷島橋周辺を題材として漢詩や和歌・俳諧に多くの作品を残している。『西枇杷島町史』には多くの作品が紹介されていますがここでは省略します。
  ↓ 枇杷島橋・中島の写真
  
   ↓ 中島の中、西春日井郡郡役所水没
 西春日井郡郡役所について・・・『愛知県西春日井郡誌』には、郡役所は大字下小田井の中島にあり明治13年2月6日本郡成立の後同字宝国寺に於て事務を執りしが明治17年6月11日を以て当衙に開庁式を行ひ之に移れりとあり、西春日井郡郡役所は明治17年6月に建てられている。郡制は大正12年4月1日をもって廃止され、その役目を終えた後名古屋土木事務所や愛知県西春日井郡農会の建物として利用される。
   
   ↓ 中島の中に建っていた征清記念碑
 征清記念碑は西南戦争及び明治27年戦役に於ける本郡戦死者の記念碑。現在は清洲公園に移設されている。清洲公園へ移設した年月は不詳。鉾の形の銅碑は戦時中に金属回収令により供出され、2015年現在、征清記念碑の台座のみが清須市清洲町の清洲公園内に残されている。

   
   ↓ 中島に建っていた公会堂
   
   ↓ 中島に建っていた西枇杷島町役場
   

   ↓ 中島も市場として利用された
   中島より西方向望む、市場は決まった問屋だけではなく、道路でも市を開いていた。
   
   ↓ 中島最下流部(国鉄東海道線(現JR)より少し下流まで中島であった)
   
   ↓ 枇杷島祭礼の時、中島に山車を曳こんだ写真。
   
  ↓ 中島が撤去される前の中島略図
    当時中島在住の中井さんに教えていただいた略図参考。
  
   ↓ 中島撤去工事中の写真(枇杷島橋界隈の航空写真)
 枇杷島橋界隈の写真について・・・昭和20年代に撮られた写真があり掲載しました。赤丸点は美濃路になります。2014年現在西枇杷島町の美濃路筋が庄内川改修工事にてなくなっていますが、この写真にて説明をします。赤丸点は美濃路、赤丸の中黄色丸の所は現在も同じ、枇杷島橋の西詰地点、赤丸の中緑丸は美濃路と岩倉街道分岐点、緑丸点は岩倉街道、水色丸点の所は旧美濃路が通っていた辺りかと思います。写真の中に枇杷島大橋、枇杷島小橋も書き込みました。往時の美濃路は消滅してなくなっています。
            

   ↓ 中島撤去工事
   
 中島撤去工事の主な理由・・・もともとこの辺りは庄内川の狭窄部にあたり、中島が水害(庄内川堤氾濫決壊)の原因になっていた所。だが、中島は枇杷島橋には欠かせない所であり撤去はされなかった。ただ、当初は小さい島であったが、その後川浚いをした土砂で中島を大きくしている。中島は必要不可欠の島となっていたが、このことには疑問符が付けられている。今となってはなぜ大きくしたかの理由は分かっていないと思う。橋の架橋技術の向上で庄内川左岸より右岸まで一つの橋で架けることが可能になったため、狭窄部にあった中島を取り除くことが可能になったということが主な理由になります。
   ↓ 
中島撤去工事
   
   ↓ 中島撤去工事
   
   ↓ 中島撤去工事
    
 ◇◆◇中島こぼれ話・・・平成10年ごろの話になりますが、私の知る方(渡辺さん)で若いころ八百屋さんをやっておられた方(八百屋さんの奥さんで年齢は75歳ぐらい)から聞いた話です。御主人の仕事(八百屋)の集まりで中島にある店屋さんで会合がちょくちょくあり、会合からなかなか帰ってこられずという事が度々あったそうです。心配でたまらず迎えに行くといつも賭け事をされていたそうです。
中島の撤去工事は昭和22年頃より始まり昭和33年に完了したとされています。工期が長い感がしますが、途中戦争の為工期が延びたと聞いています。

   ↓「現在の枇杷島橋の渡り初め風景」
     昭和31年1月30日枇杷島橋完工式が行われた。
   

 
 ◇枇杷島橋は江戸時代の多くの画人(画著)に描かれていおり、名所地でもあり景勝地でもあったことが窺えます。図会等に描かれた枇杷島橋の絵を掲載します。     
  ↓ 「河大橋」絵 『張州雑志』より
  

  ↓ 「枇杷島橋」図絵  『尾張名所図会』より
  

  ↓ 「琵琶島川御冥加」図絵  『名陽見聞図会』より
  

  ↓ 「琵琶島橋」図会  『尾張名陽図会』より
  
  ↓ 「枇杷島」 『名区小景』より
  
  ↓ 枇杷島橋古図  『西春日井郡誌』より

  
  ↓ 「枇杷島橋風景」 『名古屋名所団扇絵集』より
  
    

  ↓「庄内川の花見」図会 『尾張名所図会』より
 庄内川堤の桜について・・・弘化2年(1845)尾張藩の命令により、庄内川の両堤に桜の木が植えられた。水防上堤防には竹以外は植えないのが原則だったが、桜が植えられたのは明らかに景観美の創造。今でいう美しい都市景観づくり、この桜を植樹してから春になると名古屋から多くの町人が来遊するようになったといわれる。文化人や風流人達の静遊は枇杷島の人々に大きな影響を与えたとされる。(この図絵には花見見物をする人達と、中島、枇杷島大橋、名古屋城が描き込まれている。)
  
 私自身は、往時の枇杷島橋は枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋を総称して枇杷島橋としていましたが、中島を撤去したことにより、枇杷島橋の歴史に終止符がうたれたと思います。

  ↓ 現在の枇杷島橋(2014年撮)
 現在の親柱は枇杷島橋架橋当時の親柱ではなく、歩道部分を拡幅した昭和41年に新たに設けられたもの。架橋当時の銘板は昭和41年に新たに設けられたもの。架橋当時の銘板は縦書きであったが、昭和41年新設の銘板は横書きとなる。
 2015年6月現在、現在の枇杷島橋も老朽化にて架け替えられる計画があり、そう遠くない時期にこの橋もなくなることになると思われる。
  
  ↓ 現在の枇杷島橋
  

  

    以上

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