美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

昔の下小田井市場

2016-10-17 | 美濃路

                                 昔の下小田井市場
   今はなき下小田井市場。江戸・明治・大正・昭和の下小田井市場へタイムスリップ。
                     昔の下小田井市場へ
 
 下小田井市場について・・・下小田井市場は下小田井村(現清須市西枇杷島町・名古屋市外西部)の中、美濃路沿ってありました。下小田井市場の昔を顧みることとしました。
 美濃路にあって、宿場にもあたらない場所ですが、市場という貴重な財産があり発展した町です。また、市場の他、枇杷島橋も往時にあっては景観豊かな景勝地・名所地であった事も知ることになりました。ただ、残念なことに、現在はそのような町であった事を知り得る物も少なく、ますます往時から美濃路が遠くなっていく印象を持っています。ごく一部の町民(主に高齢者)が知るのみといったことになっていると思います。私自身も往時の下小田井市場について把握していることはごく僅かですが、少しでもと思い、ここに昔の下小田井市場について書き込むこととしました。

 ◇西枇杷島町問屋記念館 
 ↓ 問屋記念館ついて書かれた掲示板書き込み
 
     ↓ 問屋記念館(旧山田九左衛門家の住居)
     

 上の問屋記念館掲示板の書き込みの一つ
 一、言い伝えによれば、山田家の先祖九左衛門は慶長19年(1614)の大阪冬の陣のおり、徳川家康が当地の庄内川を渡河する際、市兵衛とともにその世話をして功をなし問屋業を始めたといわれる。後にそこに橋が架けられると、元和8年(1622)九左衛門は市兵衛とともに「御橋守掃除給」として一反四畝(1388平方メートル)余りの「永代除地(永代免税地)」を賜っている。

 下小田井(枇杷島)市場について・・・下小田井村(現清須市西枇杷島町)には江戸時代美濃路筋に市場ができ、繁栄を極めた地になります。少し下小田井市場についての書き込みをしたいと思います。それは上の問屋記念館掲示板の書き込みにあるように、下小田井村は徳川家康が天下を取ったのち、家康が庄内川を渡河する際、その渡河に際して功績が認められた野口市兵衛、山田九左衛門の両名に家康が市場を開くよう命じた地になります。家康はこの地は肥沃で名古屋の人々への食糧確保には下小田井近隣の土地が野菜作りに適していると判断したことが下小田井市場開設の理由になります。市場は当初は下小田井市場といわれ、明治期になって東枇杷島にも市場ができ、枇杷島市場と名称が変えられた。昭和中頃(開設300年ほど)まで大変賑わった所です。往時は江戸の神田、大阪の天満とともに、日本三大青果市場の一つといわれるほどでした。その下小田井市場の繁栄の理由には主に4つほどの理由があると思います。

 一、として・・・徳川家康が豊臣との戦い、関ケ原の合戦で勝利したことです。徳川家康はそれまで尾張の中心であった清洲城下から名古屋の高台に城下を移した。名古屋城を造り、「清洲越」を行い清須の町ごと名古屋へ移すという大事業を行った。当然食糧確保は喫緊の重要な課題であった。
 二、として・・・家康が庄内川を渡河の際、下小田井村近隣の地が肥沃で農産物を作るに適する地と見込んだことが上げられます。名古屋の人への食糧確保の地として市場を作らせ、それに農民が応えるように農産物を作り市場へ運んだ。市場は家康の読み通り繁栄し、市場の地であった下小田井村(現清須市西枇杷島町)が恩恵を受けた。

    三、として・・・庄内川に橋が架けれたということでしょうか。当時の架橋技術では庄内川のような大きな川に、右岸から左岸まで一つの橋で架けるという技術はなかった。ここの庄内川の地には川中に中島があり、中島を橋の橋台として利用でき橋を架けることが可能であった。橋が架けられたことにより物流がスムーズになり、名古屋の地へ早く野菜等を運ぶことが可能だったということです。この橋は枇杷島橋と名前がついていますが、枇杷島橋は枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋を総称して枇杷島橋といいます。枇杷島大橋は東枇杷島の管轄橋、中島、枇杷島小橋は西枇杷島の管轄橋となっていました。
 四、として・・・岩倉街道が作られたということでしょうか。岩倉街道が出来上がった時期ははっきり確定することは難しいですが、『尾張徇行記』から読み取るに寛文年(1661~1672)あたりでないかと思われる。街道は人が通行するに必要ということで作られることが多いと思いますが、岩倉街道の場合は街道沿いの人達が人足を出し合って作られた街道。当然人の通行にも利用されましたが、藩主導で作られた街道ではなく、農民が農産物を運ぶに必要不可欠という理由で作られた街道であると思います。「農民街道」ともいえる街道ではないでしょうか。下小田井市場が発展するとともに需要が高まり、市場へ野菜等を運んだ地域は、市場近隣の農家は勿論のこと、岩倉街道を利用して遠くは岩倉、布袋、江南方面からも下小田井市場へ野菜が運び込まれた。
 岩倉街道では一時期、多くの馬が野菜等の運搬に盛んに使われていたため、馬の健康、馬への感謝などを祈願し、馬頭観音が祀られている。
     ↓ 岩倉街道馬頭観音
              

  以上が私が出した答えです。名古屋の人への食糧確保の地として家康が命じたことは、市場の発展が示すがごとく証明された。明治期になると市場は東枇杷島にも広がり市場の名称も枇杷島市場と呼ばれるようになった。繁栄を極めていた時代の枇杷島市場は、日本三大青果市場の一つと呼ばれていた。
     ↓ 下小田井市場・東枇杷島市場絵図  『美濃路見取絵図』参考
     
 市場の詳細な範囲は私自身把握していません。おおよその場所を記しました。また、枇杷島橋は、枇杷島大橋・中島・枇杷島小橋を総称した名称。枇杷島小橋・中島は下小田井村の管轄橋でした。枇杷島橋が架けられた当初は、橋守がいて車での通行を許されていませんでした。明治期の資料を見ると、枇杷島橋も市場として利用されたと理解しています。
  ↓ 下小田井(西枇杷島町)、枇杷島町地図  明治26年
  
  ↓ 昭和初期枇杷島市場問屋配置図
 この配置図の枇杷島橋は江戸期に架けられた橋の位置とは異なっています。私が思う理由の一つに、明治期になると車(大八車・リヤカー)で荷物を運ぶようになったため。庄内川の坂が急坂であったため上るに困難であったと思われます(特に東枇杷島側)。枇杷島橋を少し庄内川下流に架けられました。
           

 これより先は美濃路沿いにあった下小田井(枇杷島)市場の写真、図絵等を掲載します。
     ↓ 枇杷島市場(東枇杷島側)
     
 ↓ 枇杷島市場
  絵の中に書き込みがあり、問屋(山田)九左衛門家宅(現問屋記念館)
 
 ≫枇杷島市場の写真を掲載します
     ↓ 枇杷島市場     
         
  
     
     ↓ 枇杷島市場 中島より西方望む
     

     ↓ 枇杷島市場(この道は美濃路ではない可能性大)
     
     ↓ 枇杷島市場
     
     ↓ 枇杷島市場
     
     ↓ 枇杷島市場
     

     ↓ 枇杷島市場(売買風景)
     
     ↓ 枇杷島小橋から問屋町望む写真
     
     ↓ 写真左に橋詰神社の大きな樹木があります。まだ県道が作られていない時代に撮られています。
     
     ↓ 枇杷島小橋から問屋町望む写真
     
     ↓ 明治43年当時の問屋町界隈の市場風景
     
     ↓ 問屋町一景
     
     ↓ 大八車絵
 往時、市場へ行くには人力であったが、その後、馬、大八車、馬車、リヤカーと変化していった。
     
 大八車にはゴムタイヤなどついておらず、岩倉街道沿いに新しく嫁いだ嫁たちは、早朝からの大八車の通る音がやかましく、音の大きさで夜眠れなかったほどといわれる。その後ゴムタイヤがついたリヤカーが普及し、街道は静かになったといわれる。
   ↓ 定札(問屋記念館 蔵)
   

   ↓ 定 書き込み内容
   

     ↓ 枇杷島市場規定の木札について
      
 ↓ 枇杷島市場規定木札         
 
 ↓ 枇杷島市場規定 書き込み内容
  

   ↓ 問屋株仲間誓書(問屋記念館 蔵)
   

     ↓ 江戸末期の下小田井の市 絵
     

     ↓ 「青物市」図会  『尾張名所図会』より
     
 下小田井市場の当初は近隣町村であったが、集荷県は次第に拡大し、文化年間(1804~17)の調べでは、終りを含め24カ国に及び、取扱い品目も蔬菜などの農産物にとどまらず、海産物・薪炭・綿・茶・素麺・干瓢などの多種類にわたり、城下町名古屋の台所を担う大市場になった。『尾張名所図会』は、その繁盛ぶりを次のように書いている。
  凡一年中の朝ごとに位置をなし、四時の菜蔬干物まで、新を争い奇を競日、当国の名産はいふもさらなり。・・・〈中略〉・・・美濃・三河・伊勢・駿河・京・大坂の産物まで
こゝに湊ひて、あらゆる万物朝ごとに山をなせるも、・・・〈中略〉・・・買い出しの商
人蟻のごとく集まり、暫時に荷ひ出し、また馬車にも積みて、府下を初め、隣国、近国・
三都までに運送する。実に府下繁盛の余沢にして、一大盛時といふべし。
 下小田井市場の特色は、仲買制を認めていなかった。市場での取引は、荷主と買主の相対売買が原則で、買主は八百屋やその他の商人に限られておらず、素人即ち直接の消費者でもよかった。この原則は江戸時代を通じて変わらなかった。また、市場問屋といっても、売主と買主の取引の場所提供者であるか、「セリ売買」の仲介者に過ぎなかったから、問屋ー仲買ー小売ー消費者という系列化はなかった。
 幕府は天保改革で株仲間の解散を命じたが、その影響で天保13年(1842)下小田井市場の株仲間も解散した。しかし、3年後の弘化2年(1845)には「青物売買会所」の名称で株仲間として実質を取り戻し、さらに安政4年(1857)には問屋の名称も復活した。明治以後組織も名称もたびたび変更されたが、長い伝統に支えられて、市場は常に活況を呈し続けた。昭和30年(1955)に至って、330余年の歴史に幕が下ろされ、名古屋市西区上更通りにに移された。
     ↓ 市場の帳場を再現展示(問屋記念館)
     

 下小田井(枇杷島)市場の隆盛について・・・世情が安定すると経済が活発になる。名古屋城下の米、野菜などを賄ったのが下小田井の市場である。名古屋城完成とともに始まる。市場が開設された時期について明確な記録はない模様。一説に慶長19年家康上洛のおり庄内川を渡ろうとした時、庄内川の川原に多数の人が集まり、農民が持ってきた青果物をめぐり名古屋の買い手と農民が値段の競り合いで口論していたとか、これを聞いた家康は今後ここに青果物市場を設け、青果物に対して渡守(市兵衛と久左衛門両名)が公正な価格をつけよ、この渡守が付けた値段には売り手も買い手も断じて不平をつけてはならぬと命じたといわれた。市場の開設が家康と結びついていたから枇杷島の市場は発展したといわれる。市場の集荷県は近郊ばかりではなく、三河、伊勢、美濃、飛騨、信濃、近江、越前、遠くは武蔵(東京)、摂津(大坂)、紀伊(和歌山)などからも青果物、海産物など食料品が出荷されたといわれる。30を超える問屋が建ち並び大変賑わいを見せていた。下小田井市場は発展をつづけ、江戸の神田、大阪の天満と並ぶ日本三大青果市場の一つとして栄えた。
 この書き込みの中、下小田井市場開設の経緯には諸説あり明確ではないと思いますが、その他の書き込みについては、往時の下小田井(枇杷島)市場の状況が書き込まれていると思われます。昭和30年市場が手狭になったため名古屋市西区に移設された。
 これをもって下小田井(枇杷島)市場は閉じられることになり、今では往時の繁栄の面影はない。往時の下小田井(枇杷島)市場をしのぶものとしてあげられるのは、お祭りの山車ということでしょうか。西枇杷島町には5輌の山車があります。この山車は市場が繁栄した証として、現在も毎年西枇杷島まつりに曳き出され多くの人に親しまれ保存されています。
 
 西枇杷島祭の写真を撮りました。この祭は美濃路通りを主体に行われ「美濃路西枇杷島祭」と
いってもよいかと思うほどです。
     ↓ 西枇杷島まつり
                 

     ↓ 西枇杷島町まつり一景
      
     ↓ 西枇杷島町まつり
     
     ↓ 西枇杷島まつり
     
     ↓ 西枇杷島町まつり
        
      ↓ 「枇杷島祭礼」 『名古屋名所団扇絵集』より
 この絵の中に西六軒町(西枇杷島町の町名)の書き込みあり、西枇杷島町の祭を描いたものと思います。
              

 
    以上です。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« THE美濃路祭集  | トップ | 昔の枇杷島橋について »