美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

垂井宿よりについて Ⅰ・垂井宿の旅

2016-10-17 | 垂井宿の旅

                垂井宿よりについて Ⅰ・垂井宿の旅 
               

 ◇垂井宿・・・垂井宿高704石9斗8升。宿は日向国延岡の牧野貞通の領地から寛延3年(1750)再び幕領となり、享和4年(1804)から幕末まで大垣藩領所となった。寛政13年(1801)当時は多羅尾四朗次郎が代官として治めた幕府直領で宿の町並は6町あり328軒、1239人の戸口を数えた。町は東町・中町・西町に分かれていたが中心は中町で宿内には酒屋・茶屋・塩屋・塩肴屋などの商家や木挽・大工・野鍛冶・傘張などの職人もいた。また、六斎市も開かれていた。問屋場は3か所あり、3日交代で勤めた。天保14年(1843)には旅籠屋も27軒あった。宿の人々は農耕の他、往還かせぎをしたり、旅籠屋・茶屋を営み夏蚕も少し飼っていた。宿町の左手は田畑、右手は相川であった。現在は垂井町垂井。 美濃路の熱田宿から終点地、垂井宿垂井追分まで美濃路の旅をしてきました。せっかくここまで来れたので 垂井宿の旅することとしました。『中山道分間延絵図』をみると垂井追分より垂井宿の旅は始まり、中洲のあった相川(橋)を渡り垂井宿に入って行くことになるようです。
 ↓ 垂井宿概略図
 

 ↓ 垂井宿絵図 『中山道分間延絵図』より
 『中山道分間延絵図』は寛政年間(1789~1801)に着手、文化3年に完成した絵図とされています。
   
     ↓ 『中山道分間延絵図 解説篇』の書き込み
 美濃路、継父川橋・相川橋について書かれています。美濃路の終点地は美濃路と中山道の合一した垂井追分と記載されている。
    
 
     ↓「木曽街道六十九次之内 垂井」 廣重画(垂井宿西の見付より描かれた)
      
 ↓「木曽街道六十九次之内 垂井」絵に描かれているものみる
 
   ↓ 相川橋辺りの絵図  『中山道分間延絵図』より
   

 ≫
中山道と美濃街道の追分、垂井追分より垂井宿内に入っていくことになります。
   ↓ 明治時代の垂井町地図  明治24年測図26年製版
   
   ↓ 大正時代の垂井町地図  大正13年印刷発行
   

     ↓ 相川橋
 『中山道分間延絵図』を見ると相川川中には島があり、川には土橋が架かっていた。ただ、当時の川筋と現在の川筋は大きく異なっているのが見てとれます。
     

     ↓ 垂井宿内へ
     

     ↓ 相川の人足渡跡立札・相川の人足渡跡について書かれた立札
     
     ↓ 東の見付について書かれた立札
 東の見付の立て札書き込みには、「見付は宿場の入口に置かれ」と記されていますが、「大垣宿より Ⅱ・美濃路の旅」の所で書き込みをした美濃路と中山道の追分、垂井追分も垂井宿に含まれるのではないでしょうか。よって、垂井宿の入口は東の見付が入口ではなく、垂井宿垂井追分辺りからになるという事になるのではと思います。
       
        

     ↓ 中山道垂井宿東の見付より相川橋方向撮る
     

     ↓ 垂井宿道標
     
 旅籠屋亀丸屋について・・・安永年(1777)に建てられた旅籠屋で浪花講・文明講の指定もあり、県内の中山道で江戸時代から続けられている2軒の中の1軒。2階南側の格子、離れの上段の間、廊下の鴬張り等が残っている。
     ↓ 旅籠亀丸屋について書かれた立札
     

     ↓ 旅籠亀丸屋
     
     ↓ 旅籠亀丸屋玄関
                     
     ↓ 旅籠亀丸屋間取図(昭和43年)
     
     ↓ 愛宕神社(東町愛宕神社)
     

 垂井宿は、宝暦5年(1755)の大火をはじめ、度々の大火が起こった。寛政年間(1789~1800)には西・中・東町内それぞれ火防の神(愛宕神社)を懇請して祀った。
 垂井宿に火防のために設けられた井戸
     
 垂井では垂井曳(やま)祭が催されています。
 垂井曳祭の由来・・・垂井曳祭の起源は古く、南北朝時代の文和2年(1353)北朝の御光厳天皇が京から難を逃れて垂井の長者を頼ってこられた時、京の祇園社の牛頭天王を勘請し天皇の安全祈祷を行ったのをあわせて、里人が花車3台を造って曳き廻しお慰めしたのが始まりとしている。その後江戸時代の安永年間(1772~1778)に舞台を造り五穀豊穣の年には豊年祭として曳き出し、子供の能狂言を演じるようになった。さらに文化・文政年間(1804~1829)になると次第に演劇化しを改造し芸術性を高めた。
 現在垂井のは美術工芸の粋を集めたもので「動く陽明門」ともいえる。精緻で優美なもので垂井町無形民俗文化財の子供歌舞伎が華麗に演じられ、その絵姿は時代を超える感動を与えているといわれる。
 と山車について・・・垂井町、大垣辺りでは「」という名称がついていますが、名古屋地方では「山車(だし)」と呼ばれています。形はそれぞれ工夫を凝らし同様ではありませんが、様式は同様で呼称が地域により異なるだけと思われます。
 ↓ 東町の(鳳凰山)について書かれた掲示板
 
     ↓「虎」 鳳凰山佐久間頼峰の襖絵
     
     ↓「軍鶏」 鳳凰山大橋翠石の襖絵
     
 ↓ 中町の(紫雲閣)について書かれた掲示板

 
     ↓ 攀鱗閣見送り
     
 ↓ 西町の(攀鱗閣)について書かれた掲示板
 
 ≫2014年5月2日の垂井曳やま祭にて撮った写真を掲載します。
     ↓ 平成26年 垂井曳まつりポスター
     
     ↓ 東町の(鳳凰山)と西町の倉撮る
       倉は東町、中町にも建てられている。
     
     ↓ 東町の鳳凰山後姿(精緻で優美な造りがみてとれる)
     
     ↓ 中町の(紫雲閣)と垂井の泉撮る・
      
     ↓ 中町の・紫雲閣(南宮大社の鳥居とともに撮る)
       
     ↓ 中町の・紫雲閣(南宮大社の鳥居とともに撮る)
     
     ↓ 
中町の・紫雲閣
      
     ↓ 西町の・攀鱗閣
      
     ↓ 西町の・攀鱗閣
      
     ↓ 在りし日の垂井の
             
 
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎
     
     ↓ 子供歌舞伎役者
     
     ↓ 子供歌舞伎役者
     
 ◇2014年5月2日(試楽)に撮った垂井曳まつりの写真を少し掲載しました。垂井曳祭についての感想は、垂井宿が宿の役目を担っていた頃は、当然垂井宿が代名詞となっていたと思いますが、宿の役目を終えた現在では、垂井宿といえば垂井曳祭が代名詞となっているように思いました。現在旧垂井宿内に住んでおられる方達の、垂井曳祭にかける情熱には圧倒された!!!というのが率直な感想です。
  ↓ 祭礼と共に歌舞伎が行われた年と演題
  
     ↓ 問屋場跡・・・元問屋場であった場所
     

     ↓ 垂井宿問屋場兼岩家 昭和59年4月
     

     ↓ 問屋場・問屋場の様子を描いた絵(江戸庶民風俗絵典より)
     

 垂井宿問屋場について・・・伝馬所ともいう。人馬によって運送する荷物すべてを取り扱う場所で、助郷役の割賦なども行っていた。したがってここは宿場の中心地でもあった。この宿場が中央に1カ所の所と、2ヵ所の所、関ケ原のように7カ所の所もあった。垂井宿は寛政13年(1801)には問屋場があり賑わった。この問屋役は多くは長百姓(おさ百姓、おとな百姓ともいい、庄屋の補佐役の組頭・年寄と同等)で庄屋を兼ねていた。つまり富裕な者がなり世襲するものが多かった。例えば金岩家(中町扇屋)のように代々問屋場というほど問屋と庄屋をつとめ、弥一右衛門を襲名していた。

  中山道垂井宿本陣跡について・・・本陣は宿場ごとに置かれた大名や公家などの重要な人物の宿泊施設。ここは中山道垂井宿本陣があった所で、寛政12年(1800)の記録によると、建物の坪数は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものだった。垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいた。本陣の建物は安永9年(1780)に焼失したが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用された。
      ↓ 中山道垂井宿本陣跡の碑
      
     ↓ 垂井宿本陣間取図
     
         ↓ 本陣宿札
     
     ↓ 垂井宿本陣門(平林荘の門)
 『垂井町史』によれば、平林荘の門は垂井本陣の門としているが、大垣城の7口の門の一つを移築したという説もあるようです。
                         
     ↓ 垂井宿本陣宿札 「越前少将宿」と書かれています
          
 垂井宿本陣宿札について・・・参勤交代の大名などの高貴な人の宿泊には、まず本陣へ前触れして、ほかの大名とかち合いを避けるため、本陣の前に掲げた。この宿札は福井藩松平重昌、重富の際使用されたもの。長さ3尺5・6寸(約1メートル)幅1尺(約30センチメートル)の板で、これを1丈5・6尺(約4・5メートル)もある竹の先につけ建てることになっていた。今から200年前余り前のもので本陣だった栗田家に残されていたものである。この宿札は普段使わない時は高い棚にしまって、灯明やお神酒を供え、その大名の身代わりとして大切に保存していた。大名がいよいよ泊まられる日になると、玄関に定紋付の幕張、大名到達の先触れがあると本陣の主人は町の入口(見付)へ迎え出た。
 大名等で布衣以上(将軍に謁見できる資格を持つ者)の時には自ら出迎えすることになっていたが、普通の侍の場合は手代が出迎え、見付から行列に先導して本陣の上段の間へと案内した。江戸初期には大名道中には宿泊用の布団、膳椀から風呂などすべて大名の家臣が携帯した。従って本陣への支払は座敷料と心付けだけであった。しかし、幕末になるに従いこれらの諸道具は本陣で準備するようになり、家臣の携帯物は少なくなった。
 この書き込みは往時の大名行列の様が読み取れ興味深い書き込みと思います。大名を迎えるには相当の気遣いがあったことが窺える。宿札の掲げ方はそれぞれの宿場本陣、脇本陣で異なっていたと思われるが、大名同士の宿のかち合いを防ぐために細心の注意を払っていたと思われる。
   ◇南宮大社大鳥居
     ↓ 南宮大社大鳥居について書かれた立札
     
     ↓ 南宮大社(中山金山彦大神)一の鳥居
     
 ここから街道を離れ南宮大社まで行ってきました
     ↓ 南宮大社二の鳥居
     
     ↓ 南宮大社楼門右・左祓殿         
     
     ↓ 南宮大社楼門と石輪橋
     
     ↓ 南宮大社舞殿
     
     ↓ 南宮大社
拝殿
     
  ↓ 南宮大社境内案内図
  
  ↓ 南宮大社図
  
  ↓ 南宮大社図会 『木曽路名所図会』より(3ページを1枚)
  
  ↓ 南宮大社図
  
     ↓ 在りし日の南宮大社
     
     ↓ 在りし日の南宮大社初詣一景
     
 

  続きの書き込みは 垂井宿よりについて Ⅱ・垂井宿の旅
 としています。

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