美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

熱田宿よりについて

2016-10-17 | THE美濃路旅

                   熱田宿よりについて
  THE美濃路旅は熱田宿(裁断橋)より始め、垂井宿垂井追分(終点地)を目指す旅です。

 
 熱田宿といえば宮宿と呼ばれるほど熱田神宮との関わり深い門前町になります。熱田神宮(宿)を紹介します。  
  ↓ 熱田神宮本殿
  
 ◇熱田神宮には東西南北4か所に門がありました。東に春敲門、北に清雪門、西に鎮皇門、南には海蔵門(正門・南門)がありましたが、戦災(熱田空襲)により3か所の門が焼失。現在は開かずの門といわれていた清雪門のみが神宮境内に残る。
  ↓ 春敲門(東門・戦災で焼失)
  
  ↓ 鎮皇門(西門・戦災で焼失)
  

  ↓ 海蔵門(南正門・戦災で焼失)
  
  ↓ 清雪門「開かずの門」
 天智天皇の時代に熱田神宮を訪れた新羅の僧がこの「清雪門」より侵入し神剣を盗む。その計画は失敗に終わり熱田神宮に無事戻った。神剣は二度とこのような災難に遭わぬよう厳重に保管。このことがきっかけで清雪門は永遠に閉ざされることになったといわれる。熱田神宮境内に現存します。
  
  ↓ 二十五丁橋(下馬橋)  二十五丁橋後方に写っている門は海上門と思える。
  

  ↓ 美濃路図 
  
  ↓ 熱田宿概要(宿高等)
  
 ◇熱田宿について・・・熱田宿は
品川を第1宿とする東海道41番目の宿場であった。ここは熱田神宮を中心に古くから開けた町で、多くの参拝客を集めていたがため宮宿とも呼ばれていた。江戸時代には桑名宿への海上7里の渡し場であり、脇往還である美濃路や佐屋路への分岐点でもあったので、東海道随一の宿場を誇っていた。
 熱田宿は東海道の宿場というのは一般的な答えと思います。東海道は熱田宿より海路(七里の渡し)で桑名へ行く街道です。ただ、海路での航行は海難事故や自然災害、海荒れ、強風等々により足止めになるケースが多々あったようです。そのため、熱田宿を起点とする陸路の美濃路、佐屋街道が多くの人に利用されました。つまり、熱田宿は東海道の宿場というのは正しいと思いますが、熱田宿は美濃路、佐屋街道の宿場でもあったという事です。
 幕府の道中奉行が、天保期から安政期にかけて調査した『宿村大概帳』によれば、熱田宿は熱田神宮の神領地であったので宿高はなく、天保14年(1843)の調査による家数は2924軒、人口は1万342人であった。東海道53宿中人口が1万人を超えていたのは、大津(1万4892人)、府中(静岡・1万4071人)と熱田の3宿であり、家数が2000軒を超えていたのは、府中(3673軒)、大津(3650軒)熱田・桑名(2544軒)の4宿のみであった。旅籠屋の数に至っては248軒で第1位、これにつぐ桑名の120軒、岡崎の112軒を大きく引き離していた。これらの数値をみても熱田の宿場規模がいかに大きかったかを知ることができる。
 公用旅行者の休泊も多く、本陣2軒を擁していた。武家は常に軍旅にある気持ちでいるから、その主人のいるところはいつも本陣であるという意味から転じて、武家の主人の休泊する旅宿を本陣といった。本陣には勅使・院使・宮・門跡・公家・大名・旗本等が休泊するのを原則としていた。神戸町あった本陣は南部新五左衛門が、伝馬町にあった本陣は森田八郎右衛門がつとめ、ともに堂々たる構えであった。1宿2軒以上本陣がある場合は、それを区別するため通称を用いたが、熱田宿の場合、神戸町の本陣を赤本陣、伝馬町の本陣を白本陣と呼び、神戸町の赤本陣を正本陣としていた。また脇本陣は1軒となっているが、これも道中奉行が描き上げた『東海道分間延絵図』等によれば伝馬町の街道をはさんで両側に1軒ずつあったようである。そのほか脇本陣代も10余軒を数えた。宿内の東海道筋の町並は11町15間であったが、これは東の築出町方面から伝馬町を西へ進んで源太夫社へ突き当り、ここを南に折れて神戸町を経て渡船場までの町並をさしていた。美濃路の町並はこの源太夫社から北へ、25町17間余続いていた。
 ◇熱田宿界隈・・・熱田宿は東の築出町から伝馬町を通り、源太夫社前から南に折れて宮の渡しに出るまでの間である。裁断橋から伝馬町筋は道幅が3間4尺、源太夫社の前では6間強、その南へは4間3尺という。本陣は南部新五左衛門が経営した赤本陣と、伝馬町森田八郎右衛門の白本陣があった。規模は赤本陣が236坪、白本陣は178坪と記されている。脇本陣としては源太夫社の近くに1軒あったほか、脇本陣格の旅籠が13軒あったとされている。人馬問屋場はこの脇本陣東にあり、その向かいには御朱印改役所があった。尾張藩では熱田の地を支配するために奉行所を置くとともに、名古屋へは寄らず東海道を上下する貴顕を接待する目的で、熱田の浜に2つの御殿を築いていた。浜の常夜灯を守ってきた宝勝院の西側に熱田奉行所がありその南に西浜御殿があった。
 一方、京都に上がる将軍家光御宿泊のために神戸町を埋め立てて出島を築き、そこに造営したのが東浜御殿で、別名をお茶屋御殿とも言った。宮の奉行所に対して、船の出入りを取り締まった舟奉行所は西浜御殿の西側に置かれていた。慶長4年(1651)由井正雪の乱をきっかけにして夜間の渡船は禁止となった。このため時を報せる鐘が蔵福寺境内の鐘楼に下げられていた。承応年の水害で破損した時にはほぼ現在の位置に移して、管理を宝勝院に委ねた、現物は明治24年によそに移されその後失われたので、戦後地域の努力で今ある位置に再建された。現在はこれを中心に宮の渡し公園として整備されている。
 
  ↓ 熱田宿図 『尾張国絵図』より 元禄頃(1688~1704)
   
   ↓ 熱田宿 『大日本五道中図屏風』より
   
   ↓ 「東海道五拾三次之内 宮」絵  安藤広重画
     
  ↓ 熱田宿概略図
  
 ↓ 熱田宿概略図
 
 ↓ 熱田宿絵図 『東海道分間延絵図』より
 
 ◇『東海道分間延絵図 解説編』 右と左に2分割掲載
  ↓ 右部分絵図(熱田神宮辺り)
      
  ↓ 左部分絵図(熱田濱辺り)
  
    
  
↓ 熱田町図  明治24年測図(赤丸点は美濃路、青丸点は東海道)
  

 ◇美濃路の旅は熱田宿(裁断橋)より始める     
   ↓ 裁断橋址碑前辺りより撮る
 往時は裁断橋手前には精進川があり、精進川を渡ると熱田宿に入るという事でしたが、今は精進川はなく往時の面影は残っていません。
   
   ↓ 在りし日の裁断橋擬宝珠
   
   ↓ 裁断橋辺りの絵図  『東海道分間延絵図』より
   

   ↓ 裁断橋
    裁断橋絵を渡ると熱田宿という事になります。
   
 裁断橋、姥堂について・・・熱田宿の東を流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になる我が子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり再び橋の架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の遺志を継いで元和8年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られているかな文字の銘文、母が我が子を思う銘文とし、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。裁断橋は別名、「裁談橋」・「讃断橋」・「齊淡橋」・「三淡橋」などと書し俗に「御姥子橋」又はサンダガ橋とも呼ばれていたようです。
   ↓ 在りし日の裁断橋・姥堂
   
   ↓ 姥堂 裁断橋図絵 『尾張名所図会』より
   
   ↓ 在りし日の裁断橋
   

 ◇旧街道を進むと県道225号線に出る
   ↓ 旧東海道(伝馬町)東の町並撮る
   
  
 *ちょっと一服(こぼれ話)
 藩政時代、熱田は名古屋の領域ではなく、独自の町域を形成していた。熱田は古くから交通の要衝(宮宿)・魚市場・門前町として栄えており、こうしたことから、幕府は宝永5年(1708)、ここに、宿屋一軒に一人私娼を置くことを黙認した。それから熱田では、この私娼を「飯盛(女)」と呼び、当初は、旅籠で給仕をしながら私娼をつとめていた。この熱田の飯盛を、一躍有名にしたのが、築出(現伝馬町5・6丁目)にあった鶏飯屋「お亀」であった。鶏飯屋とはとうきびを煮た汁で飯を炊き、鶏飯もどきの飯を売る店のことだが、そこに「お亀」という接客上手な下女がいて、店がたいそう繁盛した。これを聞きつけた者が、類似の鶏飯屋を作り、これが次第に遊里化していった。それから寛政12年(1800)頃、熱田新田を開くにあたり、熱田の遊女を置くことにし、その呼び名が「オカメ」であった。俗謡に「宮の伝馬町に新長屋ができて、生きたお亀が袖を引く」とうたわれ、築出は、宮の宿の繁盛とともに華やかさをまし、享和年間(1801~1804)には駿河屋・永楽屋・鯛屋など20数軒の遊女屋が軒を連ねた。また、同じころ、「お亀買うやつ頭で知れる 油つけずの二つ折れ そいつはドイツじゃ ドイツじゃ」という流行語が生まれ、これに節をつけて歌われ始めた。そして「ドイツじゃ」がなまって「どどいつ節」が生まれたとされる。
   ↓ 熱田の遊女
   
   ↓ 前に進むと道路突き当りになります
 緑色線が東海道、赤線が美濃路、緑丸の中赤丸地点は東海道と美濃路の追分(分岐点)になります。道路突き当り地点には往時源太夫社が建っていました。
   
            
 現在突き当りに当たる場所は愛知県自動車警ら隊の場所となっています。昔ここに源太夫社(上知我麻神社)が建っていました。源太夫社前北側には高札場がありました。高札場は宿場の中心に建てられることが多く、高札の建っている通りを札の辻と呼んでいた。源太夫社(上知我麻神社)は現在熱田神宮境内に移され建っています。
   ↓ 「源太夫社」図会 『尾張名所図会』より
 図絵右の所に高札場が描かれている(赤丸印の所が高札場になります)。高札場の建っている通りは札の辻と呼ばれました。
   
   ↓ 在りし日の上知我麻神社(源太夫社)
 上知我麻神社は大黒天を併祀していたことから、正月の初ゑびすは賑わったといわれる。東海道と美濃路・佐屋街道の分岐点にあったが、戦後の都市計画道路の開設で邪魔になり、熱田神宮に移されたようです。
                  
   ↓ 明治期の上知我麻神社
   
   ↓ 源太夫社初市の絵  『尾張名所図会』より
     源太夫社は大黒天を併祀していたことから、正月の初ゑびすは賑わった。
   
 東海道と美濃路のT差路の突き当り場所を右へ曲がると美濃路へ、左に曲がると宮の渡しに行きます。私は熱田宿も見て回りたいと思い左に曲がりました。この場所、南東角には道標がありました。
   ↓ 源太夫社辺りの絵図  『東海道分間延絵図』より
   
   ↓ 源太夫社辺り図会  『東海道名所図会』より
   
   ↓ T差路南東角道標
   
 ◇南東角道標 寛政2年(1790)の道標の書き込み
  東 北 さやつしま 同みのちきそ 道
  西 東 江戸かいとう 北なこやきそ 道
  北 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社弐丁 道
  南 寛政弐庚戌年
   と刻まれていました
   ↓ 同場所からこれからの進行方向(南)に向かって撮る
    旧東海道は国道19号線に阻まれ直進できませんでした
   
 ◇上知我麻神社あたりから宮の渡し方向へ向かいましたが、またもや中央分離帯で通行止めにあい回り道して続きの道に来ました。
   ↓ 宮の宿赤本陣跡について書かれた立札
    (蓬莱軒本店のすぐ西に建てられていました)
   
     
   ↓ 「赤本陣」図会  『尾張名所図会附録』より
   
 ↓ 熱田宿御本陣南部新五左衛門宅絵図
 
   ↓ 宝勝院立札
   
 ◇宝勝院 ・・・宝勝院はもとは渡船場の近くにあったというが、洪水で流され現在の位置に移された。重要文化財の阿弥陀如来立像がある。熱田湊の常夜燈は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで宝勝院が管理していた。
 ここよりすぐ近くに西浜御殿跡。西浜御殿は承応3年(1654)尾張藩二代藩主徳川光友が造営したもので、東西36間(約65メートル)、南北は33間(約59メートル)に及ぶ豪壮なものであったといわれ、幕府高官や公家、大名の客館として使用されていた。正殿は安政年間(1854~60)成岩(ならわ)半田市常楽寺に移され、残る諸館も明治6年(1873)売却され跡形もない。門は現在春日井市中央公民館に残されている。ちなみに熱田の浜の浮世絵などに見える城郭のような建物は東浜御殿の一部で、初代藩主義直が造営したものである。
   ↓ 西浜御殿跡について書かれた立札
   
   ↓ 西浜御殿の門
   
   ↓ 熱田港辺り図  『東海道分間延絵図』より
   
   ↓ 熱田東浜御殿辺りの図  『熱田東濱御殿及舩場之図』より
   
 ↓ 熱田東浜御殿表門
 熱田にあった御殿の東隅櫓から撮影した写真。橋から奥に並んでいる片町の民家の様子や常夜灯が見える。東海道宮の渡しがある熱田には、寛永」11年(1634)に三代将軍家光上洛の際に造られた東浜御殿と、承応3年(1654)に設置された西浜御殿があった。とくに東浜御殿は、海上に造られて展望が優れており、尾張徳川家が街道を往来する諸大名や諸使節を応接するための迎賓館として利用された。
 
 ↓ 熱田神戸町・西浜御殿・浜鳥居・船手御用屋敷・船会所(パノラマ写真)
 熱田東浜御殿西隅櫓下あたりの海面上より、北(右)側から西(左)側を4枚のパノラマ写真に納めている。画面左側先が七里の渡しである。写真は船上より撮られたとみられ不揃いである。
 
 パンラマ写真 ① ↓
 
 
 パノラマ写真 ② ↓
 
 パノラマ写真 ③ ↓
 
 パノラマ写真 ④ ↓
 
 ↓ 在りし日の七里の渡し(宮)写真
 
   
↓ 熱田湊常夜灯についての書き込み立札
   

   ↓ 熱田湊常夜灯と七里の渡し碑
   
   ↓ 「七里渡船着」図会  『尾張名所図会』より
   
 ◇熱田渡船場について・・・熱田区神戸町、熱田神社の濱鳥居先の道の角に常夜燈がある辺りが宮の渡し場である。この渡し場の道路上に高札が建ち、船番所・船会所があった。会所の隣りは「尾州船手用屋敷」とあるが、これは舟奉行船屋敷という事である。この辺りは今でいうならば、渡し場業務を行う官庁街であった。河口に面した表通りは旅籠屋が軒を並べていた。
 ◇七里の渡しについて・・・『大概帳』によると、宮の渡しに常時75艘の渡船が置かれ輸送にあたったが、時に応じて増減もあり、大名などの渡海に際し船の不足する場合には、桑名や海辺の村々から借船しこれにあたった。通常「七里の渡し」といわれるが、干潮の際には沖を渡るので10里の遠乗りとなることがある。この干潮の際には海辺が干潟になるので、渡海の船は沖でまち、湊から沖の船までは小船で旅人や旅人の荷物を運ぶことになる。干潟になった場合のみ使う小船は42艘あったという。なお安政4年(1651)以後は、午後4時過ぎからは船は出さず、夜間の通行は禁止されていた。船役のものは360人で熱田船番所の支配下に置かれていた。この船役の船頭や水主を保護するため延宝3年(1675)に船方新田無年貢地として、この地の収益をもって助成費としていた。
 大名や武士、朱印状を持つ者の渡船は無賃であった。一般の人たちの乗合船の場合には宝永4年(1707)45文、文化のころには54文でおよそ4時間で桑名湊に到着した。この渡海路のほか宮から四日市へ10里の海上を渡る船もあったが、これは黙認という形で認められていた航路である。このあたりの海は埋め立てられ、今は市中で工場や住宅地になっている。
 ◇熱田湊で渡しが始まった時期について・・・熱田湊で東海道53次として渡しが始まったのは元和2年(1616)といわれ、湊は熱田奉行が舟奉行を兼ねて管理し、その配下に船番所があった。その船番所の隣に船会所が置かれていた。ここは旅人や荷物の継走を扱う場所で、船年寄以下船会所役人が務め、湊には干潮時にこの船着場まで入れない場合に備えて、旅人を運ぶ小渡船も用意されていた。桑名までの所要時間は4時間といわれたが、干潮時には沖を渡るので10里の距離となりそれだけ時間もかかった。熱田宿の問屋場は伝馬町にあり、この宿場は海路と陸路の両方があったため、問屋場も両方必要であった。海路の問屋場に当たるのが船会所であった。
   ↓ 浜鳥居辺りの写真 明治6年
   
      
 ◇熱田魚市場
 熱田魚市場について・・・東海道「宮の宿」に栄えた魚市場。天正年間(1573~)には魚問屋があり、織田信長の居城清洲にも日々魚介類を運んだといわれる。寛永年間(1624~)尾張藩政のもとに木之逸、大瀬子に四戸ずつ問屋ができ市場が開設された。以来藩の保護により、近海は勿論遠国からも魚介類が運び込まれ、毎日取引が行われていた。
   ↓ 魚市場一景
   

   ↓ 「熱田の濱夕上り魚市」絵  『尾張名所図会』より
    魚市の絵としていますが、このあたりを描いた絵でしょうか。
   
 
   
↓ 在りし日の熱田海岸 
   

 ↓ 七里の渡し・東海道中図
 七里の渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路で、その距離が七里(27.5km)であったことから、そう名付けられた。この海上ルートは、東海道の宿駅制度(制定は1616年頃といわれている)が設けられる以前、すでに鎌倉・室町時代から利用されており、古くから東西を結ぶ重要な交通インフラであった。もっと古くは、壬申の乱の際に、吉野から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)の一族が桑名から海路、尾張に渡ったという説もあるようです。
 
 ↓ 熱田海岸図(江戸期)  
 享保14年(1729)~元文3年(1738) 『名古屋城下復元図』より
 江戸期熱田海岸図から見とれることは、熱田七里の渡しは伊勢湾と直接通じており、桑名へは船で直行できたと見てとれる。
 

 ↓ 熱田海岸図(明治期)  明治40年(1907) 『名古屋復元図』より 
 江戸期の熱田海岸図をみると、七里の渡しから伊勢湾に簡単に出ることができましたが、明治期になると、宿駅制度廃止により熱田宿が必要がなくなり、伊勢湾が熱田宿の南方の方まで埋め立てられたという事でしょうか。干拓などで海岸線が変化するたびに七里の渡しの航路も変わり江戸期の熱田宿海岸図と明治期の熱田海岸図を比較すると違いが一目瞭然でわかると思います。

 



   続きの書き込みは 起点地よりについて Ⅰ とします。

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