2016-2回目の見たり聞いたり

2016-02-02 11:51:46 | 日記
2016-2回目の見たり聞いたりです。
相変わらず経済の話が大きなニュースになっています。1930年には100年後には経済が問題になることはないと言われていました。でも実際には経済が以前として大きな関心事になっています。景気を良くするには、企業業績が好調である、消費者が安心して消費する、の2点が必要だと思います。基本的には、にわとりが先か、卵が先かの議論になりますが、間違いなく卵が先で「消費者が安心して消費する」が先にくると思います。言葉は悪いですが、消費者の欲望が景気を押し上げ、経済を望ましい方向に回転させていくことになると思います。しかし消費による景気の引き上げはすごく大変なことです。恐らくバブル時にあってもインフレ率は2%行っていなかったと思います。単に土地と株の値段が上がっただけです。その当時借金をして給与以上の消費をするということはあたりまえでした。経済の先行きに消費者が安心していたからです。でもそれは誤りでバブルははじけました。そして企業はバブルがはじけたとき、消費による景気の押し上げを選択せずに経費の削減による企業業績の維持を選択しました。消費者は将来に不安を覚え、消費ではなく貯蓄にお金を回すようになり、企業は消費者の消費による景気の持ち直しは考慮せず、将来に備えて企業業績の向上、内部留保の積み上げを第一優先にしました。そこで企業が目をつけたのが派遣というシステムでした。収益は商品とサービスがあり、そこに製造や販売という会社のシステムが存在することで生み出されます。会社の収益の大半は商品、サービス、システムに依拠します。その収益を稼得するために、会社は経営をし、従業員がそのために働きます。商品、サービスからの収益が従業員に配分されます。その時点の収益が大きければ大きな割合、すなわち成果に対する報酬として本来であれば配分されてもよさそうですが、そこでは会社による報酬の強制徴収がなされます。それが年齢、役職に応じて徐々に精算されるようになります。ある時点でその精算の割合が個々に大きく変わるようになり、年収等に開きが生じます。どんなに収益性の高い部署にいっても、一定の年齢までは他の部署の報酬とそれほど変わることはありません。この報酬の強制徴収の仕組みこそが正規社員の特徴です。徴収されているとは言え、商品やサービスがもたらす収益が徐々に報酬の中に繰入られていきます。したがって業績が悪くなると、時間の経過が不可欠な報酬の構成要素を取り除くために、早期退職などの手段を用いて会社は正規社員を非正規社員に変えていきました。非正規社員と正規社員の日々の仕事のみを比べれば、同じであっても、報酬に占めるそうした目に見えない部分が解消されることはなく、正規社員と非正規社員の報酬が縮まることはほとんどないと思います。この仕組みを変えないかぎり景気はよくならないかもしれません。

2016-1回目の見たり聞いたり

2016-02-01 12:26:53 | 日記
2016-1回目の見たり聞いたりです。

2016年も1カ月が経過。少し思うところをまとめてみました。
最も大きなリスクは政治ですね。政治は国の在り方を決めるもの。そのための政治家。でも政治家になれなければ何にもならない。政治家になるために多くの人に支持されなければなりませんが、65才以上の高齢者が多くの割合を占める時代で高齢者に向いて発言しなければ政治家にはなれません。そうした人を含めて誰しも自己の利益の以外の、国全体の利益に向けて投票することはほとんどありません。そのため投票行動と本来国として目指すものの間には大きな隔たりが生じます。これからの国の在り方により大きくかかわる人の票の重みを変えるなど、国民の最も大きな基本的権利である投票権に少し工夫を迫られる年になると思います。
宇宙関連の研究が加速しています。宇宙開発の最大の牽引力は、地球はいずれ破滅するという考えです。そのためには宇宙ステーションでは、人類が宇宙でどのように生存できるかの研究が進められ、ニュートリノなどは宇宙の起源を探り、地球があとどのくらいで消滅するのかの手がかりを探る研究しているのだと思います。異常気象が頻繁に生じています。でも今年はうるう年のように、地球の自転、公転が狂うことはないのでしょうか。万が一にでも1年に1秒でも狂うようになれば、異常気象、自然災害等はどうなるのでしょう。その可能性は、その場合何が起こるのか、怖いけど知りたいような気もします。
国や人が謝る、国と国、人と人が調和する。謝罪は相手が受入れ評価する謝罪でなければそれほど意味がないような感じがします。もちろん必要です。「謝ってもらえればそれでいい」という表現がありますが、謝って、事態が好転するのはわずかかと思います。北朝鮮の拉致が認められたとき、「評価する」という意見より「それみろ、やっていたではないか」の論調の方が大きかったように思います。そこで「良く言ってくれた。評価する」の雰囲気が大きかったら事態は変わっていたかもしれません。事態はさらに悪化し何の解決も見られていません。謝罪とはどのようにしたら受け入れられ、評価されるかを真剣に考えた上で行わなければならない、今後益々難しくなる行為だと思います。相手との調和を求める場合も同じです。相手が受入れ感謝するものでなければそれ程意味がないように思われます。少し発言が過激ですね。だから国と国、人と人との関係は難しく、特にこうしたグローバル化の時代は難しいと思います。常にホスピタリティは必要ですが、すれば良いというのでは十分でないように思います。「評価されるホスピタリティ」「評価されないホスピタリティ」「一切行われないホスピタリティ」「相手にうらまれるホスピタリティ」の順かな。相手に受け入れられ、感謝されるホスピタリティとは、今年は考えたいと思います。