有限の…
2011-09-07 | 日記
乱暴な天候の変化に戸惑っているうちに、風は急に冷たさを増し、いつのまにか秋の虫が鳴いていた。
ここ数年、猛暑や豪雨のせいだろうか、夏の終わりの印象が、幼いころの体感の記憶と少しずつずれ始めているような感じを受ける。
風鈴の音が呼び込む夕立の匂い、通り雨にゆっくりと編まれてゆく朝顔の影絵…そんな夏の断片をたとえば思い出しても、それは、しだいに薄れてゆく、頼りない余韻でしかない。
幼い夏の手触りが完全に消えてしまったとしたら、ここ数年の過酷な猛暑の体験は、代替の記憶となるのだろうか。
痛ましい情報や事件として、身体に違和を強く残すだろうが、季節を感受する直感としての慕わしい記憶にはならない気がしている。
近頃、有限、を思う。
わたしもまたすべての生きもの同様に有限であり、限られた時間のなかで、何を見、記憶し、慈しみ、そして別れ、忘れ、手放してゆくのか、と。
限りがある生だからこそ、始まりから終わりへの流れを経験することができ、有限という重みがあればこそ、流れのなかで浮き、沈み、上流から下流へ、ときに急流に傷を受けながら、同じ水を宿す支流と出会い、より穏やかなほうへと進んでいくことができるのかもしれない。
はじめと終わりがある、と書いたが、もしかすると、「はじめなき夢を夢とも知らずしてこの終りにや覚めはてぬべき」という、式子内親王の歌にあるように、この有限は、ひとが見ることのできぬ無限へと流れこんでいて、こうして感知しているかに思えることはすべて、はてしなく続く夢のなかの出来事でしかないのかもしれない。
たとえそうだとしても、たしかに変わってゆく空の高さや風のつめたさを、有限の身体で覚えていたいとも思う。
ここ数年、猛暑や豪雨のせいだろうか、夏の終わりの印象が、幼いころの体感の記憶と少しずつずれ始めているような感じを受ける。
風鈴の音が呼び込む夕立の匂い、通り雨にゆっくりと編まれてゆく朝顔の影絵…そんな夏の断片をたとえば思い出しても、それは、しだいに薄れてゆく、頼りない余韻でしかない。
幼い夏の手触りが完全に消えてしまったとしたら、ここ数年の過酷な猛暑の体験は、代替の記憶となるのだろうか。
痛ましい情報や事件として、身体に違和を強く残すだろうが、季節を感受する直感としての慕わしい記憶にはならない気がしている。
近頃、有限、を思う。
わたしもまたすべての生きもの同様に有限であり、限られた時間のなかで、何を見、記憶し、慈しみ、そして別れ、忘れ、手放してゆくのか、と。
限りがある生だからこそ、始まりから終わりへの流れを経験することができ、有限という重みがあればこそ、流れのなかで浮き、沈み、上流から下流へ、ときに急流に傷を受けながら、同じ水を宿す支流と出会い、より穏やかなほうへと進んでいくことができるのかもしれない。
はじめと終わりがある、と書いたが、もしかすると、「はじめなき夢を夢とも知らずしてこの終りにや覚めはてぬべき」という、式子内親王の歌にあるように、この有限は、ひとが見ることのできぬ無限へと流れこんでいて、こうして感知しているかに思えることはすべて、はてしなく続く夢のなかの出来事でしかないのかもしれない。
たとえそうだとしても、たしかに変わってゆく空の高さや風のつめたさを、有限の身体で覚えていたいとも思う。
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