こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

池田学展。

2017年06月18日 | 日記

 池田学のことは、今年NHKのドキュメンタリーを見て知った。
 細密なんて言葉で表現できない、細いペンでちまちまこまこま描かれた作品である。
 初めに白黒の割合大きい作品が展示してある部屋に入った。
 目を凝らして隅々までみたい。
 急にこみ上げるものがあった。
 わたしたちは言葉のイメージから離れるなんて事は多分出来ない。
 それでも、その場での感動を,言葉にしたくない気がしている。
 体の中からわいた感情を自分の稚拙な言葉世界で表現したくないと思ってるのだろう。

 それでも,何か言いたくなる。
 人間を含め様々な生き物が絵の中を蠢いている。
 それは或は戦いだったり、遊びだったり、ファンタジーの世界だったりする。
 作者のメッセージとか、意図だとかは余り考えた事がない。
 旦那に言わせると、観客は絵を見て,その中に自分の人生を見る,と言う。
 恐らく感情がこみ上げたのは、絵の中のあらゆる表現があらゆる命を肯定してるような気がしたからと思う。
 作品の数はとても多くて、短時間では見た気がしないかも知れない。
 日曜日とあって、人がとても多かった。わたし自身、展示場の中に長く居られるような状況ではなく、
 そこそこに引き上げたけれど、もう一度来たいと思った。
 時間をかけて、何度もじっくり見たかった。
 最も大きい桜の作品の前に立った時、またこみ上げて来た。
 何が描かれているとかは、よく分からない。
 その絵は近づく事が出来なくて,椅子に坐って眺めた。
 作品から,何かが発信されているのだろうか。
 ただ、圧倒されたのだろうか。

 不思議なのは、池田学の作品を見て,わたしも絵が描ける,と思わせてくれることである。
 あの緻密さは狂気とさえ思われるけれど、その絵の世界に多分,わたしも生きている一人として生きているような気がする。
 わたしも絵が描ける,と思ったのはわたしだけではなかった。
 絵の部分が積み重なり盛り上げられて作り出す壮大な曼荼羅のような世界が描けるとは思わない。
 でも,その部分に活き活きと描かれる小さな世界はわたしと繋がっていると思えてしまう。
 ほんとは有り得ないほど、その画家の本質は拡張高い。わたしに描ける訳がない
 にもかかわらず,わたしも絵が描けると思うのである。面白い。
 金沢まで出向いて良かった。
 
 孫の写真を撮ろうとデジカメを持って行ったのに,一枚も撮らずに帰って来てしまった。
 ピンと来なかった孫の存在が少しづつ沁みて来る。これも不思議だ。
 
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ちょっと反省。 | トップ | 共感したい。 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。