本来は、昨日記事にしなければならない出来事なのですが、
所要で見ることができず深夜のダイジェストを録画して、
今見終えたところです。
東京・両国国技館で2009年1月25日、
大相撲初場所千秋楽で朝青龍が通算23回目の優勝。
大きな歓声に包まれました。
瞬間視聴率は、36.7%。
午後5時〜6時の平均視聴率は、27.1%。
と、何れも高い数字を示しました。
場所を通じてチケット販売は、
昨年の初場所と比べても15日間で計2085枚の売り上げ増。
満員御礼も昨年秋場所より1日多い7日間となった。
(Webニュース:記事参照)
いずれにしても横綱・朝青龍の動向に注目が集まった場所でした。
よく、友人達と
「朝青龍が日本人だったら千代の富士以来のヒーローなのにね。」
と話します。
朝青龍の相撲道を見るとき、素行が悪すぎると言われます。
・取り組みに見られる横綱らしからぬ動き(胸を貸さない)。
・土俵上での感情を剥き出しにする姿勢。
・聞く耳を持たぬ態度。
・酒癖の悪さ。
そして、何よりも
・巡業を休場しながらも地元モンゴルでのサッカーのイベントに参加。
などで、大きなパッシングを受けました。
同じモンゴル出身の横綱・白鳳は、
物静かでありながら物腰も穏やかで、
取り組みに見られる余裕ある態度は、
横綱らしい動きとして高い評価を受けています。
では、本題に入ります。
相撲が美しく、横綱らしい横綱・白鳳と、
闘争本能を武器に横綱らしからぬ横綱・朝青龍。
既存の相撲ファンが求める相撲と
一般の流動的な相撲ファンが求める相撲。
相撲は神聖(神への奉納)なもので、スポーツである前に武道であるとの見方。
相撲を格闘技の一部と捉え、力士の勝負のみに目が行き、強ければ良いと考える見方は、「横綱は、強くなくっちゃ。」との麻生首相の言葉に代表されます。
大相撲の横綱審議委員会は26日の定例会合で、白鳳との優勝決定戦の後に、土俵上で両手を上げてガッツポーズをした朝青龍のパフォーマンスに批判的な意見が出た。
との意見と、世間一般の意見に差異があるように感じます。
市場(ファンの要望)がすべてではありませんが、
今場所の朝青龍の活躍は、低迷した相撲界に
活性を与えたのは事実です。
白鳳の地味な取り組み姿勢も、
朝青龍の派手な自己主張と対比されてこそ光るのであって、
白鳳一人で大衆を惹き付けるだけの認知をされてはいないでしょう。
朝青龍の前に<蛇に睨まれた蛙>のごとく、縮み上がってきた既存の力士達。
今場所の恐い朝青龍復活は、相撲界にそのことを思い起こさせたのも事実です。
しかし、
そんな中での白鳳との本割での勝負に見る実力差は、すでに逆転しているように感じた方も多いことと思いますし、今後も朝青龍一人が優勝を重ねていくことは困難だと思います。
憎い朝青龍に胸を貸す強い横綱・白鳳。
中々、白鳳の前に勝てなくなった朝青龍への判官びいき。
今後は、そんな土俵構成をイメージする相撲ファンも多いことと思います。
衆議院議員で元プロレスラーの馳浩代議士が、プロレスラー時代に
「真のメインイベンターとは、強いレスラーではなく客を呼べるレスラーだ。」
との言葉を思い起こします。
また、昨年の北京オリンピックの柔道男子100キロ級で金メダルを獲得したモンゴルのツブシンバヤル選手(1回戦で鈴木桂治選手に一本勝ち)が、優勝した瞬間に両腕を突き上げ喜びを表現したポーズも思い起こします。
柔道がjyu−doに変わってしまったと嘆く方々もいますが、
国際競技として認知された柔道に日本の礼節を押し付けることは、
メジャースポーツとして正しい判断なのかどうか?
相撲や柔道は、
スポーツではなく日本人の日本人のための神聖な武道であると、
他国民に強要することは、
「郷に入れば、郷に従え。」の価値観であり、
変化を否定するそうした思考が、
正しいか否かの問答も肝要かと感じますし、
変化なき文化は廃れます。
イチロー選手は、アメリカ大リーグの数々の記録を塗り替えながら、
WBCでは、日本代表選手として戦います。
アメリカ人は、日本人であるイチロー選手をどのように見ているのでしょうか?
アメリカ(ハワイ)、モンゴル、ロシア、東欧諸国などに力士を求めた日本の相撲協会。
・僅か、270万人強の人口(大阪市とほぼ同じ)しかいないモンゴル。
・7人の横綱・大関の中で3人がモンゴル出身と言う事実。
相撲教会が国際化を認めながらも日本人力士に番付優遇(小錦問題)を実践してきた事実。
もし、朝青龍が日本人選手だったら?
過剰なまでの子供じみたパッシング報道があったのでしょうか?
もしかすると、日本人力士の不甲斐なさに対する失望感を、
朝青龍の強さに責任転嫁していはいないのでしょうか?
*「強いから憎い。」
それは、プロスポーツ選手には重要な評価です。
しかし、スポーツである前に神聖な武道や芸能としての価値を重んじるなら、
強いだけではない評価としての横綱の意味を文書で表記すべきです。
横綱の意味を曖昧にするから多くの日本国民(一般の相撲ファン)が、
外国人に対しての行動制限に不信を抱くのではないかと思います。
話は変わりますが、毎年夏にBS2で放送される高校演劇(青春舞台2008 〜高校演劇全国大会〜)に出場された学生さんの言葉の中に、ボクシングの亀田興毅選手への過剰な(いじめ)報道に心が痛んだとの発言があったと記憶しています。
行動の是非に対し論評を展開し、
「自分の発言だけが正しい。」
かのような意見を述べ同調者を募り
攻撃すべき行動をとった一個人を排除しようとする、
無責任な輩の意見に真実を求める報道(情報)番組や、
多くの情報誌。
*排除と指導は違います。
指導・注意・警告等の言論の自由が統制されることは避けなければならず、そうした論評が活発でない社会は萎縮しダイナミズムが薄れます。そのことは、決して付け加えなければならない自明です。
その同じ番組の中で、
先日オバマ大統領の<苦痛の就任演説>に対し、
感動に震えると発言する論説。
・人種の融和。
・宗教の融和。
限りない難題を抱えた世界の中で、
「自分の発言だけが正しい。」と
力強く発する言葉の空しさと危険。
青少年達には、
彼らの偏った論説に何を感じるのでしょうか?
いつもの事ながら、
相撲協会と外国人選手の長い屈折や、
人種差別や少数派の排除が漂う報道番組や情報誌。
(その逆も多く、少数派偏重の誘導報道も過多。)
私には理解できない番組(誌面)制作も実は、
市場原理(数字の追求)に左右されているようです。
市場=大衆心理。
人種の確認は、アイデンティティの確認に繋がります。
アイデンティティの真実。
それは、余裕のない時代の中では、
残酷に変化するものなのかも知れません。
そのことの意味については、歴史が証明しています。
そんなことを感じながら、おやすみなさい。









