河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

ポンペイ展から

2017-03-26 18:00:56 | 絵画

山口県美で開催されていたポンペイ展を会期末ぎりぎりで見ることが出来た。土日は混雑して見難いと聞いていたので、かろうじて週日に行くことが出来た。山口県美では山口市の人口が10万人の時、大英博物館展で25万人動員した実績があるので、集客能力が高い美術館の一つだ。浜田市のみゆき画材でポスターを見て、「ひょっとして一生見ることが出来ないかも・・・」と思って、出かけた。片道120kmの距離である。

今から27年前に3か月間かけて、イタリア中の美術館博物館と保存修復機関を訪ねた。今回、出品作品を所蔵していたナポリ国立考古学博物館も訪ね、もちろんポンペイの遺構を見に行った。ヴェスビオ火山の噴火によって、ほんの一日で火砕流に埋まってしまった、瞬間保存された町で、まさに火山灰の中から日常生活が掘り出された町であった。古代ローマ時代の街並みに、パン屋や葡萄酒を売る酒屋の店の形がそのまま見れるのはここしかない。

考古遺物は掘り出したら、そのままにしておけないので博物館に収容されるが、建物は収容できるものではない。(ベルリンにギリシャのペルガモンの建物をそっくり再現したものがあるが)ポンペイの建物に付随する壁画はストラッポと呼ばれる技法で、建物からはぎ取って博物館に収蔵する。2000年近い年月を外気にさらされて壁画が保存されることはないが、これらが火山灰に埋もれていたということでは、ほとんどその当時に近い状態で我々は見ることが出来ている。(このポンペイの遺構が無ければ、我々はこれほど多くの古代ローマの絵画を見ることはできなかっただろう)

今回の展覧会では、その建物からはぎ取ったフレスコ画をイタリアから持ち込んだのだ。この展覧会では時代区分が様式でなされており、装飾との兼ね合いで、4つの様式に分けられていた。フレスコ画が住居の壁の装飾であったことは生活スタイルと深い関係があったと考えられるが、これらの様式を概略的にまとめると、第一様式(紀元前2世紀~紀元前80年の間、サムニウム時代)では壁には大理石に似せた装飾としてフレスコ画が用いられた。第二様式(紀元前80年~紀元前20年ごろ、建築的様式と呼ばれる)は、壁面に新たな建築が存在するように感じさせるような、だまし絵的な奥行きを感じさせる柱や部屋、そしてその装飾が描かれた。三次元の壁の中に新たな空間を感じさせる錯覚(イリュージョン)を確立させている。それこそが次の第三様式に反映されている。第三様式(紀元前15年~紀元後50年、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラの時代)には絵画的な田園風景やギリシャ神話に出てくるいけにえの羊などの主題が多かったと言われている。そして第四様式(紀元後1世紀半ば~79年、ネロの時代)には再びイリュージョンの表現が空想的な動物や規則に従わない表現が増えたとされている。

美術史家は「何が描かれているか」、テーマの変化、表現の変化に注目する。それに対して私は生涯の興味から「何をどう描いたか」に注目していた。それは画工たちの技巧としての感性がどの様に発展していったかが、最も大事な視点だった。描かれるテーマは注文主の好みで、時代の流行が主で、もちろん画工たちが生きた時代の一般的な表現方法は、職業的能力として周囲を見ながら成長したと想えるからだ。

フレスコ画は私の専門分野ではないが、概略的に技法を述べると、ポンペイでは煉瓦の壁に、火山灰のようなグレーの土に白い石灰を混ぜたモルタルを塗って、壁画の基本画面を作る。その上に下描きとなるデッサンをシノピア(酸化鉄を主成分とする赤色土)あるいはひっかき線で当たりづけデッサンを行う。そして一日分の仕事(ジョルナータ)の区分に従て、白い漆喰を1~2mm程度の厚さに塗り、それが乾かないうちに顔料を水に溶いた水性絵の具で描いた。この水性絵の具は漆喰が乾くにしたがって、固着し、叩いても落ちることのない強固な画面になった。今日イタリアでボンフレスコと呼ばれるのは上記の手法で描かれたもので、メッツオフレスコと呼ばれる方法は乾いてしまった画面に再び漆喰の上澄み液に顔料を溶いて加筆したもの、あるいは卵黄テンペラで加筆したものも含むらしい。今回展示されている時代のフレスコは仕上げに油脂(?)が塗られ、磨かれたそうだ。この油脂はワックスかもしれない。

今回の出品作品には背景が一色で赤あるいは黒で塗られ、その上に人物や風景を描いたものが多くあり、これはメッツオフレスコ技法が当時多用されていたことが分かる。これらは経年で、上の層が剥落しやすく保存上問題になっている。中にはこのような剥落部に、後世の者がテンペラか何かで加筆したところがあって、汚く感じた。

普通フレスコ画は画面が不動で、堅固であるため油彩画のように亀裂は入らない。今回の展示品に多くの欠損や大きな亀裂があるものは、1739年に初めてポンペイが発掘されたとき、国王の絵画コレクションを作るため、壁からはぎ取られ、それぞれ木枠に入れることがされた。この時、多くがそれまで良好な保存状態であったものが、当時の姿を失うことになった。(その経緯については本展カタログの、ロザーリア・チャルディエッロ女史の論考を参照されたい)

多くの壁画が展示のために、小さくはぎ取られ額装された。そのため何処からはぎ取られたのか不明のものも多い。はぎ取り方も、よく思いついたというべき技法で、このストラッポと呼ばれる技法は壁画に膠で布を貼り付けてから、その上を石膏で固め、補強の木材を入れてから、ナイフのように鋭いヘラで、画面後ろの層に当たるモルタル下地(厚さ3~5cm)からはぎ取った。はぎ取られた壁画は裏面から格子状の木枠と周囲を固定する枠で固められてから(現在もこの状態の壁画が残っている)、そして第二様式表の石膏が取られ、膠で固まった布はゆっくり水でふやかして除去される。今日さらにこうして保存されてきたフレスコ画に膠と乾燥時に強く収縮する麻布を貼り付け、漆喰の層だけ剥がれる技法もある。そこではイントナコと呼ばれる赤色土で描いた下絵の層が現れ、これも表を養生してはぎ取られるようになった。つまりこれら二つにされた絵画は制作プロセスを明らかに出来るようになった。

本展では、漆喰の層だけをはぎ取ったものは出品されていなかったが、出品された大きな壁画は下地の層が薄く削られて、軽い紙のハニカム板(厚さ4cm程度)に移し替えられていた。こうして輸送中のリスクを軽減している。

この展覧会で最も私が見たかったのは、ポンペイから出土した壁画ではなく、同じくヴェスビオ火山の噴火によって火山灰に埋もれたエルコラーノという町のアウグステウムで発掘された人物画四部作の一つ《赤ん坊のデレフォスを発見するヘラクレス》を描いた壁画である。紀元後一世紀半(第四様式)ごろ描かれた。

何が凄いかと言えば、立体感、空間感、光の投映そして色彩の扱いである。これらの要素は1300年近く、ルネッサンスが来るまで失われた画家の感性である。ローマ帝国がキリスト教を国教として保護するまで、キリスト教はカタコンベのような地下に潜って布教、信仰を繋いだ。その頃描かれた神の像は、以前の項に書いたことがあると思うが、まさに信者であり坊主である者が描いた、全く技術的にも絵画に成る前のナイーブな絵であった。ポンペイの壁画と共通する様式の装飾や絵画はローマにもあったと思うが、そのときには今回の作品にみられるような、立体感、空間感はマサッチョまで待つほかなかった。古代ローマの絵画にはより早い時期からこれらのフレスコ画に装飾的ではあるが遠近法によって建築内部が表現されている。しかし人物を描く上で立体的に肉体を表現し、明確な地面が描かれ、そこに立つ人物の足元には投映による影(キャスティングシャドウ)が描かれている。しかもわざとらしくなく、空間を作り出す調和をもっている。218x182cmと画面は大きく、短時間には仕上がらない大きさで、ジョルナータで区切って制作されたことは想定できるが、近寄って見ても、どこに線があるのか分からなかった。私の個人的な感想であるが、先に茶褐色の肉体のヘルメスが描かれ、その横に、位置的には後ろに王女アウゲが描かれているが、座っているポーズながら、やたらアウゲの胴体がヘラクレスやその他の登場人物と比べて大きいのは、先にアウゲを描いたからだろうと思う。また、画面左下の赤ん坊のテレフォスが鹿の乳を飲んでいるところを大きく体を曲げた鹿の表現は見事であり。顔をこちらに向けた鹿の体に、背景の明るい壁からの反射光が当たっているところまで表現されている。この画工の観察力のすごさはルネッサンスまで封印された。

当時の絵画力の習得はどの様になされていたのか不明である。

現代のように紙が無かった時代に、どのように二次元の中に立体感や空間感を持ち込めたであろうか?前出のチャルディエッロ女史の論考にそれらしき記述がある。第二様式の時代に既に図案に共通点があり、画工たちは図案帖を作っていたのではないかと推論している。この図案帖がパピルス紙あるいは板に描かれたものか今日残っていないが、画工が注文主の希望を叶えるために、予め見せることが出来た図案があったはずで、選択できるだけの数の図案の存在は不思議ではない。つまり描く練習はこうした媒体でなされたであろうし、他人が描いたものを得て、学ぶことも出来たであろう。とにかく画工自身が立体を感じ、空間を感じ取って描く練習をしなければ、能力として感覚的に身に着かない。

当時の人物表現はエンカオスティック(板に蜜蝋、樹脂と色顔料を混ぜた絵具で描く方法)で描かれた「ミイラの肖像」(棺桶の蓋部分に死者の肖像を描いた板絵)が存在し、板絵としても風景なども入れた絵画が存在している。描き方が全く同じで、こうしたところにも技術の習得が考えられる。古代文献《大プリニウス博物誌35巻》にも板絵やピナクス(画面表に扉が付いた絵)などが壁画の中央にかけられるなどの表現があったと言われている。これらに描かれた主題は繰り返しコピーされたようで、それらを参考にする板絵やパピルスの巻物があったと推論されている。

さて、画工の立体感と空間感、光の扱い方は卓越している。これまで立体感は光の投映による影を入れなくても、表現できることは述べたが、つまり立体として回り込む線をとらえれば、線描だけで立体的に描けるわけだが、周りの背景に及んで、空気遠近法に近い明暗の調整が行われているのは、注目に値する。フレスコ画は描いている最中は水彩絵の具と共通で、濡れ色をしている。この濡れ色の度合いはちょっとした白色の混合で、あるいは濃い色を明るい色に混ぜるとき、極端に乾燥時の明度が変化する。つまり今見ている画面の明るさは、画工が描いている最中はもっと彩度も明暗も強かった。かなりこの技法の特徴に熟練しないと、思い通りの完成にはならない。

この展覧会は、カタログでは4月から6月に福岡開催の予定となっていた。興味のある人は西日本新聞社か東京新聞文化事業部へ問い合わせされると良いかも・・・。

 


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