美濃路・THE美濃路

美濃路・THE美濃路は美濃路の旅、祭、図書館での資料等々をまとめた美濃路総集編ブログです。
 


    

清須宿よりについて Ⅱ

2016-10-17 | THE美濃路旅

                                      清須宿よりについて Ⅱ

 
 ◇清洲公園からの書き込みとします
     ↓ 織田信長像
           
 清洲城について・・・応永12年(1405)尾張・東江・越前守護の斯波義重によって築城、当初は尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476)に守護代織田家の内紛ににより下津城が焼失し、文明10年(1478)に守護所(清洲に移転することで尾張国)の中心地となった。一時期(織田弾忠家)の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護織田家の本城として機能した。織田信秀が、古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555)織田信長と結んだ、織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を終えた後に本拠として入城した。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟が結ばれた(清須同盟)。
 永禄6年(1563)には美濃国斎藤氏との戦いに備えて小牧山城に移り、以後は番城になった。天正10年(1582)の本能寺の変で信長がたおれると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男織田信雄によって二重の堀の申請、大天守、小天守、書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄がさからい除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595)には福島正則の居城となった。
 慶長5年(1600)関ケ原戦いの折には、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、関ケ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607)には家康の九男義直が入城し、清洲藩の拠点となった。慶長14年(1609)徳川家康によって、清須から名古屋へ遷府が指令されると、慶長15年(1610)より清洲城下町は名古屋城下に移転され「清須越」が行われた。清洲城も名古屋城築城の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西隅櫓は清洲城天守の資材を転用して造られたため「清洲櫓」とも呼ばれる。慶長18年名古屋城完成と城下移転したことにより廃城となる。

 この書き込みから、清洲城に居城した主の多さに驚きました。私自身初めて知ることが多く書き込まれており少し面喰いましたが、この度の書き込みで楽しい勉強をさせてもらった思いです。
 JR東海道線南側には清州公園があり、北側は清洲古城趾になります。この場所には3つの碑が建てられています。
     ↓ 清洲古城趾の碑
     

     ↓ 「清洲城趾」図会  『尾張名所図会』より
       清洲城は名古屋城築城の資材として使用されている
     
     ↓ 清洲城跡
     
     ↓ 右大臣織田信長公古城跡
     
 ↓ 清洲城跡碑
 
   ↓ 清洲城
 清洲古城趾の東には五条川が流れており、その東に再建されて建てられた清洲城。現在の清洲城は往時の清洲城を復元して建てられたものではなく創作城である。現在は「ふれあい郷土館」として利用されているが、歴史的価値観にはいささかの疑問があります。往時の清洲城は現在の名古屋城西北隅櫓を造る資材として使われたとされています。現在の清州城の感想を述べるとすれば、創作城(模擬天守)で城の形をした建物ということでしょうか。城としてしての味わいは無味です。
      
   ↓ 清洲町~稲沢町への地図  明治24年測図・26年製版  
 赤丸点は美濃路、青丸点は岐阜街道、赤丸の中青丸の所は美濃路・岐阜街道追分(分岐点)になります。
        
 美濃路を進む。この辺りより清須宿を出てる感じがしますが判断しかねています。美濃路左角にあった御堂(御堂の名称は分からず、墓なのか碑なのか分からないものが結構な数たてられていました)。
     ↓ 御堂
     

 ここから少し美濃路を離れて御園神明社をみに行きました

     ↓ 御園神明社
 清洲三社の一つ、『尾張地名考』には御園神社は清洲の内宮と記されている。清洲城下町の頃には門前で御園市が開かれていた。江戸時代には中島宮とも呼ばれていた。
     

     ↓ 御園神明社拝殿前
     
     ↓ 御園神明社拝殿
     

     ↓ 「中島宮(御園神明社)」図絵 『尾張名所図会』より
 御園神明社は江戸時代の頃中島宮と呼ばれていました。この図絵には「中島宮」と書かかれており、御園神明社を描いた図絵と理解しました。
     

 御園神明社より美濃路に戻りました

     ↓ 少し進むこと左側に本成寺
     
     ↓ 本成寺山門
     
     ↓ 本成寺本堂と鐘楼
     

     ↓ 次には光遠寺
     
     ↓ 光遠寺本堂
     
     ↓ 総見院撮る
  ここはもともと織田信勝が父の菩提を弔うために建立した。清洲越で名古屋へ移転したが、その後正保元年(1644)現在の総見院が建立された。
     
        ↓ 総見院本堂
     

 前に進み亀翁寺(この辺り清須市を過ぎ稲沢市に入っていると思われる。)
     ↓ 亀翁寺について書かれた立札
     
     ↓ 亀翁寺
     
   ◆1図 美濃路の旅に使用した参考地図  
    ⑪=四ツ家追分道標、⑫=長光寺六角堂、⑮=北市場美濃路公園、赤線=美濃路
     
     ◆2図 美濃路ウオーキングマップ(平成21年稲沢市観光協会発行)
    ⑩=長光寺、⑫=北市場美濃路公園、⑬=立部神社   赤線=美濃路
     
 ⑫北市場美濃路公園を通るとき、◆1図を参考に旅をしましたが、後に稲沢市観光協会発行の美濃路ウオーキングマップを見て間違いに気づきました。◆2図に記しましたが⑬立部神社すぐ西の通りが美濃路であることがわかりました。◆1図と◆2図を比較して見て頂ければ理解可能と思います。当初私が通った通りは青い点線部分です。

     ↓ 立部社(立部社では毎年「こがし祭」が催される)
     
     ↓ 立部社社殿
     
 立部社ではこがし祭が行われています。
  ↓ 紙面に紹介掲載されたこがし祭り
  
 地元の方に話を聞くと、昔この山車が2台止まっている通りは美濃街道といわれました。早速稲沢市に問い合わせをしました。結果は地元の人が言われたことが正解でこの通りは美濃街道でした。
     ↓ 祭の日の立部社
     
     ↓ 山車曳
     
     ↓ 宵の山車  
     
     ↓ 宵の山車  宵の山車曳き往路は美濃路を通って清須市の境まで行き、帰路はそのまま山車を反対に曳き立部社に戻る。
     
 つづいて美濃路左側に北市場美濃路公園。最近造られたんでしょうか新しい感じの公園でした。公園名に美濃路の名前が付けられていますが、なんとなく美濃路の文字を見ると嬉しい感じになります。
     ↓ 北市場美濃路公園
     

     ↓ 公園前より美濃街道前方(町並)撮る
 美濃路は、天正年間に
織田信雄が幅5間(約9メートル)の道路に改修させたのが始まりといわれる。
     

 公園を過ぎ次にであった寺は長光寺。長光寺六角堂の通称で親しまれている長光寺は、興化山と号し、臨済宗妙心寺派に属する寺院。尾張六地蔵の一つで、地蔵堂が六角の円堂であるので、六角堂の通称も生まれ、地名の由来ともなった。多角形の円堂としては、斑鳩法隆寺の夢殿、奈良興福寺の北円堂・南円堂、五条市の本堂が八角堂として名高く、六角堂としては京都頂法寺の本堂が有名であるが、地方では珍しいとされる。長光寺は平頼盛の寄進によって創建され、門前には岐阜街道の分岐点に建っていた道標が移され置かれている。山門には仁王像二体立っていました。ここにて撮った写真掲載します。
     ↓ 長光寺書き込み立札
     
     ↓ 長光寺
     
     ↓ 
長光寺前に岐阜街道道標が置かれている
     

     ↓ 長光寺仁王門(楼門)
     
     ↓ 左側仁王像
 不透明なプラ板でカバーがしてあり、はっきり見えませんでしたので下の隙間から撮りました。
     

     ↓ 六角地蔵堂
         
     ↓ 臥松水の碑
 臥松水とは井戸水の名称で、織田信長がこの井戸水を愛飲したといわれる。清洲城や岐阜城まで取り寄せたと伝えられている。
     
     ↓ 長光寺本堂
     
      ↓ 「六角堂長光寺」図会  『尾張名所図会』より
 六角堂長光寺を描いていると思いますが、長光寺二王門前の美濃路沿いの描きこみには往時の民家の造りが分かり趣のある図会を楽しく観ました。
     
     ↓ 盤桓子誕生の地の碑
 名は丹羽盤桓子といわれ、1773年(安永2年)に井之口四つ屋に生まれた。尾張藩の書家として有名。7歳で丹羽嘉言に入門、4か月で卒業。楷書の細字に優れ第2代尾張藩主、斉温(なりはる)、藩校明倫堂の書生をはじめ、門人は全国に数多いとのこと、69歳で亡くなり六角堂の長光寺に墓がある。
     
 ◇美濃路と岐阜街道分岐点
     ↓ 四つ家追分碑
     

     ↓ 岐阜街道道標
     

     ↓ 美濃路より岐阜街道撮る
 長良川の鮎で鮎鮨を作り、岐阜街道より美濃路に入り東海道より将軍に献上された。
     

     ↓ 岐阜街道との追分辺りより美濃路前方撮る
     

  岐阜街道について・・・尾張藩は毎年長良川でとれた鮎の御鮨を江戸幕府に献上したが、東海道宮宿で中継して運ばれた道で御鮨街道と呼ばれるようになった。将軍に献上される鮎鮨は岐阜街道から美濃路に入り東海道経由で運ばれたが、御鮨街道と呼ばれたのは笠松までで、笠松では鮎鮨街道と呼んでいたようです。

 ここ四つ家の追分には立場があったとされる。立場には茶屋やうどん屋があったといわれ、ここ四つ家にも同様に店があったと思われる。旅人には一服の休憩所であったことに間違いない。今は交通手段がいろいろあり楽に移動が可能な時代ですが、往時は主には歩くという手段しかなく大変な思いをして旅をされたと思います。
   ↓ 四ツ屋立場辺り絵図 『美濃路見取絵図』より
   
     ↓ 長束正家邸址の碑
 長束正家とは、豊臣秀吉五奉行の内三人がこの辺りに縁があったとか。長束正家はここ長束村、増田長盛は増田村の出身とそれぞれ伝えられ、浅田長政は六角堂の屋敷であった浅野長勝の婿養子だったとのことです。
     
     ↓ 舗装される前の旧美濃路(長束町)
 砂利道を土ぼこりをあげて車が通る。美しかった松並木は枯死や道路の整備により切り倒された(写真左手前に松が切り取られているのがみとれます)
。 昭和40年頃
     

 この辺り美濃路筋を探すのに大変苦労しました。地図は3種類ほど持っていたのですが、目印となるものが少なく、地図もままならずといった所でした。この先の美濃路行にも地図が当てに出来ない所があるような予感がしました。
     ↓ 国府宮一ノ鳥居
 国府宮は毎年はだか祭りで賑わう宮です。この祭りは厄払い、厄落としの祭りとして全国的に知られたはだか祭りです。ここ一の鳥居より国府宮拝殿まで、参道は直線になっており8~1000メートルほど離れている。拝殿までを続けて写真掲載します。
     

     ↓ 二の鳥居
            

     ↓ 三の鳥居
     

 国府宮の楼門について・・・国の重要文化財に指定されている。楼門は正面3間・側面2間の重層入母屋造りの檜皮葺きで、応永26年(1419)の造営と伝えられる。正保3年(1646)の修理の際、上層を改造したので、下層は室町時代、上層は江戸初期の様式。昭和33年(1958)に解体修理が行われた。
     ↓ 国府宮楼門
     

     ↓ 国府宮拝殿
     

 国府宮について・・・国府宮の名で親しまれている尾張大国霊神社の第一鳥居は美濃路沿いにある。この神社の創祀は古い、われわれの祖先は人智人力を超えた霊的な存在を神として崇めた。ここに祀られたのは生産の基盤をなす国土の神、即ち国霊神であり、それは人格神以前の自然神であった。祭神は尾張霊大国大神で、社名がその性格を物語っている。その後自然神から人格神崇拝へと移行する中で、人格神としての神名を奉るにあたって、尾張大国霊大神に大国主命を当てることとなった。当社は「尾張惣社」「国府宮」と称される。国衙(国府・・・古代において尾張の政治・文化の中心であった。律令制のもとでは、一国の行政は国司によって執行されたが、その国司政庁を国衙といい、その所在地を国府といった。国府はいわば国のみやこであった。)に接して鎮座していたので「国府宮」とよばれた。社格制度の実施により、明治6年(1873)に郷社となったが、同9年に県社となり、昭和15年(1940)に国幣小社に治定された。この時、大国主命を祀ると信仰されてされてきたのを、尾張大国霊大神を祀ると改められ、創祀本来の姿に帰った。
 国府宮では毎年天下の奇祭として名高いはだか祭が行われている。神事は「儺追神事」と「夜儺追神事」が行われる。
     ↓「儺追神事」と書かれた角柱のしるべが立てられていた
     

     ↓ 国府宮はだか祭に際して奉納された大鏡餅(拝殿に供えられている)
     
     ↓ はだか祭では儺追笹を肩で担ぐようにして楼門を小走りでくぐる
     
     ↓ 在りし日の国府宮はだか祭
     
     ↓ 在りし日の国府宮はだか祭
     
     ↓ 在りし日の国府宮
     
     ↓ 在りし日の国府宮(戦前)
     

     ↓ 国府宮図会 『尾張名所図会』より
 図会右下には一ノ鳥居が描かれており、一ノ鳥居右側通りは京街道と書かれている。美濃街道にあたる道になると思います。
     

     ↓ 其二
     
   ↓ 国府宮辺りの絵図  『美濃路見取絵図』より
   
     ↓ 国府宮一の鳥居前より前方(美濃路)撮る
     
 この先美濃路と思われるところを進んできましたが、曙橋に出るまで自分が進んでいる道が美濃路だったかどうか疑心暗鬼でした。当然美濃路筋を撮ることはできませんでした。
     ↓ 曙橋交差点(左上に行く道が美濃路になります)
     


    続きの書き込みは 稲葉宿よりについて としています。
 


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