ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

外来種は本当に悪者か? フレッド・ピアス 環境保護至上主義者への激しい挑戦状

2016年12月14日 | 読書日記
「外来種は本当に悪者か?」 フレッド・ピアス 藤井留美訳



 著者はイギリスの科学週刊誌ニュー・サイエンティストの環境・開発コンサルタントを長年務める科学ジャーナリスト。環境問題や水問題専門家で、邦訳の「水の未来」「地球は復讐する」をはじめ、著書は各国語に翻訳されているそうだ。

 評者は長年科学記者をしてきたが、環境問題には詳しくない。環境汚染や環境破壊が問題になったころ、担当記者が活躍したことは知っているが、積極的に取材した経験はない。距離を置いたというより別のテーマを担当し、そちらが忙しかっただけだが。

 ただ環境保護至上主義とでもいいいたくなるような、ややバイアスのかかった記事を見ると「自分には書けないな」と思ったことが幾度かある。

 新聞の書評で取り上げられていたので読んでみたが、「外来種(の排除)」をめぐって生態学者の間でこれほど激しい論争が起きていたことは知らなかった。日本語のタイトルは原著の意訳で、動植物の外来種が生態系を乱す存在として、環境保護至上主義の団体や個人から激しい排斥を受けていることへの異議申し立てになっている。原著は「THE NEW WILD」で、これは「新しい野生」と訳されている。
 
 この分野で20年以上取材を続けている筆者はきわめて豊富なデータをもとに、外来種は決して排斥すべき存在ではないと力説する。

 冒頭から驚いたのはアフリカ西岸に浮かぶ絶海の孤島アセンション島の例。この島はアフリカ西岸から1000㌔以上離れた南大西洋にあって、1501年にポルトガル艦隊が発見したという。面積はニューヨーク・マンハッタン島の2倍。約1500㌔南にフランス皇帝だったナポレオンが流されたことから、1815年にイギリスが監視のため艦隊を駐留させたのが定住のはじまりという。ナポレオン死後もイギリスは艦隊を駐留させ、奴隷運搬船の取り締まりなどを行った。

 もともとは黒い溶岩の山で、1836年7月にダーウィンが有名なビーグル号での航海の帰路、この島に立ち寄ったときには「丸裸の醜悪な姿」をさらしていたそうだ。同じころ上陸した人は「大海に浮かぶ荒涼たる孤島」と表現している。それが今では、豊かな緑に覆われている。イギリス人の島の森林管理官は筆者に、「ここに在来種はひとつもありません。ごくわずかなシダを除いては、すべてこの200年間に持ち込まれたものです」と話したという。島に自生しているのは南アフリカ原産のイチイ、ブラジル原産のグァバ、ニュージーランド原産のアマ、日本原産のサクラ、中国原産のショウガの仲間など。グリーン山と名付けられた小高い山の頂にはアジア原産のタケがうっそうと茂っているという。

 植物だけではない。島にやってくる定期船にはハリネズミやフェレットなどが積まれていた。持ち込まれたネズミやウサギは島に根付き、農場で飼われていたヒツジ、ウシ、ニワトリも野生化し、ロバの子孫までいついているという。

 森林管理官は筆者に、「アセンション島は世界各地から持ち込まれた数多くの外来種によって、満ち足りた生態学的環境がつくりだされた。この事実に対し、環境保護主義者は関心を抱くどころか、見て見ぬふりをしている」と話した。

 本当にそうなのかと、うなってしまうような話だ。それは、われわれが多くは人間の手で持ち込まれた外来種によって、貴重な自然が破壊されたり、危機においやられたりしているという話を毎日のように耳にし、そう信じこんでいるからだろう。

 そうした実例があることは間違いない。西太平洋のグアム島では米軍が1950年にパプアニューギニアから基地の設備を移すとき、ミナミオオガシラという毒蛇を持ち込んでしまった。10数年後には島の半分、さらにその10年後には島全域に生息域を広げた。この結果、森に生息していた固有種の鳥10種、コウモリやトカゲの在来種が姿を消した。毒蛇は1980年代には推定400万匹に増え、全島で猛威をふるったが、なぜか現在は半減しているという。手を焼いた米軍は2013年から毒餌をまいて絶滅をはかっているそうだ。

 世界各地の実例をつぶさに知る筆者は、外来種は悪者という通説に、これでもかこれでもかと反証をつきつけてくる。オーストラリアに生息する野生犬のディンゴはもともと野生ではなかったし、オーストラリア起源でもないという。今から約5000年前、アジアから小船で渡ってきた人々が連れてきた犬が野生化し、数を増やしたという。

 5000年もオーストラリアにいついたディンゴは在来種か、それとも外来種なのか? オーストラリアの東南部、ニュー・サウスウェールズ州ではディンゴを在来種と認めているそうだし、ディンゴの「純血」を守り、ペットのイヌとの交雑を防ごうとする動きまであるという。19世紀に物資の輸送手段として持ち込まれたラクダはその後、用済みとなって野に放たれ、今ではアラビア砂漠よりオーストラリアの野生ラクダの方が数が多くなったという。

 いずれも簡単に外来種を排除すべきだという議論にはなじまない事実ばかりだ。ピアス氏は世界各地を歩いて、容易に答えの出ない実例を痛いほど突きつけてくる。

 もちろん、世界では思いがけない闖入者を防ぐために、ありとあらゆる努力が行われている。少し考えさせられたのは2011年3月11日の東日本大震災の大津波で流された長さ20㍍の浮き桟橋が、太平洋を横断してアメリカ西海岸のオレゴン州に漂着したときのことだ。すぐに解体のため処理班が急行したという。貴重な記録として保全するのではなく、付着した生き物が上陸し、定着するのを防ぐためだった。調査の結果、日本原産のワカメのほか、洋上の長い漂流でイガイ、カニなどの生物も付着していたという。食材としてなじみの深いワカメだが、世界的には外来侵入種のワースト100リストに入っているそうだ。

 もうひとつ考えさせられたのが中国原産で日本でもよく見るクズが、欧米では激しく嫌悪されていることだ。1870年代、東京のアメリカ公使館に勤務していたスタッフが、兄弟が経営する種苗店にクズの苗を送った。20世紀初頭には「奇跡のつる植物」ともてはやされたが、「望まれない場所にもよく根付く」特性は次第に厄介者扱いされるようになった。1997年には「在来の樹木、作物を脅かす邪悪なエイリアン」として連邦有害植物法に定める有害植物リストに入った。南部での繁殖面積は2万8000平方㌔に達したという。日本では有用植物として利用されているのだから、複雑な気持ちになる。1999年、アメリカのタイム誌は「20世紀の失敗ワースト100」という特集で、石綿の使用、DDT、禁酒法などと並び、「クズの上陸」を挙げているそうだ。

 ただ、クズの被害が明確になっているかというとそうではないらしい。アメリカ・メリーランド大の研究者によると「クズの生態学的影響については、風聞ばかりが広まっていて、数量的なデータがほとんどない」そうだ。思い込みが先行する形で、科学的な検証は手つかずのままになっているという。

 日本原産の植物が排斥されたもうひとつの例がある。園芸愛好者が多いイギリスでとりわけ目の敵にされているのがイタドリだ。イタドリをヨーロッパに持ち込んだのは幕末に来日したドイツの医師フォン・シーベルト。彼は日本で集めた植物を持ち帰って植物園に植えた。イタドリは19世紀半ばイギリスに入り、最初は外来植物として珍重されたが、次第に厄介者扱いされる。イギリス環境庁は「イギリスで最も攻撃的、破壊的、侵略的な植物」と位置づけ、「生態系を損ない、生物多様性を低下させる」と厳しく非難している。政府はイタドリがひきおこす損失額を年間2億5000万㌦と試算し、年間300万㌦を駆除予算に支出しているとか。だが、筆者はこの試算には根拠がなく、「イタドリ恐怖症」とでもいうべきものだと非難している。

 ことほどさように世界各地で外来種への嫌悪感は強い。それを裏返したのが「手つかずの自然」という神話だという。たとえば手つかずの自然が残っているとされる南米アマゾン川流域の熱帯雨林。筆者はこれもまやかしだと指摘する。1542年、スペイン人の征服者がアマゾン川を下る全距離航行に成功した。しかし、彼は河口から1100㌔さかのぼった支流との分岐点付近で、「川岸に24㌔にわたる大きな町があった」と記しているそうだ。「家々がすき間なく並ぶ様子は壮観で、よく整備された幹線道路が内陸部に向かって何本も延びていた」と記している。その後、この川岸の町を見た人はいない。

 筆者は、最近のアマゾンの熱帯雨林での考古学調査でいくつも都市遺構が見つかったことから、「ヨーロッパ人が入り込み、病気を持ち込んだのだろう」と推測している。それまでまったく外部との交流のなかった人たちに未知の感染症が持ち込まれると、免疫がなく全滅の憂き目に遭ってしまうことが知られている。

 ピアス氏は「熱帯には手つかずの自然がそのまま残る。これは19世紀ロマン派の作家や画家が言い出したことだが、科学者も長いあいだ素直に信じていた。(中略)しかし、最近になって南北アメリカ、アフリカ、東南アジアの森林を調べて見たところ、耕作や精錬などのために伐採された痕跡が広範囲で見つかっている」「どんなに深い密林にも、数千年前から人間の手が入っていた。研究者もこのことを事実として認めつつある」「思い込みをくつがえすのは難しい。環境保護主義者だけでなく、研究者のあいだにも手つかずの自然のイメージが染みついているからなおさらだ」

 こちらも、唖然とするような話だ。手つかずの自然、原生林というのはただのロマンにすぎないのだろうか。自然はバランスのとれた状態にあって、それを人間が乱したり壊したりするという発想は19世紀半ば頃からあるそうだ。その源流は、罪を犯した人間がエデンの園から追放される旧約聖書にまでさかのぼれると筆者は鋭く指摘する。

 イギリス・ケンブリッジ大の地理学者トラッドギル氏は「生態学は『自然の秩序を壊してきた罪悪感』の上に成り立っているが、それはまったくの誤りであり、人間の重要な過ちだ」と指摘しているという。

 アメリカ・イェール大の生態学者ボトキン氏は「自然のバランスなどというものは存在しない。自然はつねに変化しつづけており、釣り合った状態にはならない」という。

 この主張がこの書物の核心だ。ボトキン氏はそうした視点から自然をとらえる試みを新生態学と呼び、筆者はニュー・ワイルド(新しい野生)と呼んでいる。

 こうした観点から注目されているのは、アメリカの進化生態学者ジャンゼン氏が1980年に提唱したエコロジカル・フィッティングという概念だ.彼は中米コスタリカの国立公園で、国の木になっているグアナカステの森を再生させるために、大きな木の実を食べて種を遠くに運んでくれる動物としてウマを導入した。以前はナマケモノや古代馬など実を食べ、種を運んでくれる動物が森の再生に役立っていたが、すべて絶滅してしまっていたという。

 外来種も新しい生態系にぴたりとはまって、環境の再生に役立っているのではないか、これがエコロジカル・フィッティングの考え方だという。

 筆者は北大西洋の孤島アイスランドに1963年、火山の噴火で誕生した新島のことを詳しく説明する。島の誕生後すぐ自然保護区に指定され、人の立ち入りは厳しく制限された。アイスランドからはわずか30キロしか離れていないそうだが、植物と地衣類はそれぞれ約60種類、昆虫は300種類が生息し、そのほとんどがアイスランドからではなく、大西洋を飛ぶ渡り鳥が羽を休める途中、ヨーロッパ各地やアラスカなどはるか遠くから運んできたものだという。

 ピアス氏の結論はこうだ。「自然はぜったいに後戻りしない。前進するのみ。たえず更新される自然に、外来種はいちはやく乗り込み、定着する。彼らの侵入は私たちにとって不都合なこともあるが、自然はそうやって再野生化を進行させている。それがニュー・ワイルドということなのだ」。

 そうなのかもしれないな、と思う。だが、「手つかずの自然」を素朴に信じていたものの1人として全面的には信じ切れないのもまた事実だ。それだけこれまでの「刷り込み」が強かったのだろうが。

 巻末の岸由二・慶大名誉教授の解説が適切で、わかりやすい。岸さんによると、生態学という分野は、生物の種の生存・繁殖と、環境条件との関係を扱うダーウィン以来の生物学の一分野だという。同時に、生態系、生物群集などという概念を使用して、地域の自然の動態についても議論をする分野だという。

 20世紀半ば以降、種の論議と、生態系や生物群集の論議をどう理解するかという課題をめぐって、生態学の前線に大きな論争や転換があったという。その転換を紹介するのにもっともよい切り口が「外来種問題」と、これに関連する「自然保護の問題」なのだという。たとえば同じメダカでも、地域固有であることが遺伝子分析で推定されれば絶滅危惧種だが、同じ種類でもペットショップから持ち込まれれば除去・排除の対象になるといった具合に。

 こうなると一種の「神学論争」にも似た議論になっていくような気がする。岸さん自身も地元の鶴見川で環境保全活動を行っているが、湧水が枯渇した源流にいた淡水魚をいったん別の谷に移し、その後元に戻したところ、「固有の生息地からの集団の移動は、国内外来集団を生み出すことになるので認められない」と保全生物学の研究者から激しい抗議を受けたという。岸さんはこうした極端にも見える主張を「中世的な世界にとどまり続けている」と厳しく批判している。

 評者は自然環境保護運動に関係したことはないが、時にそうした過剰ともいえる傾向がかいま見えることも確かだ。自然保護は大事だし、貴重な自然は相当な努力を払って保全しなければならないと思うが、一方で「手つかずの自然」を信仰するだけでは事態は改善しない、ということなのだろう。

 評者も含め、手つかずの自然という「神話」に埋没する形で、思考放棄してきた多くの人にとって、本書は豊富な実例に基づいて思考の転換を迫る切れ味の鋭い挑戦状だと思う。すぐに全面的に共感するというところまで一気には進まないが、思考転換の貴重な手がかりを与えてくれることだけは間違いない。

 ないものねだりを承知でいえば、クズやイタドリなど日本発のネガティブな例は紹介されているが、日本の実例がなかったのはちょっぴり残念だった。具体的な課題について、筆者ならどう考えるのか聞いてみたい気がした。

 訳文は非常にわかりやすい。動植物のさまざまな種が頻出するので、訳出作業は大変だったと想像する。翻訳の労を多としたい。巻末に原注が15㌻にわたって付いているのも親切だ。字が小さいので読むのはちょっと苦労するが。


 

 

 


 
 
 

 
 



 

 

  

 

 
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