ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

サピエンス全史 ユヴァル・ノア・ハラリ 大急ぎで概観する人類の歴史、立ち止まって考えてみると?

2017年04月19日 | 読書日記
サピエンス全史 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 
圧倒的なスピード感と方向性のわからない不安感と





 何とも不思議な本である。圧倒的なスピード感と、それほどさわやかとはいえない読後感と。欧米でベストセラーになり、日本でもベストセラー・ランク入りした著作。上下巻合わせて500頁あまり。それを一気に読ませる筆力とストーリー・テリングの実力は大変なものだが、一方で著者は人類の行く末をどう見ているのかとやや不安も感じさせる。

 ユヴァル・ノア・ハラリという人はまったく知らなかった。それもそのはず1976年生まれのイスラエルの歴史学者で、オックスフォード大で中世史、軍事史で学位を取り、現在はイスラエル・ヘブライ大教授をしているという。

 サピエンス全史という邦訳のタイトルから、筆者は自然科学系の人に違いないと思い込んでいた。原著のタイトルはSAPIENS:A Brief History of Humankind。「サピエンス:人類の簡潔な歴史」といった感じだろうか。邦訳は2016年秋に出たが、原著は2011年に出ている。原著の評判を受けて邦訳が企画されたのだろう。生まれ年から計算すると著者の35歳のころ原著が出たことになる。

 こうした通史を書こうと志すのは多くは筆者が、功成り名遂げてからのことが多いので、大変な早熟の人である。巻末の扉にあるカラー写真もいかにも神経質そうな俊才という印象がある。これは評者の偏見だが。

 読み進めていって、あまりのスピード感に驚いた。全体は4部20章に分かれている。第1部は認知革命、第2部は農業革命、第3部は人類の統一、第4部が科学革命となっている。第1部、第2部は基本的にこれまでの研究の要領のいい紹介なので、著者の本領が発揮されるのは第3部以降なのだろう。

 ただ大半の読者は冒頭の認知革命のところで、200万年前にアフリカ大陸からユーラシアに広がった人類の祖先のうち、20万年前、東アメリカで進化を遂げたホモ・サピエンス(現世人類)が7万年前にアフリカ大陸の外に広がり、4万5000年前には海を渡ってオーストラリア大陸に住み着く。そして、ホモ・サピエンスの生息地の急速な広がりととともに約3万年前、ユーラシア大陸の広汎な地域に暮らしていたネアンデルタール人が忽然と姿を消したことを知って驚くに違いない。

 ネアンデルタール人の絶滅は人類進化の過程を知る上できわめて大きな謎である。ヨーロッパから西シベリアまでの広い地域に暮らしていたにもかかわらず、約3万年前に突然、姿を消した。そしてもうひとつの衝撃はホモ・サピエンスがネアンデルタール人と実は交雑していたという事実である。

 著者もこの事実を記述しているが、これを明らかにしたのはもちろん、歴史学者ではない。この読書ブログで昨年初め、紹介した「ネアンデルタール人は私たちと交配した」(スヴァンテ・ペーボ著)の中に詳しく書かれている。興味のある方はぜひ、この本を読んでいただきたい。ネアンデルタール人の骨から苦心してDNAを取り出し、それを現世人類のものと比較する中で、ネアンデルタール人のDNAが実はわれわれのDNAに組み込まれていることを知って、評者は本当に驚愕した。むろん、現生人類とネアンデルタール人がどこかで出会い、セックスをすることにあまり不思議はないだろうが、その遺伝子が脈々とわれわれに伝わっているというのが何ともいえず不思議な気がした。

 ただ評者が「交配した」を読んで感激したのはネアンデルタール人のDNAを取り出し、現生人類と比較するという当たり前の科学者なら到底思いつかない「荒唐無稽なアイデア」を実現するための涙ぐましい努力についてだった。普通に発表したところで、「サイエンス・フィクションじゃないんだから」、と鼻であしらわれるのが落ちだ。そうした頑迷固陋な科学コミュニティを説得するという科学者としての類まれな強い意志や使命感に感嘆したわけだ。

 それがハラリ氏の著書では既定の事実として、驚きもなく紹介されている。この人は自然科学にそれほど興味がないのだろうな、とも感じた。

 同じことは第2部の農業革命についても言える。ジャレド・ダイアモンドという科学者をご存知だろうか。「銃・病原菌・鉄」などユニークな世界的ベストセラーを何冊も書いている科学者だ。ここでもなぜ、西欧文明が世界を席巻することになったのかが、きわめて科学的に説得力を持って紹介されている。たとえば野生種しかなかった小麦がなぜメソポタミア地域で大規模に栽培されるようになり、その後、商品作物として幾多の文明を支えたのか、一方、外部世界とは完全に隔絶した生活を送っていた人々が、旧世界と接触する中で、まったく免疫のない病原菌の猛威の前になすすべもなく、絶滅の危機に追い込まれてしまったのか。ダイアモンド氏は長年、ニューギニアに通って、現地で動植物や現地の人たちの暮らしを研究してしてきた人だが、その経験や知識をもとに、大きなうねりのような文明の流れをときほぐしていく手法は見事で、説得力があった。

 ハラリ氏はこうした先賢の著作を自家薬籠中のものとして自説を展開していくが、先賢たちの仕事にどれほど敬意を持っているのだろうか、と少し気になった。ダイアモンド氏の著作では、西欧文明に圧倒されて滅亡したり、衰退していく文化やそこに生きる人々への哀惜の気持ちを感じたが、ハラリ氏には敗れ去るものへの気遣いがほとんどないのではないだろうかとさえ思った。これはハラリ氏がまだ40歳そこそこという年齢や自然科学系の出身ではなく、イスラエルで仕事をする歴史学者という境遇が関係しているのかもしれない。

 少し批判的なことを書いたが、ハラリ氏の筆力や展開力、構成力は大変なものである。読者は機関銃のように吐き出される事実やそれを叙述するレトリックに圧倒され、ほとんど自分の頭で考えることを放棄しそうになってしまうのではないか。

 そこから踏みとどまって、少し彼の物語を検証してみると、ハラリ氏はまず、ホモ・サピエンスが文明を築いたのは「虚構」の物語を構築できたからだ、と説く。これは評者が学生時代だった昔、人気のあった「共同幻想」という概念にかかわる話のようだ。国家や、国民、企業や法律、人権や平等といった概念まで、こうした「虚構」に基づくのだと説明する。こう紹介するだけではとても信じられないだろうが、読み進めていくと圧倒的なスピード感のある例証と、すぐれたレトリックで多くの読者がこの物語を信じていくことになりそうな気がする。

 評者の見るところでは、本書の真骨頂は第4部の科学革命にある。コロンブスの東インド諸島発見以来、西欧文明や西欧諸国が世界を席巻していく過程がつぶさに語られている。帝国、科学、資本というキーワードが見いだされ、帝国に支援された科学技術の発展によって、「未来は現在より豊かになる」という信頼が生まれ(これも筆者のいう「虚構」だろう)、起業や投資が加速するという資本主義の発展が本格化してきたと説く。

 その限りでは著者は今日の西欧文明の発展と繁栄を長い人類文明史の上で積極的に肯定しているようにも見える。

 だが19章の「文明は人間を幸福にしたのか」では、「過去半世紀の束の間の黄金期でさえも、じつは将来の大惨事の種を蒔いていたことが、やがて明らかになるかもしれない。この数十年、私たちは新しい多種多様な形で地球の生態学的均衡を乱し続けており、これは深刻な結果をもたらす恐れが強いと思われる。見境のない過剰な消費によって、私たちが人類繁栄の基盤を損ないつつあることを示す多くの証拠が挙がっている」というやや暗い記述がある。

 終章の20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」はもっと危機感に満ちている。「マウスとヒトの合成」という節では人間の耳が背中に生えたマウスの写真が出ていてギョッとさせられる。ただこれもだれがつくったかについての具体的な記述はない。たまたま評者はこの写真を知っている。バカンティマウスと呼ばれる気味の悪い実験動物を作ったのはハーバード大医学部のバカンティ教授で、彼は人を驚かすことが得意の研究者だ。あえて付け加えるとSTAP細胞で数年前、日本の科学界を震撼させた元理研の小保方晴子氏の指導教官をしたこともあった。

 ハラリ氏がどういう意図で、この写真を掲載していたかの説明はなく、その意図はわからない。ただこの直後にはネアンデルタール人の復活プロジェクトも取り上げているので、筆者には現代の最先端科学技術に対する強い嫌悪感があるのかもしれない。それは理解できるが、読者に最低限の説明をするのは著者の義務に近いことだと思うのだが。第4部では意図的に説明を省いたようなところがあって少し気になった。

 この章の最後に紹介されているのはフランケンシュタインの物語だ。「フランケンシュタイン博士が恐ろしい怪物を生み出し、自らを救うために私たちがその怪物を抹殺しなければならなかったという発想に、なぜかほっとする」と少し読者を安心させたうえで、こう続ける。

 「もし本当にサピエンスの歴史に幕が下りようとしているのだとしたら、その終末期の一世代に属する私たちは、最後にもう一つだけ疑問に答えるために時間を割くべきだろう。その疑問とは、私たちは何になりたいのか、だ」。

 筆者は再び、フランケンシュタイン問題を取り上げたうえで、こう結論づける。

 「唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが、自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」。

 納得できるような、そうでもないような、少し複雑な気持ちが残った。筆者は現代科学技術の行く末を悲観論だけでは覆いたくないのかもしれない。かといって希望が見いだせるわけでもない、ということなのだろうか。読者としては突然、突き放されても困るよという気持ちになるが、そこは自分で考えてといわれるとそうするしかないのも事実だ。

 この本が書かれた2011年からの6年間に、実にいろいろなことがあった。日本に住む私たちにとっては2011年3月11日に起きた東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故は鮮烈な記憶だし、多くの人の人生観に影響を与えるような衝撃だった。去年は韓国の囲碁名人がグーグルの囲碁ソフト「アルファ碁」に負けた。どんな複雑なゲームでも、人間の名人がコンピューターには勝てない時代に入ってしまったということを実感させられた。

 あと何十年かたてば2017年やその前後がどういう時代だったのか総括できるだろうが、私たちには今を懸命に生きていく選択しか与えられていない。その意味で、本書は生きる元気を与えてくれるかというと必ずしもそうではない。それはハラリ氏が40代に入ったばかりで、まだ先が長いと感じていることと関係するのかもしれない。それほど後がない評者らの世代はかなり差し迫った問題として、人類の行く末を考えていかなければならない。

 その意味で、本書を読むのはジャレド・ダイアモンド氏やスヴァンテ・ペーボ氏の著作を読んでからでも遅くはないという気がする。ハラリ氏には20年後、30年後ぜひ、この続編を書いてほしい。それがもっと恐ろしいものにならないよう願うばかりだが。

 翻訳は非常にわかりやすく読みやすい。分量が多く、内容も多岐にわたった著作を適切に訳出された労を多としたい。ところどころにある訳注もわかりやすく的確だ。









 

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