ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

「量子物理学の発見」 レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル著 ヒッグス粒子発見の物語

2016年10月14日 | 読書日記
「量子物理学の発見」 レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル著 青木薫訳



 レーダーマン博士はミューニュートリノの発見で1988年のノーベル物理学賞を受賞した米国の実験物理学の泰斗。1979年から89年まで、シカゴにある国立フェルミ加速器研究所の所長を務めていた。1922年生まれというから94歳というお年だ。共著者のヒル博士はフェルミ研究所で部長を務めた理論物理学者。レーダーマン博士よりは30歳ほど若い。

 原著は2013年に出版されたので、レーダーマン博士にとっては90歳を超えてからの著書ということになる。シカゴにあるイリノイ工科大教授は90歳で引退されたようだが、至極お元気な方なのだと拝察する。

 もう4年前のことだが物質に質量を与えるヒッグス粒子が発見されたというニュースが世界をかけめぐった。本書はその発見まで、そしてその後の実験物理学を展望する壮大な量子物理学の物語だ。

 ヒッグス粒子の発見に成功したのはスイス・ジュネーブ郊外にある欧州原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)。筆者らはのっけから「アメリカの演じた大失態」と切り出し、読者をびっくりさせる。

 大失態というのは以前、このブログ『重力波は歌う』でも触れた超伝導超大型加速器(SSC)計画の頓挫だった。アメリカ南部のテキサス州ワクサハチーの平原にLHCを上回る規模で建設中だったSSC計画は議会の反対で1993年に計画が完全に葬り去られた。当時、ワシントンにいた評者は連邦議会の公聴会を取材したり、現地に出向いて建設現場を見せてもらったりしていた。80㌔という長大なトンネルの3分の1ほどはすでに掘り進められ、20億㌦が拠出されたあとだったが、議会下院は159対264という大差で、計画中止を決定した。

 評者は「米国ではこんな巨大計画でも途中で止めるのか」と惰性に流れる日本との違いに驚いたが、レーダーマン博士らは中止の決定が今も我慢ならない。もしSSCがそのまま建設されていればヒッグス粒子は10年早くSSCの手で見つけられた、と憤りを隠せない。

 博士らは経済を成長させるのは科学だと強調する。その実例としてあげるのはCERNのコンピューター科学者バーナーズ=リー博士が発案した「分散情報システム」。コンピューターのネットワークで科学者が情報を共有するというアイデアは世界の科学コミュニティの間に瞬時に広がり、そこからさらに広がり続けて、今日のインターネット社会を支えるバックボーンになった。WWW(ワールドワイドウェブ)と呼ばれるウェブシステムの国際会議がCERNで開催されたのは1994年。そこからまだ20年あまりしか経っていないのに、インターネットの普及と隆盛がグーグルやアマゾンをはじめ、ネット関連企業の繁栄をもたらしたと力説する。WWWの概念が発案され、そのアイデアや成果物がまったくの無償で利用できたことで、インターネットは世界中に爆発的に普及した。評者もこのブログが、そのお世話になってできていることに感謝している。

 残念ながら、レーダーマン博士にお目にかかったことはないが、ユーモアに富んだ洒脱な方のようだ。表紙扉にある写真を見ると、茶目っ気たっぷりの童顔の老人という印象だ。紹介は難しいが、本書もユーモアやウイットに富んでいて、ヒッグス粒子のような量子物理学の最先端を詳しく紹介する本としてはかなりとっつきやすい。

 「自然は玉ねぎのような階層でできている」(玉ねぎの皮をむいて芯に近づくように、物質はより小さな階層に到達する)とか、「原子の『内部』の発見」、「ニュートン物理学が通用しない、量子力学の世界」といった節ごとのタイトルは平易な言葉で、事の本質をうまく説明している。そもそもレーダーマン博士はヒッグス粒子を「神の粒子」と名付けた張本人で、ネーミングの達人ともいえる。『神がつくった究極の素粒子』『詩人のための量子力学』など魅力的なタイトルの啓蒙書を手がけている。

 本書の詳細な紹介は評者の手に余ってしまう。だが、評者が感心したのは本書が量子物理学発展の歴史を丁寧かつ平易に説明していることだ。1935年に湯川秀樹博士が予言したパイ中間子の理論は宇宙線を利用することで1947年に実証され、湯川博士は1949年、42歳で日本人初のノーベル賞を受賞した。

 生前の南部陽一郎博士にシカゴ大でお目にかかったとき、博士が東大の学生時代、「素粒子論は湯川博士のような天才がやるものだから止めておけ、と教官や先輩から言われたんです」とおっしゃっていたことを思い出した。南部博士は素粒子論の道に進まれ、2008年にノーベル賞を受賞されたが、28歳という若さでノーベル賞を受ける理論的成果を出した湯川博士は確かに天才というべきなんだろうな、と改めて思った。

 ヒッグス粒子発見につらなる量子物理学の成果を解説するレーダーマン博士の語り口はなかなか魅力的だ。最先端の科学研究だけでなく、啓蒙にも力を入れる超一流の研究者を多くかかえる米国はうらやましい。

 ヒッグス粒子発見までの物理学の歩みを解説する第4章「相対性理論の合法的な抜け道」までは高校の物理の知識レベルで読み進んでいくことが可能だ。超一流の専門家による、量子物理学をめぐる科学史の物語として読むこともできる。

 ただヒッグス粒子の発見に至る第5章の「初めに質量あれ」以降はかなり内容がハードになる。それは物質粒子の世代構造であるクォーク、レプトン、ゲージ粒子といった素粒子の基本概念をひととおり理解することが必要になるからだ。もちろん本書は大きな表やグラフを使い、ほとんど数式を使わずに説明してくれるが、それでも正直、なかなか歯ごたえがある。

 レーダーマン博士はヒッグス粒子発見の物語にとどまらず、その先を目指す新加速器計画「プロジェクトX」の計画についても熱っぽく語る。ヒッグス粒子は物質に質量を与える粒子と考えられているが、それ自身の質量がどこからくるかは実は分かっていない。宇宙のほとんどを占めていると考えられる暗黒物質も未だに発見されていない。こうした未知の物理現象を探る科学者の挑戦はさらに続いている。

 正直なところ、読み進んでいてウーンとうなってしまうこともあったが、こうした読者の気分に的確に答えてくれるのが手際よくまとまった訳者による解説だ。訳者の青木氏は「本書の魅力は、難解きわまりないことで悪名高い量子物理学が、ぐっと身近に感じられることだろう」と書いている。さらに「本書の特筆すべき特徴は、ベクレルやキュリー夫妻らの足跡に学び、現代のテクノロジーを駆使することで、現在の実験のパラダイムを変えよう、そして量子物理学に新たな突破口を切り開こうという企てを、レーダーマンが熱く伝えていることだ」と指摘する。

 原題はBeyond The God Particle(神の粒子を超えて)。「量子物理学の発見」という一般的なタイトルより原題の方がわかりやすいような気もした。日本語の副題は「ヒッグス粒子の先までの物語」で、こちらは正確でわかりやすい。
 
 専門家の翻訳だけに、翻訳はこなれていて読みやすい。文中に登場する訳注も親切で、内容の理解をよく助けてくれる。理論物理学好きには強くお勧めしたいが、そうではない人にも最初の4章までで(分量的には約半分)、20世紀の量子物理学発展の歴史をたどることができるお得な一冊だ。

 表紙をめくり目次を過ぎると、「本書を、税金で基礎研究を支えてくださっている国民のみなさんに捧げる」という献辞が登場する。これには度肝を抜かれたが、米国の超一流科学者の率直さと謙虚さに感心した。









 
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