ルツェルン音楽祭2010
『アバド渾身のマーラー!』
~交響曲第9番ニ長調~
~BShi:2011年 2月20日(日)午前1時18分~午前2時54分(終了)
~2月19日(土曜日)深夜プレミアム・シアター枠内での放送。
~BS2:2011年3月7日(月)午前2時58分~午前4時34分頃(再放送)
~3月 6日(日曜日)深夜プレミアム・シアター枠内での放送。
<mimifukuから一言>
クラウディオ・アバド&ルツェルン音楽祭管弦楽団 “恒例のマーラー”演奏会。
その頂点を極めると考えられる2010年8月に演奏された交響曲第9番ニ長調。
マーラーが“死と正面から向き合った”とされる屈指の名曲。
このブログでは過去にも“この曲”についての記述(下記再編集)がある。
*ベルリン・フィルのすべて:mimifuku的評説(その2)
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20080323
ベルリン・フィルのヴィオラ奏者として42年余り在籍した土屋邦雄さんが、
バーンスタインが一度だけベルリン・フィルを指揮したマーラーについて、
「マーラーの第9番って、
バーンスタインが振るまではあれほど悲痛な曲とは考えていなかった。
バーンスタインはリハーサルから泣いてるんだから。
以後ベルリンでもマーラーの第9は“イイゾ”と注目するようになった。」
このバーンスタインが演奏した1979年のマーラーの第9交響曲ニ長調は、
通説では一期一会の感動の名演奏との評価を得ている名高い録音(ライブ)。
しかし一説ではベルリン・フィルのメンバーがバーンスタインの要求に辟易し、
やる気を失くしていたとの説もあるようだ(真相か如何に?)。
また土屋さんが述べた“以後注目するようになった。”の意味は、
その後にカラヤンが1979~80年にスタジオ録音。
さらに1982年にはライブ録音を試みており、
1982年のライブ録音は、
ベルリン・フィルのオーケストラとしての精度が、
最大限に発揮された名演奏として評価が高い。
しかしこの演奏もマーラーの持つ、
“死への精神性=死の恐怖との対峙”が欠如しているとの指摘もあり、
この2人の大巨匠による第9交響曲の演奏を聴き比べてみると、
クラシック評論の限界点や問題点が見えてくる気がする。
私の愛聴盤は、
カラヤンの82年盤の耽美主義に徹した極上の機能性と音の美しさが1番で、
バーンスタインの85年盤(コンセルトへボウ管弦楽団)が2番だ。
*NHK-BS:『レナード・バーンスタイン没後20年(3週連続放送)』
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20101006
第9番は先にも紹介したが“マーラー芸術の頂点”として君臨。
悲劇か耽美か愛か?
バーンスタインの演奏は概ねテンポが遅く感情の揺さぶりが顕著。
劇的な表現を望むならバーンスタインの右に出るものはいない。
耽美(儚く美しく)な演奏を望むならカラヤンのライブ演奏は空前絶後。
愛に満ちたマーラーは近年のアバドの神がかり的な演奏が最右翼。
余談ながらマーラーはユダヤ人として知られ、
初めてマーラー全集を完結させたバーンスタインもユダヤ系ロシア移民。
(注)モーリス・アブラヴァネル指揮:ユタ交響楽団が最初の全集との記述も。
フルトヴェングラー、カラヤン、ベームなどの著名なドイツ系の指揮者が、
ブルックナー(オーストリア)には執心だったのに対してマーラーには距離。
(想像される)ドイツ人とユダヤ人との深い傷跡(暗い過去)。
バーンスタインの最初の全集(1~9:CBS)は1968年でその録音の殆どが、
ニューヨーク・フィル(8番:千人の交響曲だけがロンドン響)の演奏だった。
戦後を代表する2大巨匠が鎬(しのぎ)を削った名演奏。
マーラーの9番について少しだけ学習したい。
『マーラーの交響曲第9番ニ長調』
・1909年夏に作曲を開始。
・1910年4月に完成。
・1911年5月11日にマーラー死去。
・1912年6月に弟子のワルターの手によって初演された。
付帯事項として、
・1907年7月に長女のマリア・アンナをジフテリアで失い、
・同年同月にマーラー自身の心臓疾患が発見される。
マーラーは自らの死期を悟り体調を考慮しながら作曲を続け、
この曲や“交響曲:大地の歌”を通して死と向き合ったとされる。
歌唱のない純器楽曲の交響曲第9番ニ長調は、
伝統にそった4つの楽章で構成されている(ただし最終楽章にアダージョ)。
☆第1楽章:アンダンテ・コーモド:ニ長調(ソナタ形式)
~当初“わが消え去った青春の日々よ、わが消費された愛よ”のスケッチ。
☆第2楽章:ゆっくりとしたレントラーのテンポ:ハ長調(ぎこちなく粗野に)
☆第3楽章:ロンド・ブレスケ(道化):イ短調(きわめて反抗的に)
~スケッチでは“アポロにいるわが兄弟に”と記述。
☆第4楽章:アダージョ:変ニ長調(ロンド形式)
~曲の最後の小節に“死に絶えるよう”にと指示(pppp)。
【マーラーの第9を鑑賞する前の注意点】
クラシック初心者には骨の折れる大曲(約80分)であること。
マーラーの9番の特徴として全曲を通して聴くと“不思議な違和感”を覚える。
第1楽章と第4楽章は音の輪郭は曖昧でありながら曲の流れは大河の如く。
第2楽章と第3楽章は音の輪郭は明快ながら曲の繫がりに不安定な印象。
第1楽章と第4楽章は音の流れに身を任せれば心地よく聴く事ができるが、
第2楽章と第3楽章は何度か音楽の流れが止まることで慣れない耳には混乱。
そのため初めてこの曲を体験する方は、
録画したものから“第4楽章”だけをチョイスし何度か聴きなおし、
全体像を知りたくなれば全曲を通して聴く事がお薦め。
【マーラーの第9交響曲:第4楽章】
2010年10月にBSで放送された、
『バーンスタインのマーラーの交響曲第9番(リハーサル付き)』
では第4楽章に焦点をあてたバーンスタイン自身の解説があった。
生きたいと願う強い意識(西洋的?)と、
死を受け入れようとする意識(東洋的な瞑想)が交互する曲の進行は、
生への激しい欲情と死の受け入れの葛藤を表している。
しかし曲は死に向かって前進(時間の経過)し、
静寂の中で死(最期)を迎える。
マーラーの第9番:第4楽章に秘められた、
約25~30分間のドラマはバーンスタインの解釈を参考。
決して標題音楽ではないが曲想に“ストーリー”を作ることで、
音楽鑑賞(&演奏表現)は劇的に聴く耳を刺激する。
~ただしストーリーはあくまでも個人の想いでしかないことも認識。
【アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団のマーラー演奏】
*ルツェルン音楽祭2003
『交響曲第2番ハ短調“復活”』(マーラー作曲)
*ルツェルン音楽祭2004
『交響曲第5番嬰ハ短調』(マーラー作曲)
*ルツェルン音楽祭2005
『交響曲第7番ホ短調“夜の歌”』(マーラー作曲)
*ルツェルン音楽祭2006
『交響曲第6番イ短調“悲劇的”』(マーラー作曲)
*ルツェルン音楽祭2007
『交響曲第3番ニ短調』(マーラー作曲)
*ルツェルン音楽祭2009
『交響曲第1番ニ長調“巨人”』(マーラー作曲)
~2009年8月12日収録
『リュッケルトの詩による五つの歌』(マーラー作曲)
『交響曲第4番ト長調』(マーラー作曲)
~2009年8月21、22日収録
上記プログラムの中では、
NHK-BSで放送された、、
2007年:『交響曲第3番ニ短調』と、
2009年:『交響曲第4番ト長調』に、
私は深く感動を覚えた。
特に2009年に演奏された、
『交響曲第4番ト長調』の“第3楽章”で示された天上の美しさは、
古今東西のマーラー演奏の白眉の名演として印象深く、
近々の“神がかり”なアバドの演奏会に歴史を刻んだ。
そのアバド&ルツェルンが満を持して演奏する、
マーラーの最高傑作との呼声も高い交響曲第9番ニ長調。
期待するなと言う方が無理である。
私のイメージの中にある演奏芸術により表現された第9の“生と死”は、
・バーンスタイン&ベルリン・フィル(79年Live)が表現した生への執着と死への抵抗。
・カラヤン&ベルリン・フィル(82年Live)の耽美表現に見え隠れする安らかな死への憧れ。
・バーンスタイン&アムステルダム(85年Live)が表現した生の願望と死の悲しみ。
~最期へと向かう数分間の静寂と聴衆に求められる精神統一はマーラー芸術の到達点。
果たして現代の巨匠:アバドは“どんな死”を観衆を前(Live)に表現したのか?
願わくば愛情に満ちた“穏やかな死”であって欲しい。
『交響曲第9番ニ長調』を耳にする時、
演奏芸術はマーラーの心情の代弁ではなく、
変化する時代の“生と死の表現を主題”に耳を傾ける。
クラシック音楽の楽しみは、
そんな聴き方があっても良いのでないか?
2回の放送は何れも視聴には適さない深夜。
クラシック・ファンの方は、
録画の準備をお忘れなく!
<番組感想>
マーラーの手によって約100年前に完成された器楽合奏のための交響曲。
100年の時を経てスイスで行われた素晴らしい演奏会の記録が
日本全国(BS放送を受信できる)の“お茶の間で鑑賞”できる贅沢。
その音声は明瞭で一点の曇りもなく私の家庭にも届けられた。
デジタル電波で運ばれる驚きの音質と情報量に冷静な音楽鑑賞ができたかどうか?
アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団による演奏会は“あっと言う間の95分”だった。
番組の感想を一言で言えば“音の見える演奏会”と言えよう。
2本のスピーカーから流れる優れた解像度と画像に見る細かな演奏者の動き。
膨大な情報量の中で殆どキズ(演奏のミスや聴衆の咳払い等の雑音)のない、
奇跡の演奏会は“カリスマ指揮者&優秀な演奏者&場を弁えた聴衆”との調和。
~思い出すのは小澤征爾さんのボストンでの“さよならコンサート”で咳込む観客。
演奏されたマーラーの交響曲第9番ニ長調は名演が揃う大曲。
しかし全体像を俯瞰すると“どこか違和感”があることは前文にも文字にした。
アバド&ルツェルン2010が解決したバランスの妙は合奏能力の高さ。
パロディに見られがちな第2楽章を重い音色で第1楽章との調和をはかり、
機能性を最大限に発揮できる第3楽章は鋭角ではなく輪郭に丸みを持たせる事で、
第2楽章からの流れをスムーズにした上での、
第3楽章のラストスパートの騒乱への追い込みは見事の言葉しか見つからない。
前文で示したバーンスタインの解釈による“生と死を含む第4楽章”では、
生死を超越したところに“音”が存在するかのイメージを頭に浮かべた。
~視聴前に私が望んでいた音楽表現(前文に記述)とはまるで違っていた。
全体を通して視聴し違和感を覚えない理由としての両端の緩徐楽章はやや淡白。
バーンスタインのように濃厚に感情の起伏を音楽表現に取り込んだ場合に、
第2楽章の不安定(秩序の乏しい)と第3楽章の機能美(高度な合奏能力)を、
バランスよく纏める事は困難なように思う。
そのため正直な気持ちを吐露すれば、
アバド&ルツェルン2010の演奏は私には“胸につまる演奏”にならなかった。
~感動の所在はルツェルン2009の交響曲第4番ト長調の方に軍配をあげたい。
私が感動できなかった理由としての、
音質向上による情報量の多さが、
第4番よりも複雑で高度な第9番には不利に働いた。
昔々フルトヴェングラーやワルターを聴く際に、
“霧の中の音を聴き取るための想像力が必要”
との音楽通の鑑賞の仕方を文字で読んだ事がある。
しかしデジタル時代の21世紀。
“霧は晴れ雲ひとつない音場空間”
に求められる想像力とは何か?
アバド&ルツェルン2010の“最高級に磨きあげられた演奏”を聴きながら、
有名なポリーニの紹介文“これ以上何をお望みですか?”を思い出した。
~その言葉は同時にカラヤンの手による82年のライブへの称賛にも通じる。
余談になるが番組を視聴し気付いた事。
第9番の最期の静寂の部分でライト(照明)を暗くする演出があったことは、
クラシックのコンサートでは珍しい光景として印象に残った。
~2010年:ギャルドの金沢公演では『ローマの松』で体験。
またルツェルン2009同様に、
演奏が終わった後の観客席の静寂は音楽鑑賞の理想的な現場を感じる。
永い静寂の後の少人数の拍手は万雷の拍手に変わり、
やがてスタンディングオーベーションへと…。
帰ろうとしない観客の催促に答えるアバド氏への賞賛。
先日放送された1975年以後のカール・ベームさんの来日公演や
朝比奈隆さんに贈られた称賛同様のファンの感情表現(感謝の意)。
アバド&ルツェルン音楽祭のマーラー演奏。
今年も電波を通し“スゴイもの”を観せて頂いた。
それが私の率直な感想だ。
~以下NHKホームページより記事転載。
【曲目】
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第9番ニ長調
【演奏】
管弦楽:ルツェルン音楽祭管弦楽団
指揮:クラウディオ・アバド
2010年8月20日21日
ルツェルン文化会議センター:コンサート・ホールでの収録
*Lucerne Festival(ルツェルン・フェスティバル)
公式HP→ http://www.lucernefestival.ch/en/
*アバド&ルツェルン2010:マーラー/交響曲第9番(BD・DVD)
HMV→ http://www.hmv.co.jp/news/article/1012280079/