中国西安で奮闘する大学教師Mの日々

日本人教員として中国の陝西省西安市の大学生・大学院生に対し、「日本文化・社会」や「卒業論文」などを教えています。

中国人の「ナショナリズム」

2013年06月25日 22時11分46秒 | 中国人の思考など
梅雨に入り、この時期特有の上海のむしむしした陽気が続いています。

今日は午前中、色々と雑務を大学で済ませてから上海図書館へ出かけました。
第二次大戦以降の東アジアの国際関係、外交史に関する研究書を読むためです。
それにしても、平日にもかかわらず上海図書館は訪問者が大勢いて席がない(苦笑)


さて、今日は中国人の思考、特にナショナリズムの意識に関する話題です。

2010年、2012年と日中間の領土認識をめぐる政治的対立は今でも記憶に新しいものでしょう。
当時、日本では中国国内における反日、或いは、抗議デモが盛んに報じられました。
報道では日本に関するもの・場所が攻撃の対象とされ、興奮した中国人達が映されていました。

そうした映像や報道から、少なくない日本人があたかも中国人が一丸となってこうした行動していると思われたと思います。
或いは、デモの映像などから中国人のナショナリズム意識の強さ、それによる結束力の高さをみたという人もいるかもしれません。


しかし、実際に中国で暮らしている私の感覚から言えば、上記のような中国人の「ナショナリズム」に対する理解は修正が必要です。

まず、2010年と2012年に発生した中国国内の複数の大規模なデモですが、参加した人々はあくまでも一部にすぎません。
13億以上の人々が暮らす中国では、大規模なデモと言っても大半の人々は参加していないばかりか、関心もほぼ持っていません。
また、デモに参加している人々の多くは社会的にみて貧困層が多く、多くの不満を抱えている社会階層だというも特徴です。
逆に、ある程度の生活レベルに達している人々が、自らの思想的訴えを行うため一緒にデモに参加することは稀だったようです。
よって、デモの映像に映っている人々をして、中国人の大半のケースだと考えてほしくありません。

むしろ大半の中国人が、反日デモなどで一丸となってナショナリズムの意識を高めていくケースは少ないと言っていいでしょう。
もはや中国はそういう社会ではなくなりつつあり、人々はもっと現実主義的・実利主義的な行動を選択するケースが多くなっています。


よって、私は中国人のナショナリズム意識はそれほど高くはなく、それを軸に集団的な凝集力を保つことは難しいと感じています。
約4年の中国の生活経験が一番の根拠ですが、実際、中国革命の父である孫文も、ナショナリズムによって団結しない中国人を、

「バラバラの砂(一盤散砂)」

と表現したと言われています。
よって、通常、中国人がナショナリズムという軸で凝集力を高めるというケースはかなり少ないのが現実と考えていいでしょう。


ただ、このことは中国人が常にバラバラであることを意味しません。
当然、ある条件ができると中国人の集団の凝集力が高まるケースはあります。

では、どういうケースに中国人の集団凝集力が高まるのでしょうか??
この点については次回のブログで書きたいと思っています。

それでは今日はこの辺で。
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食べ物は基本的に“温かく”食べる中国、中国人

2013年04月02日 23時56分43秒 | 中国人の思考など
今日は午後から新校舎で授業があったので、寮のある旧校舎からバスに乗ろうとすると大学正門に人だかりが。



なんだろうと思って近づくと、大学院の卒業生達でした。


中には、既に既婚者で子供もいる学生も。
学位取得し、晴れて卒業する学生達の顔はなんだか晴れ晴れとしていました。



さて、今日は中国における食習慣の一つを紹介したいと思います。
日本では一般的に料理には、温かいものと冷えたものが大体同じ数だけ存在しているように思います。
(もちろん、正確な統計などではなく、生活経験から振返ったもの)
例えば、冬は温かい料理が増え、逆に、暑い夏には冷たい料理が増えます。
季節により、温かいか冷たいかという温度の違う料理を食べ分けていることも日本の特徴だと思います。

このような日本に対して、中国では大半の料理は温かく食べるものです。
それもアツアツで、出来立てを食べるという料理が多いのが特徴といえるでしょう。
逆に、冷えた状態で食べる料理は極端に少なく、季節毎で食べる料理が大きく変わったりもしません。
もちろん、多少は季節ごとの料理の違いはありますが、日本とは比になりません。


ともかく、こうした料理を温かい、いやアツアツの状態で食べるのが中国の食習慣の一つです。

こうした習慣は中国ではどの地域でも確認されると言えるでしょう。
例えば、日本から中国の各都市に進出しているコンビニチェーンで買い物をした場合もそうです。
上海では特に、ファミリーマートが第一勢力となっていますが、そこで何か昼食や夕食の弁当などを買うと、店員は、

「加热吗(加熱しますか)?」

と聞いてきます。
ま、これは日本でも同様でしょうが、中国のコンビニの場合、とにかく何でも色々と「加热吗?」と聞かれます。
例えば、

・おにぎり→ 中身に関わらず何でも、苦笑
・サンドイッチ → 野菜だけのそれでもほぼ確実に
・パックの豆乳 → この場合、レンジではチン出来ないので熱湯の中に数秒入れて温める
・惣菜 → 日本では通常、冷やして食べるホウレンソウなど煮物系も温めることが基本

などなどです。
とにかく、日本のコンビニよりも広い種類の食べ物を「加热」されることが多いのです。

なお、通常の食堂やレストランでも料理が冷えた場合は温めなおしてもらうことは一般的です。
また、そうして食べないと中国料理の味は一番美味しく味わえないと私は思います。

こうしたところにも、中国の食習慣が象徴されているといえるでしょう。


温かい料理を好んで食べる中国の食文化は、やはり日本のそれとは明らかに違うと思います。
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中国人の“食事”への意識

2013年03月20日 21時49分00秒 | 中国人の思考など
今週火曜、自分の授業で新校舎の事務室へ入ると、机の上に置手紙が。





英語で書かれたメッセージは、友人のドイツ人外教からのものでした。
何でも今学期我々は授業日が異なって会えなかったので、

「M先生、もしかして既に日本へ帰ったの??それとも、まだ上海?」

という趣旨のメッセージでした。
まだ上海の同じ大学で働いていることを伝えるメッセージを英語で書き残しておきました。
そもそも彼に私の携帯も教えたはずなのですが、どうして置手紙を残したのでしょうか。
いずれにせよ、私のことを気にかけてくれる彼に対して、何か嬉しい気持ちがわきました。


さて、今日は先日あったある珍事件から中国人の一つの特質を紹介したいと思います。
まずは、私の珍事件当日の中国語日記をお読み下さい。

今天下午我去了上海图书馆,因为我想看跟自己研究有关的研究资料和书。
(今日午後私は上海図書館へ行きました。自分の研究に関する資料と本が読みたかったからです)

去图书馆的时候,我坐出租车。(我坐出租车去图书馆)
(図書館に行くとき、私はタクシーに乗りました)

那时候大概十二点半。我坐出租车的时,我说“到上海图书馆”。
(その時は大体12時半でした。私はタクシーに乗って、「上海図書館まで」と言いました)

但是,出租车师傅回答“对不起,我要吃饭了。所以,不行”。
(しかし、タクシーの運転手は「すみません、私はご飯(昼ごはん)を食べたいんだ。だから、無理」と答えました)

那时候我不相信他的话。大概三分钟后,我懂了他的意思。
(その時、私は彼の話が信じられませんでした。大体3分間の後、私は彼の意味を理解しました)

所以,我告诉他“那好,那我到上海南站,不是上海图书馆”。
(だから私は彼に「それなら分かった、私は上海図書館ではなく、(すぐそばの)上海南駅に行きます」と伝えました)
※大学から近くの上海南駅から地下鉄で上海図書館最寄りの駅まで行くことに変更した

我觉得吃饭对中国人来说是很重要的事,这件事中国人比日本人看得更重要。
(私はご飯を食べることは中国人にとってとても重要であると思いました。このことは日本人よりも中国人はより重要です。)


なお、中国では日本にはない特有のあいさつがあります。
それが「你吃好了吗(=你吃过了吗)?」で、「もうご飯を食べ終わったの」というものです。

この挨拶は日常的に中国のどの地域でも食事時になるとよく耳にするものです。
逆に、食事時にも関わらず食事をしていないと答えると、

「じゃ、先にご飯を食べて」

と食事をとることを何よりも優先させられます。
ですから、食事をとる時間が遅い私などは、いつも学生や寮のおばさんなどに心配され、可愛そうと言われています(苦笑)

このように、中国人にとって“食事”の意味は大きく、また、それに対する意識もかなり高いわけです。
ですから、例えば、中国で男女が二人で一緒に食事をとるということは、日本よりも特別視されます。
中国へ行ったばかりの頃、その習慣をあまり理解していなかった私は同僚からその点を注意されたこともありました(汗)

ですから、学生や独身の女性の先生に何か手伝ってもらって仮に食事を御馳走することはあっても、それ以外で一緒に食事をする時は、誤解をあたえぬ様に独身女性と二人で食べることは極力控えるようにしています。

このように“食事”を大変重視する中国人にとって食事は人と人を媒介するものでもあり、そこから人間同士の関係が広がっていくということもできるように思います。


…それにしても、どうして中国人はこれほどまでに“食事”を重視するのでしょうか。

为什么吃饭对中国人来说很重要?我不知道,你知道吗?
(なぜ中国人にとって食事はとても重要なのですか。私は知りません、あなたは知っていますか。)
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中国における「コピー」への認識

2013年03月12日 02時33分14秒 | 中国人の思考など
今日も上海市档案館へ行き、档案を幾つか収集してきました。
協力してくれた学生Lさん、本当にありがとう!




さて、今日の話題。
私の4年に及ぶ中国生活において、強く感じた一つの違和感が中国人の「コピー」に対する認識でした。

これを示す代表例は、街を歩けば頻繁に目にする「海賊版」の様々な商品です。
「海賊版」が法律上は禁止されているにも関わらず、実際にはそれがどこにでも見られ、誰でも入手できます。

それと同じような例として、学術研究の各成果などが盗作されるなどのケースも少なくないのが実態です。
また、博物館などの場では撮影禁止であるにも関わらず、撮影をしている現場も実際に何度か目にしました。
さらに私の身近な例では、卒論に取り組む学生達が先行研究を自分のものかのように書いてしまい、これが毎年、各教員を悩ませています。


こうした中国における広い意味での「コピー」に対する認識には、最初、私も結構驚いたものでした。
しかし、そうした「コピー」に対する認識が誤っていたとすぐに気づける人の場合は、それほど問題は大きくならないでしょう。
きちんと説明し、それを正すように求めれば、そのように対応してくれると期待されるからです。
(誤解を招かないように補足すれば、中国でこうした「コピー」行為を多少なり「悪い」を感じている人は大半です)

もっとも難しさを感じたのは、そうした「コピー」への罪悪感があまりない人に対して、いかに対応するかでした。
(これは現在も私の課題で、克服できていません)
そのような場合、所謂、「公共」に対する意識や概念が弱いため、仮に正しく「コピー」の問題を説明しても伝わらないことが多いのです。
「公共の財産」を侵害しているという認識、また、それを犯すことで発生する問題、この二点がきちんと認識されていないがゆえに、こうした「コピー」に対する認識がなされているのだと私は思います。

では、どうして中国人にはこうした「公共」意識・道徳といったものが弱いのか。
この点にきちんと答えることはなかなか難しいのですが、関連した内容は以前の記事に書いたのでご覧下さい。

中国人は“個人主義的”か?
http://blog.goo.ne.jp/mimutatsu1008/e/608aed8bdefc1d8d1ef76cc45a097598


私はこの広大な中国の隅々まで実際に自分の足で歩き、見聞きした経験は弱いので、あまり断定的なことは言えません。
ですが、こうした「コピー」への認識は都市部であろうと、農村部であろうと共通して見られる現象といえるでしょう。
そうした地域差はあるのでしょうが、上海市と安徽省農村部の双方で暮らした経験からはあまり大きな違いは感じていません。


ただ最後に付け加えたいのは以下です。
上記のエピソードから、私は中国人の「公共」への意識が弱いことを主張したいのではないのです。
そうではなく、「公共」に対する概念を重視するという点でみれば西洋的な価値観を持つ日本人に対して、
それを必ずしも重視してはいない中国人との価値基準の相違を強調したかっただけなのです。

そして、日本人と中国人は非常に似ているようで、実は異なる価値基準の中で生きている人間であることを知ってほしかったのです。
当然、相違がある一方で類似した点や共通性もあるわけですが、それらを双方ともにきちんと知って相手と向き合うことが必要です。

いい部分だけを、或いは、悪い部分だけを知っているというのは、知っているとは言えません。
相手の“真実”の理解に近づくためには、双方の対話を重ねて双方を客観的につめながら、相手を知っていくしかないと考えています。
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中国人は“個人主義的”か?

2013年03月04日 05時29分09秒 | 中国人の思考など
今夜、一つの原稿(研究ノート)がほぼ片付きました。
主に、12月から取り組んできたものでしたが、約三か月で完成を迎えました。

なお、写真はプリントアウトした修正原稿を撮ったもの。
自分自身で書いたメモ書きなのですが、書いた字が汚くて読めなかったという写真です(苦笑)



さて、今日は久々に中国人の行動様式の特質、その一例を紹介したいと思っています。

よく日本に帰った時、友人や知人から中国人は「欧米的」とか「アメリカ的」と形容する人がいます。
恐らく、こうした人達が言いたいことは中国人が「個人主義的」ということだと私は理解しています。

日本の「集団主義的」であるのと対照的に、「個人主義的」な中国というイメージが結構なされていることに気づきます。

ただ、中国で暮らしている経験からも、また、中国研究者達の見解においてもこれは誤解というべきです。
正確には、彼らが想像する中国の「個人主義」と、欧米のそれとは明らかに別物であるのです。
ある文献では、

中国人が「公」を重んじながらも、その一方で西洋にみられる公共道徳が欠如している点、
逆に西洋では絶対的な「公」の存在を認めるがゆえに、公共道徳を守ろうとする点に着目することで、
中国人の行動様式は西洋の個人主義と似て非なるもの、

と指摘をしています。
(金輝基「中国人的“公”,“私”概念」喬健・潘及谷『中国人的観念與行為』麗文文化事業股份有限公司、1999年)

また、別の文献では中国人の自我意識に対して、「自我主義」として以下のように説明をします。

中国人の行為は、むしろ「自我主義」といえる。
「個人主義」の場合は、集団との対比で論じられ、集団を構成する要素が比較的自由で独立し、
自主性を重んじるという価値観が貫かれている。
しかし、「自我主義」の場合は違う。
そこで支配的なのは、すべて「己」を中心に考えるという価値観である。
自我主義では、「個人と対立する集団」という構図そのものが存在していない。

このような説明がなされ、結論として、中国人の行為を深く理解するためには、
「個人主義」対「集団主義」という構図から脱し、中国人が有する「自己」の特性をきちんと分析、
理解することの必要性が述べられています。
(「試論中国人的『自己』:理論與研究方向」楊中芳・高尚仁『中国人・中国心:人格與社会篇』遠流圖書出版公司、1991年)


私自身、4年を超える中国生活で上記に該当する経験は数多くしてきました。
ただ私の場合は普段触れ合うことの多い年代層は10代~20代の若者達が多いです。
ですから、そうした若者達との交流の例から挙げるとすれば、その一つはカラオケでした。

上海に来てからは自分自身の忙しさもあって、ほとんど学生達とカラオケには行っていません。
ですが、安徽省の大学に勤務してる際は良く行ったので、その時の経験を話そうと思います。

カラオケに学生達と行くと、歌いたい曲を皆がどんどん入れていくのは日本と同じです。
ですが、例えば10人でカラオケに行ったのなら、皆がそれぞれ同じように歌えるよう集団に配慮し、
歌いたい歌を一曲づつ(多くても二曲)入れていくのが日本では一般的だと思います。

しかし中国の場合、学生達は自分の好きな歌を連続で数曲入れることは珍しくありませんでした。
最高では10曲以上連続して曲を入れてしまう学生などもいて、なかなか順番が回ってこないので、
他の学生からたしなめられている学生も出る有様でした。

また、歌っている時にそれを聞いてあげたり、手拍子を取ってあげるという学生もほぼ皆無で、
次に自分の歌いたい歌を探して入力するか、飲み物を飲んだり、食べたり、友達と話す、携帯をいじる学生達が大半でした。

これはまさに、さきほど触れた「すべて「己」を中心に考えるという価値観」の表れだと思います。
こう書くと、中国人はマナーがないなどと批判する人がいるかもしれません。
ただ、それだけでは意味がないことで、その裏にある背景を理解することが大切だと思います。


それについては次回以降、また書きたいと思っています。
今日はこのへんで。
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中国の街でいつまでも残るサンタさんたち

2013年01月17日 05時01分26秒 | 中国人の思考など
数時間後には浦東空港へ着いていないといけません。
冬休み、日本へ一時帰国が出来るのはやはり嬉しいです。
…ただ、今回は春秋航空を利用の為、茨城空港着(涙)

埼玉県浦和の実家まではちょっと遠いな…。


さ、今日は上海の街を歩いていて一つ気づいたことを書きたいと思います。
それは、去年のクリスマス後もいつまでも街に残る“サンタさんたち”についてです。

   


サンタさんと言っても、要するに、写真のようなポスターやデコレーションされたサンタさんです。
去年のクリスマス以後からずっと気になっていたのですが、元旦を過ぎても一向になくなる気配がありません。

今日出かけた上海の人民広場近くにある外文書店では、新年とクリスマスを一緒に祝ったデコレーションも見られました。
また、せっかくそこまで出かけたので周囲の租界時代の建築を見て回った際に、
中国の春節と去年のクリスマスを同時に祝うような雰囲気の飾り付けも見られたのには驚きでした。

要するに、

“日本と比較すると、中国では季節の風物詩を代表するものにあまり敏感ではない”

と強く感じました。
逆に言えば、

“日本人は季節の風物詩や、季節の移り変わりに大変敏感である”

と言えると思います。
だからこそ、私はこうした中国の街の様子に違和感を感じたのでしょう。

思えば、国語学の権威である金田一春彦氏の著書『日本語』上巻(岩波書店、2012年)にも同様の記述内容がありました。
なお初版は1988年で、これは47版目。すごい…。

「春めく」や「秋めく」という言葉も、まさに季節の変化を表した言葉です。
また、「初霜」「初雪」「初鰹」「初時雨」なども季節の推移を表現する風物で日本的語彙です。

そして、「季節はずれ」という単語も日本ならではのものだそうです。

季節の移り変わりを表現した和歌や俳句が数多いのをみても、このことが確認できるかもしれませんね。


ともかく、こうした季節に対する認識と感性は日本人と中国人の間で違いがあるのは確かなようです。
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