Un jour

〜アン・ジュール(ある日…)〜

詩のこと、そして日々のこと。

春の断片

2011-02-17 | 日記
少しずつ春に向かっていくなかで、心に留めた、ある断片。

小林秀雄のエッセー「言葉」の一節。
本居宣長の言葉(歌)への認識について、こう記している。

「自然の情は不安的な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。
悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。
だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。
言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている」

悲しみ自体が切実なあまり「おのずから」言葉となる…そんな「動作としての言葉」について、少し考えてみたい、と思っていた。
すると、今朝、まだ雪の残る公園を過ぎるとき、今年はじめての、ウグイスの声を聞いた。
まだ立派なひと声になる手前の、少し恥ずかしそうな、赤ん坊の笑い声のようなやわらかい、春の震えだった。
「おのずから」の言葉とは、こういう響きに似ているのだろうか、とも受け取った。

季節の寄り道を楽しむようにこうした言葉の断片を集めているうちに、あっという間に春の盛りになっているのかもしれない。
ページから顔を上げると春、そんな朝も近いだろう。
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夢の一日

2011-02-06 | 日記
篠井英介が出演する、『チェーホフ?!』(タニノクロウ演出)を見に行く。
チェーホフ、とはいっても、「桜の園」や「かもめ」などの台詞劇とはまったく違い、予定調和の感情を代弁する会話はほとんどなく、絵画的な舞台美術と個性的な役者たちの身体の強調によって、鮮烈なイメージの連鎖が淡々と描かれていくばかり。
通常の台詞劇を期待していくと面食らうような、舞踏や美術のインスタレーションを思わせるシーンも多い。

魔女の悲哀に満ちた歌声に、まがまがしい三日月を横切る死神や、森に響く不気味な鳥の鳴き声…。
チェーホフが惹かれたという、ロシアの伝説の世界のモチーフに寄り添う役者たちの、指先、つま先、まなざし、唇の動きは、魔術めいていて、客席に座っているこちらも、誰かの膨れ上がった夢の一部に深く迷い込んでしまったような気がした。

具体的なストーリーに執着しつつも、どこか空々しく、感情が伝わってこない声高な台詞などより、演じるひとの身体の曲線や、ゆったりとした身振りの生み出す風や香りは、なんと物悲しい声となるのだろう、と感じた。
台詞のない、精神の結晶だけを集めたような印象的なシーンの連続を通して、役者を見ている、というより、人間が存在してしまうことの生々しさ、哀しさを見ていたのかもしれない。

夢を見ていた、と言いかえてもいいような時間だろうか。
その夢は、夢とはいえ、けして、はかなくはない。
目の裏に焼きついてなかなか離れない鮮烈な事件のように、印象はひどく強い。

終演後も、自分が本当に目覚めているのかわからなくなった。
もしかすると、ひとは生まれてから一度も本当は目覚めていないのかもしれない、そんな気にさせる不思議な時間だった。

タニノクロウ氏の作る舞台をまた見てみたいと思った。
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花びらを、まきながら

2011-01-31 | 日記
風が少しも入らないようにきつめにマフラーを巻いて、冷たい空気のなかを、急ぎ足で歩いていく。
朝から机に向かっているせいで、肩も目もすでにずいぶんと重いのだけれど、家に帰ってまた別の机に向かわなくてはならない。急いで帰らなくては。
そんなときわたしは、気づくと、ある人の言葉を口ずさんでいる。

それは、たぶん、大学生の頃からだろうか。

当時、寝ても覚めても、歌を作っていた。
歌、といっても、曲ではなく、五、七、五、の短歌のこと。

そのころ、何人もの歌人の歌を、生きるための勇気として、胸に刻みつけるように、何度も何度も繰り返し、未熟な感受性で唱えていた。
唱えながらでないと、歩行できないくらいに。

なかでも、斎藤史の歌は特別だった。

たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ

てのひらをかんざしのやうにかざす時マダム・バタフライの歌がきこえる

定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花


(すべて、斎藤史『魚歌』より)

こうして、好きな歌を書き出すだけで、今も震えがくるほど、彼女の歌は、強く、潔い。

当時、些末な事に一喜一憂しつつ何ひとつ形にできなかった自分には、あまりにまぶしい言葉であったけれど、純度の高い輝きを通して、わたしは息を吐き、吸うことを覚え、現実へと向かっていくことができた。

今も、どうしようもなく心が冷えたとき、理由もなく焦りながら道を急ぐとき、あのとき覚えた歌を、口ずさんでいる。
斎藤史の歌は、口ずさむというより、自分にだけ見える花びらを心にまく、という行為に近い。

それは、わたしにとっては、新しい春を迎えるための、冬の儀式なのかもしれない。

白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう

(同じく『魚歌』より)

明日から、新しい月。

まばゆい花びらをまきながら、さあ、進んでいこう。
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雪のことば

2011-01-17 | 日記
雪が降りそうな空は、雨の日とも曇りの日とも違った、静かな乳白色をしている。
薄墨をかすかに含んだ、甘い白は、地上の賑やかな時間をどんどんと吸いあげ、その代わりに、音もなく歌う、雪の言葉を返してくれる。
雪ほど、きれいな言葉をもつものが、ほかにあるだろうか。

小池昌代さんの「雪の祝福」という詩を読んでいて、あ、そのとおりだ、と思ったことがある。

「雪には(見て)ということばがないので、自発的に見なければ気がづかないことだ、と思い、しかし、あの異常な静けさは雪のことばそのものだとも思った」

そうなのだ。静けさこそ、雪の言葉なのだ。

雪の言葉に耳を澄ますことは、ひとに簡単に会わず、紛らわすものも持たず、ひとりでみっしりと孤独を受け止めることにも似ている。

辛いことかもしれない。

けれど、この深い寂しさを、ひとりで幾度も通り過ぎないと、聞こえてこない声がある。

わたしは、雪の詩を読むのも、書くのも好きなのだが、それは、ほんの一瞬でも、雪の歌が聞こえるような気がするからだ。

その声は、そらみみ、かもしれない。
いや、ゆきのみみ、なのかもしれない。

静かに孤独を温めながら寝息を立てるひとの耳は、きっと、雪の耳。
そんな耳にだけ届くような詩を書きたい、と切に願う。
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特別な一杯

2011-01-06 | 日記
年末年始は、何かと口実をつけて、祝杯をあげることも多いもの。
たとえば黄金に泡立つ、シャンパンのグラス。
その金色を覗いているうちに、ふと思いだした場面がありました。
宮沢賢治の「やまなし」。

『クラムボンはわらったよ』、『クラムボンはかぷかぷわらったよ』という、冒頭の、子どもの蟹の話し声を書けば、「ああ、あの」と思い出すかたも多いのではないでしょうか。
水底で遊び、笑い、生きる兄弟蟹とお父さん蟹の目線で、水中の風景を描いた、不思議でうつくしいお話です。
蟹たちの棲む水底から眺める水面には、波が作る光の網がいつも揺れています。
ときに花びらや水晶の粒、金雲母のかけらなどが、その黄金色の天井をすべっていくのを、蟹たちは眺めています。

ある夜のこと、あまりに月が明るくきれいなので、子どもの蟹たちは眠らずに、水面を見上げていました。
すると、「ドブン」と音を立て、黒く円い大きなものが水中に落ちてきます。
子どもたちは、魚を狙う「かわせみ」かと、一瞬身構えるのですが、お父さん蟹は、落ち着いて教えます。
『そうじゃない、あればやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行ってみよう、ああいい匂いだな』

そこで親子が「やまなし」のあとを追っていくと…。
「間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔をあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました」。

こんなにもうつくしい水面の描写を、わたしはほかに知らないのですが、シャンパンで満たされた幸福なグラスを眺めていると、あの蟹たちが眺めていた月夜の水面は、こんな色をしていたのかもしれないなあ、などと想像してしまうのです。

お話の続きでは、「やまなし」が枝にひっかかったあと、子どもの蟹は「おいしそう」と興味を示すのですが、お父さん蟹はこう言います。
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下に沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、帰って寝よう、おいで』と。

蟹の親子がその後仲良く飲みほしたであろう、甘く熟した「やまなし」のお酒は、きっと、ひとの手に入るようなシャンパンなどおよびもしないほど、おいしいのだろうなあ、とも思います。

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朝一番の郵便

2011-01-04 | 日記
普段は騒がしい通りにも、元旦となればさすがに往来もなく、東京でも、しん、とした朝を味わうことができます。
この、しん、とした冷たい空気のなか、起きてすぐに郵便受けを開くのは、なんだか儀式めいて感じられるからでしょうか。
さまざまな地域からいっせいに届いた年賀状というものは、たまたま通過した風が姿を変えたかのような、不思議な軽さと明るさをまとっている気がします。

トランプを切るように宛名ごとに葉書を分けていくとき、自分宛の筆跡を見ただけで、誰からのものか、想像がつきます。
もう顔も忘れそうなくらい何年も会っていないのに、学生時代の友人の文字は、なかなか忘れられないものです。
文章よりも、ぱっと目に入る文字自体が、今まさに開き始めた花のように、流れようとする星のように、ひとつのみずみずしいいきものとして、まず語りかけてきます。

「お元気ですか、今年こそ会いたいですね」などという、年賀状につきものの文句は、どうでもいい。
あるひととき、筆跡を覚えるまでノートを貸し借りしたり、手紙を交わしたことがある誰かがいてくれたこと。
そして、その懐かしく親しい文字を書く手が、それぞれの生活の場所で、今も元気に働いているということ。
その事実が、一年の最初に、心を温めてくれるのです。
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新しい光のほうへ

2010-12-31 | 日記
今年も残り一日。
この時間が尽きると、あのとき悔いたことも、願ったこともすべて、一瞬にして真新しい光のおもてへと溶け込み、どこにも手垢のついていないカレンダーがふたたびめくられます。

何度通過しても慣れることのない、年と年をつなぐ、まばゆい瞬間に許され、励まされ、また進んでいこうと思えるのです。

何かを望むことや、あきらめることさえ、自由に選ぶことができる、手つかずの日々が、こうして目の前に広がっていることに感謝しつつ…。

みなさまもよい年をお迎えください。
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眠りのそばに

2010-12-20 | 日記
ある編集者がインタビューで、「正岡子規は、渋茶に塩煎餅を片手に読む」と語っていました。
彼はなんでも、読む書物によって、流す音楽はもちろんのこと、着る物や飲み物まで変えて、その世界にどっぷりと浸るとのこと。
どんな場所にもふさわしい服や会話があるように、読書にもドレスコードや作法を与えるのはとても面白いと思いますが、どちらかといえば、普段の読書の成り行きとしては、こういう気分だからこの本を読もう、と思いつくほうが多いかもしれません。

たとえば、だんだんと冷え始めた夜に、湯冷めしないよういそいそと布団にもぐり、そこでほんの少しだけ開くなら…。
どこまでもやさしく眠りを見守ってくれる、立原道造の詩集などふさわしいのかもしれません。

二十四歳という若さで亡くなった天才詩人の詩は、夢のようにはかなく、かぎりなく透明で、一見気恥ずかしいような甘さに満ちています。

虹を見ている娘たちよ
もう洗濯はすみました
真白い雲はおとなしく
船よりもゆつくりと
村の水たまりにさよならをする

(「村の詩 朝・昼・夕」より)

美しいものになら ほほえむがよい
涙よ いつまでも かはかずにあれ
陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき
あのものがなしい 月が燃え立った

(「溢れひたす闇に」より)

けれど今、読み返してみると、どこまでも口どけのよい、やさしい甘さ、明度の高い幻想は、そういった、うつろいやすいもののいのち、はかなさを生かし、描ききろうとする道造の決意、強い意思に支えられていることがわかります。

つかんだそばからすぐ消えてしまうような、はかなく淡い情景こそ、よっぽどの激しい決意をもたないかぎり、描き続けるのは難しいのかもしれません。

とはいえ、口や耳に触れると砂糖菓子のように甘く溶け出す道造の声は、やはり、夢の入り口にふさわしく、ひとつぶのチョコレートをこっそりつまむように、わたしは、眠る前に、その声に出会うためにページを開くのです。

おやすみ やさしい顔をした娘たち
おやすみ やはらかな黒い髪を編んで
おまへらの枕もとに胡桃色にともされた燭台のまはりには
快活な何かが宿つている(世界中はさらさらと粉の雪)

(「眠りの誘ひ」より)

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寒い夜道に

2010-12-16 | 日記
遅い帰り道。
雲のない空に月を見つけると、ああ、何も変わっていない、と思います。
この月に照らされながら、小さな頃からもう何度、こうして家路を急いできたのだろう、と。

東京の月は、ビルで切り取られた小さな空から空を綱渡りするように、ときどき姿を消しながら、それでも、ちゃんと、ずっと、ついてきてくれます。

空の五線譜のような電線の上を楽しそうに踊る月を、音楽家が見上げたら、澄んだ音楽が聞こえてくるのかもしれません。
作曲をしらないわたしの場合は…。

大好きな詩人、辻征夫が、「貨物船」という俳号で詠んだ句、

満月や大人になってもついてくる

を思い出してひそかに微笑みながら、しんと冷えた夜に、誰ももういないけれど、月が確かについてきてくれる道を、いくつもいくつも曲がって帰るのも悪くないなあ、などと思うのです。

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時間どろぼう

2010-12-07 | 日記
12月に入ると、ああ、あと何日しかない、と思ってしまうからでしょうか、ほかの月よりもやけに時間の過ぎるのが早い気がします。
朝晩の通勤時など、急ぎ足で押し合うひとの列にまぎれて、階段を駆け上がったり、点滅する信号を無理に渡ってみたり…。
これでは、「時間どろぼう」に時間を盗まれてしまったひとのようだなあ、と思ったり。

「時間どろぼう」とは、ミヒャエル・エンデの小説『モモ』に出てくる、人間から密かに奪い取った時間をエネルギーにして生き延びる影の存在のことなのですが、一度彼らに狙われてしまうと、音楽を聴いたり、花を愛でたり、家族や友人と食卓を囲みながら語り合うといったような、精神を自由に遊ばせる、「些細な、けれど、かけがえのない」時間を失ってしまうのです。

「時間どろぼう」の提案に従って、お金にならないことや役に立たないことを一切排除した、無駄のない暮らしを送るひとの口癖は、つねに「時間がない」「忙しい、忙しい」。
無駄を省いた暮らしのはずなのに、ますます時間は足りず、忙しい忙しいと駈けずり回っているうちに、ひとは人間らしさを失い、そんな人間たちしかいなくなった街はしだいに荒れていってしまいます。

そんな恐ろしい存在の「時間どろぼう」にとって一番の命取りは、じつは、人間たちにその存在を気づかれること。
ですから、「ああ、いま、時間を盗まれているな」、と思うだけでも、「時間どろぼう」の動きは止まり、自分らしい時間がまた流れ出すのかもしれません。

「時間どろぼう」から時間を取り戻したら、さて、何をしようかな。
ただ、そう思うだけ。
街も空もうつくしいこの月には、そんな無駄な時間こそが愛おしい気がします。


もしかすると、花が開き、散る、ほんの短い時間のほうが、ひとが急いで消費する細切れの時間より長く、満ち足りた時間かもしれません…。
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