河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

制作案内 その3

2017-01-09 17:36:48 | 絵画

下描き

まさか、この時点で突然、何も考えずに、絵具を画面に投げつけたりはしないでください。あくまで「意図があって、表現しようとする」ことが基本ですから・・・・。大事なのは表現したイメージの具体化、視覚化が美術の目的手段であるわけですから、冷静にかつ情熱的に!!

いよいよ制作に入ると、作品の完成をイメージして様々な手順を踏むことになるが、①白い地塗りの発色を生かす ②有色地にするなどして下描きデッサンを始める。

白い地塗りに黒い絵具を葦ペンのような鋭い線を引ける素材で、当たり付けをすると、描画の邪魔になるため、フランドルでは必ず一度油性絵の具の鉛白を薄く引くことでコントラストを緩衝させた。しかしこの白い鉛白は経年で乳化し、ほとんど透明になり、見た目に下から透けて見えてきており、薄描きの箇所で目障りになっている。最初からグレーで描いておいてくれたら・・・と思う次第。しかし初期フランドルの画家で、これらの当たり付けデッサンに、厳密に従って描いた画家はいなかった。

吸い込み止め

ここで、上描きがされることの準備として、画面の吸い込み止めを行う。特に自分で用意したカンヴァス地、板地にとって、この手順なしでは、保存の観点から、絵具層に含まれる油分も、地塗りに吸い込まれて絵具の耐久性が劣ることになる。また色彩の明度、彩度、色相の三要素がまちまちで、色彩に鮮度がなくなり制作にも差し支える。 ①地塗りを作ったときの同じ濃度か、あるいは少し薄めの膠液を刷毛で均一に施す。夏場なら3日、冬場なら1日乾燥させる(これは日本での目安、ヨーロッパではこの逆)。②さらに先に述べたように黒いデッサンの線を消すために、画面に描画用液に鉛白を混ぜたものを少しテレピン製油で薄めて画面全体に刷毛で施す。乾燥は14日間はほしい。

市販のカンヴァスであっても、吸い込み止めとして、また画面保護として、白いカンヴァスには鉛白の一層を引く。ゴッホやモネの印象派の作品に、カンヴァス地がむき出しの箇所が頻繁に見つかるが、市販のカンヴァス地塗りが油絵の具と同じような耐久性は持たないので、温湿度の影響で伸縮を繰り返し、小さな亀裂が入り、織り目の山の部分に剥落が起きて、そこに汚れや、後日施した保護ニスが入り込んで、黒い点となり、審美性を損ねている。カンヴァスの白い地は、絵画と思い込んでいる人は、そこは白い絵の具で先に白く描いておくべきである。空調機の無いこの国の民間の家での保管は、最悪の状態に半世紀もあればなるであろう。

吸い込み止めが大事なプロセスでありことが伝わったであろうか?

カンヴァスに木炭で描く人が居たが、絵具を汚す。殆どきれいに払い取ってしまうべきである。柔らかい鉛筆のB以上はやはり同じく画面を汚す。HBくらいの硬さでシャープペンのような細描きで行うべき。フィキサチーフは紙のデッサンの固定以外に勧めない。

有色地に従いデッサンする場合、基本は地色より濃い色で描くが、白墨で描くことも歴史上見られる。白コンテは白色顔料の鉛白、チタン白、亜鉛華白で作られ、白さが次の油性絵の具で消えず、邪魔になる。そこで油との屈折率が1に近い炭酸カルシュウムを固めた白墨が適当でよい。最近TVで紹介されたが、世界で最も愛された名古屋で生産されていた白墨が、生産者に後継ぎがなく廃業し、機械設備、製造ノウハウ一式すべてを韓国人に譲り渡した。この白墨は世界中で愛されていて、廃業を知ったスタンフォード大学の数学の教授は10年分を買い込んだが、とても残念がっていた。白墨の命は硬く、折れず、粉っぽくならないこと・・・である。当然描画用にも通じる。そこでこの白墨が手に入らなければ、自家製の物を作ることを進める。何事もチャレンジである。炭酸カルシウムは試薬でなくてもよい。画材屋で手に入る胡粉を用いて、水にアラビアゴム粉末を3~5%混ぜ溶解させる。これで胡粉を練って、粘土遊びの要領で細いひも状にして乾燥させる。硬さは自分で調整されたい。アラビアゴムが入手困難であれば、ホームセンターで手に入る、洗濯糊であるポリビニールアルコール(透明な粘りのある液)、メティルセルローズ(表具糊:粉末)でも良いが、硬さについては、いろいろサンプルを作って自分に合った硬度にされたい。

下描きデッサン

下描きデッサンは厳密に描いておいて、それに従って制作する、ともすれば「塗り絵的」ともいわれるかもしれないが、構想が複雑で、細かな描写が組み合わさったような絵画であれば、下絵として、先に紙の上にプロット画を作成しておいて、それに従って制作していくタイプがある。下絵は正方形のマス目が入れられ、制作画面にも正方形が入れられて拡大して写していく。この時点で、ある程度自由な描きなおしが行われるだろう。赤外線反射画像を取ると、時々、マス目が入った作品に出合う。

イタリアルネッサンスの時代に、フレスコ画では実物大転写が、紙の普及に従って行われるようになった。どれほど大きな紙であったかを知りたければ、ミラノの(申し訳ありません。場所名を思い出せませ・・・そのうち見つけます)コレクションにラファエロがヴァチカン宮セニャトゥラの間のフレスコ壁画《アテネの学堂》の巨大な原寸下絵が展示されているので見ると良い。こうした原寸下絵は石灰を塗って乾かないうちに、上から押し当てて、線をなぞって痕をつける方法か、線に従ってあらかじめ小さな穴をあけておいて、そこに木炭の粉をタンポンするポンサージュという技法がある。ポンサージュは線に沿って、火のついた線香を押し当ててて、幾千もの穴をあけることになる。神経衰弱になるかもしれない。まあ・・・熱意、熱意!!

大きな紙がファブリアーノなどの町で漉かれて生産されるようになると、いきなりイタリア絵画の画面が大きくなっていった。16世紀初頭、方やフィレンツエでミケランジェロが活躍しているころ、ヴェネツィアではティントレットやティッツァーノが大画面の油彩画を制作し始めていた。こうした時代、下絵デッサンが紙の上で、練習を行ったり、先に構想したりして、制作につながったことは想像に難くない。紙と筆記具の発達が、それこそ大きな絵画様式の違いを生み出したと言える。ジョットの時代については、小さな紙にプロットを描いて、注文者に見せてから、制作を開始したと言われている。紙も貴重品だったらしい。ジョットにも大きな紙が与えられていたら、彼の絵画も違っていたかもしれない。この頃、キリスト教にとって大事な写本は羊皮紙から紙へと移行し始める。そして、その中に描かれる細密画も羊皮紙に描かれた当時のものより、より精緻な描き方が実現した。

画材が技法を変化させ、表現の拡大を起こさせ、新たな絵画の表現様式を作り出したことは、美術史上に刻まれている。ファン・アイク兄弟が(実際には違うが)油彩画の発明者とされるのは、その技法の完成度の高さゆえであることは、周知のことであろう。

美術史の人たちは、こういう制作現場についての興味がないみたいです。客観的事実に近づく最もよい方法なのにね。

工事中です


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