函館こぼれ話

観光ボランティアガイドをして、話の種を集めています。
***2005年は函館の近況を画像で・・・

冬の装い

2009年11月21日 | Weblog
大沼もまもなく白鳥到来の季節
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中空土偶・・・国宝に

2007年03月17日 | Weblog
32年前函館市尾札部町の畑で偶然掘り出された「中空土偶」が国宝に指定されることになった。縄文後期(3500年前)のものといわれ、表面に縄文の模様が施され全身が極めて精巧に作られており、縄文後期の信仰や祭祀と関係があると見られている。この辺一帯は南茅部縄文遺跡群の中にあり、学術的にも注目されているところである。大英博物館で展示され好評であったという。この夏函館博物館で特別展が開かれる予定。
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第40話 五稜郭築城

2006年01月23日 | Weblog
 1855年、箱館がわが国初めての開港により、諸外国の船が出入りし始めると、箱館奉行所がある場所(現元町公園)は港から近く万が一船からの砲撃が届いていしまうという防衛上の理由と、敷地が狭く、役人の住宅の問題から新たな場所に建てる必要から1856年弁天台場が、その翌年五稜郭が着工、7年がかりの大工事を行なわれた。

 設計はオランダの築城法、沿岸警備の研究していた武田斐三郎が担当。当初は開港による外国の脅威だったが、外国の脅威が薄れていくうちに国家の威信がその中心になってきたのと幕府の財政悪化のため、当初計画を縮小し現在のような形として完成し、大砲も設置されなかった。
 
工事は堀割り・土塁工事、郭内の奉行所工事(亀田御役所)、郭外の役宅工事など、また水道工事も行われ、郭内には水道が引かれた。この洋式城郭、五稜郭は箱館戦争を経てわずか7年でその使命を終える。

 現在郭内では箱館奉行所の復元工事を行っており、2010年春、完成の予定。
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第39話 「五島軒」の由来

2004年12月27日 | Weblog
 幅が20間ある二十間坂を下ると途中にレストラン「五島軒」がある。
 創業者若山惣太郎がロシア料理とパンの店として営業を始めたのは明治12年、店名は初代コック長、五島英吉の功績にちなんで命名された。



 幕末、長崎奉行所の通訳官であった五島英吉は、やがて時代の流れにより、箱館の榎本武揚軍に身を投じ、敗戦を迎える。明治政府軍の残党狩りが厳しく、ハリスト正教会にかくまわれ、そこで下僕として働くようになり、ロシア料理、パンの作り方を覚える。その後、世の中が安定して来たときに英吉が若山惣太郎に出会ったのであった。

 その幕末の箱館で、フランス料理のコックをめざす青年・河井準之助と、妻おゆきの人生を描いた小説が、船山馨の『蘆火野(あしびの)』である。五島軒がモデルといわれ文中に・・・「大きな構えでも、派手な店でもねえが、フランス料理なら函館に雪河亭てえ家がある。値段は手頃だが、味は飛び切りだ。人様がそう言ってくれるような店なんだ」・・・・
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第38話 町の色彩再発見

2004年12月25日 | Weblog
 明治、大正を経た和風、洋風、函館独特の和洋折衷の歴史的建造物が混在する西部地区。

 その地域の住民で作る「元町倶楽部」のメンバーが昭和57年に部分解体修復中の重要文化財「旧函館区公会堂(明治43年建造)」を見て、歴史的建造物の塗装の下に現在の外観と異なる色が隠されていることに気づき、そこから歴史的建造物の塗装表面をサンドペーパーでこすって古い色を調べる「こすり出し」運動が始まった。
 
 85件の建物の下見板、窓枠、銅蛇腹などの「こすり出し」の結果、戦時中は灰色、戦後はパステル調の明るい色、戦前の公共建築物は赤や白、黄色などのハイカラな色彩が、民家はモスグリーンが街並みを形成していたそうだ。
 
 やがてこの研究がトヨタ財団より最優秀賞を授与、その輪がひろがり、「函館色彩街づくり基金」を設立、現在では市民による街づくりを目指して活動を続けている。
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第37話 土方歳三の写真

2004年12月19日 | Weblog
 土方の上半身像の写真がある。


 これは、明治2年、箱館戦争で彼が亡くなる1ヶ月ほど前に、小姓であった市村鉄之助に東京の日野にある佐藤家(姉の嫁ぎ先)へ届けるようにと手渡した写真である。

 撮った写真家は田本研造といい、長崎で医学を学び、箱館に渡る。そこでロシアの医師ゼレンスキーと出会い、写真術を教わる。コロディオン湿板法と呼ばれるもので幕末から明治10年台までよく用いられた。


 また1858年ロシアの領事として着任したゴスケビッチからも越後出身で箱館で初めて写真場を開業した木津幸吉とともに写真術を学んでいる。その後木津から写真機材を譲り受け、写真場を開業し(八幡坂付近)、そこで撮ったのが前出の土方の写真である。
 明治4年、開拓使は開拓事業進捗状況を報告するために田本に撮影を依頼、1年をかけて北海道における本格的な記録写真を残した。
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第36話 旧北海道庁函館支庁庁舎

2004年12月18日 | Weblog
 幕末に箱館奉行所があったところに旧北海道庁函館支庁庁舎が建っている。
 明治42年に建てられたもので、旧公会堂とともに明治洋風木造建築として観光客の目を楽しませてくれている。
 
 しかし、昭和50年代の初め、この建物は道の要請で野幌の開拓村に移転される運命にあった。当時、見た目は堂々としていたが柱は根元が腐り、屋根は破れ、廃屋同然の荒廃ぶりだった。


 主婦の投書あり、「私ども市民は一日も早くこの建物が修復されることを願ってきた。それが市の文化財調査委員会が開拓村に移転する決定をしたとの報道を聞き、悲しみと憤りで胸が詰まる思いだった。この建物は現在地にあって修復の上、今日の用に供されてこそ初めて函館を象徴するひとつの顔になり、かつ、建物としての本来の存在意識も生まれるのでないか・・・」この主婦の訴えがきっかけとなり、「函館の歴史的風土を守る会」が誕生し、存続を巡り市民運動の輪が広がっていった。
 現在1階が元町観光案内所、2階は写真歴史館として使用されている。
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第35話 伝統的建造物

2004年12月17日 | Weblog
 1859年,函館は,長崎,横浜とともに我が国最初の国際貿易港として開かれた。

 箱館奉行所のあった元町付近には外国の領事館、教会、外国人住居が建てられ,横浜、長崎などと違って外国人と住民の住宅が混在していたため、日本の伝統文化を表す和風の民家等のほか,開港以来の諸外国文化の流入とその中ではぐくまれてきた市民意識を表すように,洋風あるいは和洋折衷様式の民家等が数多く建てられ,現在もその多くが当時の姿を残し、これらが坂道,街路などと融合しながら異国情緒豊かな町並みを醸し出している。

 当市では特に重要なところを「伝統的建造物群保存地区」とし、現在では旧英国領事館、旧北海道庁函館支庁舎など、61の建造物が指定を受けており、外観などの修理の助成、税の優遇処置を行なっている。
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第34話 函館ドック

2004年12月16日 | Weblog
 函館の端から港に突き出たところに函館のランドマーク、ドックのオレンジ色のクレーンが見える。

 函館は港で栄えた町なので造船業の歴史は古い。
明治に入ると北前船や外国船も増加し、船の遭難などで修理するためのドックの必要が叫ばれた。当時は、東京以北にドックが無いため、修理のため、遠く横須賀、長崎まで回航せねばならず、運行不能の船は廃船になる運命にあった。
 
 そこで明治の四天皇といわれる渡辺、平田、今井、平塚が協議、函館ドックを造り、同時に鉄工所も併設したいと開拓史に願い出た。しかし、明治12年の大火で計画は中断、やむなく彼らはまず、「函館製鉄器製造所」を設立、幾多の困難を克服して明治29年に破棄された弁天台場沖にドック設立が認可され、その後船渠1万トンに変更、埋め立て、修理台が落成、「函館船渠株式会社」として明治36年仮開業にこぎ付けた。 
 
 その後第1次、2次大戦を経て造船ブームが起こり船も大型化してきたが、韓国などの追い上げもあり、今はこのクレーンは使われることが無い。  2009年6月このクレーンが老朽化ということで撤去された。
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第33話 もみの木

2004年12月13日 | Weblog
 ことしもクリスマスに合わせて地球の裏側からもみの木が送られてきた。
送り主はカナダの大西洋岸、ノバスコシア州の州都ハリファックス市。
 海外との姉妹都市提携を望む市民の声の高まりのもと,当市と類似した都市形態のほか特別史跡「五稜郭跡」に似た星形城郭を有していることから,函館市市制施行60周年を記念して1982年(昭和57年)に姉妹提携した。

 ハリファックス市は人口36万、漁業、造船に力を入れている。シタデル(城塞)は、大英帝国がもつ4つの主要な海外海軍基地のうちのひとつであり、戦略港およびその周辺地域の防備強化策として英国政府が設置したものである。
 また1912年に処女航海で沈没したタイタニック号の海難事故では救助活動の拠点として大きな役割を果たし、タイタニックの犠牲者が眠る墓地が三箇所ある。(洞爺丸の海難事故はタイタニック号に続いて史上2番目の事故)
 このように函館とは共通点の多い街である。
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第32話 北海道新幹線着工本決まり!

2004年12月10日 | Weblog
 今日の政府・与党の作業部会で北海道新幹線の新青森――新函館148kmを来年度着工することが了承された。
 
 計画では着工から10年以内の完成を目指し、函館――東京間は時速275km運転で3時間50分で結ばれ、現在のJRと比べて2時間短縮される。北海道民にとって悲願だった新幹線が本道を走ることになり、道南と本州をつなぐ高速交通は航空と鉄道が競合する新時代を迎え、観光やビジネスの波及効果が期待されている。
 
 新函館の駅舎は大野町に、途中木古内、奥津軽の新幹線駅を経て新青森駅へ・・(新青森駅――八戸駅は今着工中) 青函トンネル区間は上下線とも新幹線仕様で在来線にも使えるため、経費は5000億円を予定しているが、札幌まで延長という強い要望、新幹線が通ることにより、並行在来線(江差線など)の運営問題など実現後の問題も山積している。・・北海道新聞より 

*** 東京〜青森間675kmレールが繋がったとのこと。 2009.11.3 読売新聞
                   
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第31話 月光仮面像

2004年12月09日 | Weblog
 先日ハリウッドでゴジラが『スター殿堂』入りを果たしたが、アメリカ製『スーパーマン』に対抗して月光仮面はTVで昭和30年代の子供たちには憧れの的であった。

 三日月をつけた白いターバン、白いフレームのサングラス、白いマント、白マフラーをして「憎むな/殺すな/赦しましょう」と書かれた台座の上にすらりと立ち、拳銃を構えた月光仮面像・・・大門グリンプラザ中央にある。

 これは函館出身で月光仮面の原作者である川内康範氏が、かって遊んだ思い出の場所に夢を残そうと昭和49年に寄贈したものである。
 月光仮面の題名は月光菩薩をもじったもの・・・人間はどんなに権力をもち、,仁徳をつんでも「正義」そのものになれない、神様が説かれる愛や真実を顕すための手助けしかできない、正義の味方をするしかない。と願いをこめて書かれたという。
 川内康範氏は「おふくろさん」の作詞者としても有名であるが2008年亡くなった。

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第30話 函館要塞

2004年12月07日 | Weblog
 明治20年代後半、朝鮮半島の主権を巡り、日本とロシアは緊張関係にあり、最悪の事態に備え、日本各地で西洋式要塞の整備が急がれた。 
 函館要塞の建設は明治31年に着工、明治35年に完成した。当時、津軽海峡を行き交う船は、本道と本州を結ぶ命綱であり、その主要港で、国内有数の造船所がある函館港の防御が目的だった。完成2年後の2月、日露戦争が勃発、7月には津軽海峡をロシアのウラジオストク艦隊が横断、陸軍の輸送船を襲われたため、近く函館を砲撃するという流言が突然広がり、夜明けとともに避難者が続出、パニック状態になった。その時、海峡を横切ったのは3隻のロシア船。しかし、函館要塞は港の防衛のために作られたもので、大砲の射程外のため1発の砲弾も発射されなかった。

 その後の時代の変化で函館要塞は時代遅れとなり、艦船から飛行機が戦争の主役となり、対空装備が貧弱な要塞は「無用の長物」のまま終戦を迎えた 。2001年「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選ばれる。
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第29話 アーチ橋・・・旧戸井町

2004年12月05日 | Weblog
 函館の隣町だった旧戸井町の道路上から、一度も列車が走らなかった“幻の鉄道”旧国鉄戸井線のコンクリート製アーチ橋が見える。外観の美しさ、鉄筋を使わない構造などから、産業遺産として保存しようという動きが出ている。
 
 旧戸井線は五稜郭から戸井まで29km、海峡防衛のために汐首岬に設置されていた津軽要塞への兵員輸送や物資の補給のために計画され、昭和12年に着工したが戦況の悪化から昭和18年、終点あとわずかというところで中断した。
 海岸に迫る山間傾斜地を乗り切るため、町内4カ所にアーチ橋が架けられ、長いもので75m、アーチの間隔3mで25連。芸術的な景観を形成している。このアーチ橋は特に鉄不足のために、現地の砂利、木,竹を使った「木筋コンクリート」橋とであったと言われており、現在では老朽化も進んで崩壊の危険があると専門家は指摘している。
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第28話 恵山・高田屋嘉兵衛 旧恵山町

2004年12月04日 | Weblog
 道南の東、津軽海峡の入り口に位置する標高618mの活火山「恵山」がある。
春のつつじ、夏から秋にかけて本州では2000m級の山にしか見られない高山植物が開花して目を楽しませてくれる。この海域、寒流と暖流がぶつかり合い、海の幸に恵まれ、良質の昆布、長崎俵物、タラなどが採れる。

 古くは箱館を本拠地として海運業を営んだ高田屋嘉兵衛が蝦夷地に新たな漁場を開拓するため、この山から潮の流れを観察し、様似、根室、遠くは択捉への航路の研究に役立てた。また、海の難所と恐れられていることもあり、海上の安全を祈願のため1809年嘉兵衛は恵山中腹に十一面観音像を設立した。彼はまたこの海域が冬場、鱈が採れるところに着目し、良質の赤穂の塩を仕入れ、塩鮭と同様に鱈を塩漬けにして北前船で江戸に送りヒット商品になったという。
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