未来の中高生達の世界史の教科書にのるような大きなニュースがあった。
通信の発達により市民の意志を結びつけたインターネットを手段とする市民革命。
チュニジアで起きた変革はアラブの強国(大国)エジプトの政権さえも転覆させた。
思い起こせば世界が驚愕したサダト大統領の暗殺事件(映像)から30年。
副大統領から昇格したムバラク大統領が振り下ろしたナタは、
サダト大統領の暗殺を実行したイスラムの過激分子の一掃からはじまる。
サダト大統領の暗殺の大きな要因となった、
キャンプデービット合意によるイスラエルとの和平。
ムバラク大統領の困難な立場(国家状況)での政権委譲は、
サダト大統領の暗殺と言う異常事態により実現し、
異常事態を収拾するための強権政治は“権限の独裁”につながった。
今日は堅苦しい話題とは違った、
“想い=イメージ”も文字にしようと思う。
新しい文化・文明とのつながり。
先般放送された、
大河ドラマ“江・姫たちの戦国”の序盤ハイライト“本能寺炎上”の主役:織田信長。
今週(先週に引き続き)に集中放送された
“坂本龍一:スコラ・音楽の学校”の特別講座(1)で語られたベートーヴェンとナポレオン。
織田信長をイメージするキーワードとしての鉄砲とバテレン。
クラシック・ファンがナポレオンをイメージするキーワードとしての、
ベートーヴェンの“エロイカ”とチャイコフスキーの“1812年”。
美術ファンがイメージするナポレオンはジャック=ルイ・ダヴィッドの、
『ナポレオンの戴冠式』や『アルプス越えのナポレオン』かも知れない。
~ダヴィッドは信長に使える狩野永徳のような存在?
安土・桃山の時代の革新は新しい文明と文化が花開いた時代。
西洋より持ち込まれた鉄砲(文明)とキリスト教(宗教=文化)は、
それまでの“常識にしがみついていた者”の既得権を排除した。
おそらくは、
西洋の文明と出会うことで意識改革(慣習の非合理を否定)した信長の快進撃。
そして、
信長自身の意識改革から重用され下層階級から出世の道を歩んだ豊臣秀吉。
安土・桃山時代の象徴としての(農民出身とされる)秀吉の手による天下統一は、
日本人にとっての“階級革命”でもあった。
~南北朝時代(不安定な統治)以後に顕著となった下克上と呼ばれる社会変化も要因?
ナポレオンの出現は、
王政に反発した国民(市民)によるフランス革命で手に入れた人権宣言の時代。
しかし、
新たに政権に就いたジャコバン派(等)による行き過ぎた恐怖政治への移行。
市民の不安は軍による平静と統治を英雄(ナポレオン)に託した。
~後にナポレオンのロシアでの敗北(1812年)、ウィーン会議、2月革命、7月革命と続き、
フランスで起きた市民による革命運動の流れは周辺諸国の変革への動きを加速された。
“坂本龍一:スコラ・音楽の学校”で語られたベートーヴェン。
市民による民主的な政治をナポレオンに期待し作曲された『英雄交響曲』(第3番)。
しかし、
ナポレオンが“皇帝の座”につくことで民主政治への希望を失ったベートーヴェンの怒り。
破り捨てられたエロイカ・シンフォニーにまつわる有名な話は現代にも語り継がれている。
また、
ナポレオンの時代以後のベートーヴェンの作風(音楽表現)は劇的に変化し、
“時代に感化される芸術家の作風の変化”についても番組では述べられた。
話を戻そう。
2011年2月11日(現地時間)エジプトで起きた市民革命の結末。
欧米諸国(日本を含む)で開発され世界に配布された、
・市民同士の意思疎通を容易にする通信ネットワーク手段(=文明)。
・通信革命により簡単に手に入る世界の情報(文化=異なる思想・行動の収得)。
チュニジアで起きた“世界の潮流にとっての小さな出来事”が、
結果として、
素早く反応したエジプト市民(特に若年層)による“大きな変革”につながり、
アラブ諸国の民主化運動へと急速に加速する予感と不安は、
アラブ諸国が求める市民の民主化とは何かを学ぶ機会となるだろう。
~エジプト国民の80%以上がイスラム教信者である事実も考慮。
さらに世界の大国となった、
隣国:中国が怖れる“市民の民主化運動”の高まりへの不安要素。
~さらにアラブ・中東諸国をめぐるアメリカとのパワー・バランスの変化。
目の前で起きている、
未来の中高生達の歴史の教科書に記載される大きなニュース。
私達は日本国民は対岸の大きな潮流の変化を、
冷静な目で捉え伝える必要に迫られている。
~以下Web記事転載。
『エジプト独裁30年で幕:ムバラク政権崩壊』
*中日Web→ http://www.chunichi.co.jp/article/world/news/CK2011021202000179.html
エジプトで続く反大統領派デモを受け、
スレイマン副大統領(75)は11日午後(日本時間12日未明)、
国営テレビを通じムバラク大統領(82)の辞任を発表した。
30年にわたるムバラク体制は崩壊し、
国政は暫定的に軍最高評議会が担うことになった。
チュニジア政変に続きエジプトでも反政府デモをきっかけに、
独裁政権が倒れたことでアラブ世界は歴史の転換点を迎えた。
ムバラク大統領は同日家族とともに首都カイロを脱出、
エジプト東部の紅海沿岸の保養地シャルムエルシェイクに到着した。
軍最高評議会の議長にはタンタウィ国防相(75)が就任。
同評議会は声明で、
「偉大なる人々の願いを実現するための方策を検討している」と表明し、
民主化に向けた具体的な日程などは後日発表する方針だ。
最大野党の穏健派イスラム原理主義組織ムスリム同胞団幹部は、
AFP通信に対し、
「偉大なるエジプトの国民、軍に敬意を表する」と述べた。
反大統領派に加わっていた、
国際原子力機関(IAEA)前事務局長のエルバラダイ氏(68)は、
「私の人生で最良の日だ」と語った。
ムバラク大統領退陣を求めるデモは1月25日に始まった。
チュニジアのベンアリ前大統領(74)を同月14日に亡命に追い込んだ、
“ジャスミン革命”に触発された若者らが、
インターネットの簡易ブログ:ツイッターなどを通じデモへの参加を呼びかけた。
ムバラク大統領は首相以下の内閣総辞職や、
9月までに行われる次期大統領選への不出馬表明、
スレイマン副大統領への権限委譲など次々と妥協策を繰り出したが、
デモは収束せず辞任は避けられない情勢だった。
ムバラク大統領はエジプト北部メヌーフィヤ県生まれ。
1973年の第4次中東戦争では空軍司令官としてイスラエルへの奇襲を指揮し、
75年に当時のサダト大統領から副大統領に抜てきされた。
イスラエルと平和条約を調印したサダト大統領が81年に暗殺され大統領に昇格した。
【ムバラク政権下のエジプト】
1981年10月。
暗殺されたサダト大統領の後継者として、
空軍出身のムバラク副大統領が国民投票を経て就任。
イスラエルと平和条約を結んだサダト路線を継承するとともに、
軍を掌握し約30年間にわたり独裁体制を敷いた。
1981年以来治安当局に強大な権限を与える非常事態法が出されたまま。
エジプトは人口約8300万人。
正規軍約46万人のほか、
内務省所属の中央治安警察軍約32万人。
2009年の国内総生産(GDP)は約1884億ドル(約15兆7000億円)で、
観光業や石油輸出、スエズ運河の通航料が主な外貨収入源。
(2011年2月12日:共同)
『社説:エジプト国民が覆した世界の独裁の常識』
*日経→ http://www.nikkei.com/news/editorial/
【エジプトのムバラク大統領の辞任】
1月25日に始まった反政府デモは、
30年近く続いた独裁体制を18日間で倒した。
驚くべき速さだ。
インターネットを通じて広がった国民の連帯による独裁打倒は、
これまでの国際政治の常識を変える。
アラブで最大の人口を抱え地域の安全保障の要であった国の激変は、
中東をめぐる国際関係に大きな影響を及ぼすが国際社会は変化を歓迎し、
民主化が着実に進展するよう支援していく必要がある。
【体制移行の課題も多く】
エジプト国民が求めたのは過去の政治への明確な決別である。
政治の権限はとりあえず国軍の最高評議会に委ねられた。
政治危機の中で軍は中立的な立場を続け権威を保ってきた。
軍首脳の中にはムバラク側近とみなされてきた人もいるが、
国民の多くは軍に信頼を置く。
軍は早急に民主化の手順、
政治改革の行程表を明確に示さなければならない。
公正な選挙の実現に向けて、
野党勢力の大統領選立候補を困難にさせていた憲法の改正。
通常の司法手続き抜きに反政府勢力を拘束できる根拠となっていた、
非常事態法の解除を急ぐ必要がある。
オバマ米大統領は「エジプトの民主化は始まったばかりだ」と指摘した。
民主的な政治体制への移行にあたって、
課題が山積していることも認識しなければならない。
革命を先導したのはフェイスブックやツイッターなど、
新しいメディアを通じたインテリ中間層のネットワークだ。
宗教色は比較的薄い。
だがムバラク政権打倒に結集した国民のすべてが、
西欧的な“市民社会”を目指しているわけではない。
事実上の最大野党であるイスラム原理主義組織“ムスリム同胞団”の、
幹部の多くは大学教師や弁護士、医師などだが、
イスラエルとの平和条約破棄、イスラム法の徹底などの原則論を掲げる。
国内の警戒感も根強いし、
イスラエルや米国はさらに強く同胞団の台頭を警戒する。
同胞団への国民の支持がどのくらい強いかについては見方が分かれるが、
同胞団が武力闘争路線をとらず複数政党による選挙制を是とする勢力である以上、
これを排除することはできない。
むしろ“こうしたイスラム勢力”をいかに政治改革のプロセスに加えていくかが、
これからの中東の民主化で重要になる。
ムバラク政権打倒のデモで同胞団は積極的に前面に出ず、
次の政権をめざす意思もあいまいにしている。
その背景には高率の失業やインフレへの不満を、
短期間に解消するのは難しいという事情があるようだ。
選挙を経て生まれる新政権が安定するか否かも経済情勢次第だ。
イスラエルとの平和条約締結から30年以上を経て、
戦争の悲惨さや軍事対決による経済の疲弊を知らない世代が、
今やエジプト国民の多数を占める。
イスラム勢力でなくても“反イスラエルや反米”の感情はかなり強い。
そうした感情が政治の前面に出るのを封じてきた独裁政権の崩壊によって、
中東和平をめぐる政治環境は大きく変わる可能性もある。
長年独裁政権を外交のパートナーとし独裁下の“安定”に頼ってきた、
米国も欧州諸国も日本、外交戦略の練り直しが必要だ。
重要なのは民主化で自由にものを言えるようになるだけでなく、
国民の多くが生活もよくなったという実感を抱けるようにすることだ。
これまで米国の援助は軍事中心、日本の援助はハコモノ中心だった。
エジプトでは日本の協力による科学技術大学も最近開校した。
【国民に資する援助に】
“新たな産業、人材の育成、雇用創出、生活環境の改善”
に結びつくような支援に日本はもっと力点を置くべきだ。
それは、
中東やアフリカで強権的な政権と緊密な関係を結んで、
資源の確保などを進める中国と異なり、
相手国の国民から感謝される形で絆を強めることにつながる。
所得水準が高く所得税も存在しないサウジアラビアやアラブ首長国連邦など、
湾岸アラブ産油国に革命的な動きが一気に広がる可能性は現段階ではまだ小さい。
だが、
エジプトの独裁崩壊のインパクトは大きく、
他のアラブ諸国も政治改革の道筋を示さないと、
中長期的な安定は確保できなくなる。
日本がエネルギー資源の多くを依存するこの地域の国々の、
政治改革や雇用創出への側面支援は経済安全保障戦略としても重要である。
経済成長の半面での人権抑圧や若年層の雇用の問題やインフレの重圧は、
世界の多くの新興国・発展途上国にも共通する。
中国も例外ではない。
今回のエジプトの政権崩壊に最も神経質になり、
情報統制を強めているのは中国だ。
新しい形の「革命」の影響は中東を超えて世界に広がりつつある。
さまざまな不確実性もはらんだ変化の行方に目を凝らす必要がある。
(2011年2月13日:日本経済新聞社説・記事転載)
『社説:エジプト革命、変わるアラブの模範に』
*毎日→ http://mainichi.jp/select/opinion/
【まるで大河のようだ】
膨れ上がる民衆が口々に大統領辞任を訴えて行進する。
首都カイロの広場でも大統領宮殿の前でも。
これほど大規模で怒りのこもった集会をアラブ世界では見たことがない。
しかも抗議行動は最後まで平和的だった。
エジプトの市民たちが粘り強い抗議によって、
約30年に及ぶムバラク時代を終わらせ、
新たな歴史のページを開いたことを高く評価したい。
大統領の即時辞任によって新しい国づくりを始める。
それがエジプトの民意であることは明白だった。
国民の願いがかないエジプトは新たな出発点を迎えた。
1981年から続く非常事態令の解除などを通じて、
エジプトの暗い側面を一掃しアラブ民主化の模範になるよう期待する。
【民衆の怒りを軽く見た】
それにしても遅すぎる辞任だった。
ムバラク氏は1日の演説で自分は9月の大統領選に立候補しないと述べ、
各種の改革を約束したが即時辞任は否定した。
抗議行動が衰えなかったのは当然である。
改革は必要だがムバラク政権下の改革は信用できない。
大統領辞任が先決だと人々は訴えた。
10日の演説ではムバラク氏が辞任を表明するとの観測も流れたが、
自分の権限をスレイマン副大統領に移譲すると述べただけで、
9月までの任期を全うする意向を示した。
これがまた民衆を怒らせた。
ムバラク氏は潮時を見誤り広場に集まる民衆の怒りを軽く見た。
大統領を長年務めた自分に花道を用意してほしいと考えたのなら見通しが甘い。
国民の間には権力者の“居座り”への嫌悪感が強まる一方だった。
ムバラク氏の辞任でエジプトは大きな転換期を迎えたが、
新体制への明確な道標があるわけではない。
大統領の権限は軍の最高評議会に移譲され、
軍が暫定的に新政権への移行過程を監督するという。
当面の焦点は新大統領と議会の選挙だがどんな規定で選挙を行うのか、
誰が大統領選に立候補して誰が当選するのかすべてはこれからだ。
しかしそれだけ大きな可能性が開けている。
アラブの盟主たるエジプトの改革と民主化を世界が見守っている。
前大統領が国外脱出したチュニジアの“ジャスミン革命”とエジプトの“ホワイト革命”。
ともにアラブでは前代未聞でありドミノ現象が起きた東欧革命を想起させる出来事だ。
ただ米国や欧州にはエジプト激変への警戒感が強いのも事実だ。
ムバラク氏が米テレビとの会見で、
自分が辞任すればエジプトはイスラム原理主義のムスリム同胞団に乗っ取られ、
“カオス(混とん)”に陥ると警告したのはこうした懸念を踏まえた牽制だろう。
しかしエジプトの民衆はイランにおけるイスラム革命(79年)のような、
変革を求めているのではあるまい。
チュニジアでもイラン化の兆候は特に見えない。
チュニジアもエジプトも若年人口が増え、
しかも若年層の失業率が高い。
政変の原動力になったのはイスラム教やアラブ民族主義に基づくイデオロギーではなく、
「これでは生きていけない」という現実的な危機感だろう。
この辺がチュニジアのベンアリ前大統領やムバラク氏には見えていなかった。
しかもネット上のフェースブックなどを通して抗議行動が盛り上がる現象には、
秘密警察もなすすべがなかった。
政権側から見れば雇用創出のために情報技術産業に力を入れたのが裏目に出たが、
これも時代の流れである。
【湾岸諸国の改革も必要】
中東も民衆の生活感覚が政治を変える時代に入った。
「よらしむべし。知らしむべからず」
の強権政治は改めるべきである。
民衆の急激な意識改革が進む中、
イエメン、ヨルダン、アルジェリア等で改革の動きが出ているのは喜ばしい。
保守的な政治体制を維持するペルシャ湾岸の王国・首長国にも、
政変の波紋は伝わるはずだ。
サウジアラビアには明確な憲法もなく女性の社会進出へのハードルも高い。
サウジ首脳がエジプトの抗議行動に批判的なのは、
自国への飛び火を恐れてのことだろう。
確かに湾岸諸国の動揺は石油価格の高騰などにつながり世界経済への影響も大きいが、
だからといって湾岸諸国のみ改革の例外とする時代でもないはずだ。
エジプトやチュニジア。
そして中東全体が今後どのように変わるのか予測は難しい。
米ブッシュ前政権はイラクを手始めに中東を民主化すれば世界は安全になると考えた。
しかし、
強権的な長期政権が倒れれば抑え付けられていた勢力が頭をもたげる。
その勢力も含めてどんな政治体制を築くかは“ひとえにその国の人々の選択”である。
民主化や改革には「両刃の剣」の側面がある。
例えばエジプトの新政権がイスラエルとの和平条約の維持に難色を示せば、
国際秩序の混迷は避けられない。
しかしグローバル化が進む世界にあっては国際協調を先進国が働きかけるのも大事だ。
その点で中東には伝統的に親日的な空気が強い。
国際協調路線の継続のためにも、
日本政府はエジプト、チュニジアの国づくりに積極的に協力すべきである。
(2011年2月13日:毎日新聞社説・記事転載)