ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

自由の思想史 猪木武徳 経済学者が見た自由と市場についての深い考察

2016年11月08日 | 読書日記
「自由の思想史」 猪木武徳著



 猪木武徳氏は国際政治学者として著名な猪木正道氏のご子息。父上と異なり、経済学者の道を歩まれた。京都にある国際日本文化センターの所長も務めた。評者は残念ながら経済や経済学に関してほとんど知識はないが、猪木氏の近著の「戦後世界経済史」にはいろいろと教えていただいた。視野の広い経済学者だと思う。

 「自由の思想史」は新潮社の「考える人」という季刊誌に2年間にわたって連載されたものだ。「市場とデモクラシーは擁護できるか」という副題がついている。

 巻頭のまえがきがなかなか挑戦的だ。イソップの「犬とオオカミ」の寓話を引いて、痩せたオオカミが飼い犬と出会い、仕事をするから食べ物にありつける術はないかと尋ねる。犬は自分の主人を紹介しようと申し出るが、オオカミは犬の首輪の跡に気づき、どうしてそうなったのかと聞く。犬は「夜は飼い主が自分をつなぎとめるからだ」と答え、それを聞いたオオカミは「そんなことなら仕事は要らない」と断る話だ。イソップは「太った奴隷になるよりも飢えて自由な方がいい」とこの話をしめくくっている。

 うちの駄犬に聞かせてやりたいところだが、食欲の塊のような駄犬はきっと、「いくらつながれてもいいから、たらふく食べたい」と答えるだろう。

 つまらない冗談はともかく、猪木氏は「ことはそれほど単純に割り切れるのだろうか」と問いかける。「人間には『何かに隷従したい』という気持ちがないだろうか。(中略)そもそも『自由で飢える』方がよいと考える倫理的根拠はどこにあるのか」とたたみかける。なかなか厳しい問いかけだ、と思う。

 「本書は、筆者の年来の関心に沿って、読んできたこと、経験したことを思い出しながら、自由という『鬼火』のような『逃げ水』のような不確かな言葉の中味を質してみようという気持ちから生まれた」。

 選書だからとやや気楽に構えていたが、少し居住まいを正す気持ちになった。

 全体は8章に分かれている。第一章は「守るべき自由とは何か」。こちらも寓意を含んだ実話から始まる。今、大規模書店の経営者にとって最大の悩みは「万引き」だという。万引きはれっきとした犯罪だが、書店は客の一挙手一投足を監視するわけにはいかないし、警備員を増やすにしても限界がある、妥協策として監視カメラを設置するという対策があるがこちらにも死角が存在する。というわけで、現実には犯罪をできるだけ減らす、比較的低費用ですます、客の精神的自由(常時監視されているという気持ちからの解放)という3つの価値をほどほどに満たしてくれる対策が選ばれることになるという。

 このエピソードは、「自由社会でのいくつかの価値が互いに衝突し、両立困難なことを示すわかりやすい例だ」という。

 筆者はフランコ独裁政権下のスペインを訪問した学生時代の経験、その独裁政権に対し、自由を求めて市民戦争を反フランコの市民とともに戦ったジョージ・オーゥエルを引きながら自由の意味や意義について論ずる。「オーゥエルは、自由を『人間の意識の領域の拡大』として捉え、その領域を狭めるような『全体主義』と闘うことに意味を見いだした。確かに人間を動物から区別するひとつの物差しは『意識や関心の広さ』である」。

 「この点について見事な説明を与えたのは近代デモクラシーの思想家、アレクシス・トクヴィルであった。彼は個人の尊厳と自由を最高位に置き、その個人が属する『地域共同体』の自治、そして地域共同体の集合としての『国家』へ、という3層の構造に留意しながら自由の根拠についてひとつの答えを与えたのである」。

 トクヴィルは19世紀フランスの思想家。アメリカを訪問し、その体験をもとにアメリカの社会や政治体制について論じた「アメリカのデモクラシー」という不朽の名著がある。

 第2章は「自由のために闘ったアテナイの人々」、第3章は「古代ローマ人の自由と自死」と続く。読んでいて大昔の学生時代、教養課程で「西洋社会思想史」の授業をとり、よくわからないながらも懸命にノートをとっていたことを思い出した。内容は忘れたが、講義に登場した哲学者の名前はかろうじて記憶している。

 筆者は福沢諭吉の先見性を高く評価する。第5章の「教える自由、学ぶ自由」の中で、「学問のすすめ」を引用し、「(福沢は)『学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り」と言い切っている。何が役に立つのか、何が実学で何が虚学かが問題なのではない。学問をいかに精神の働きに生かせるかが問題なのだ」と指摘する。

 これには筆者の長年の大学人としての経験から、近年、経済・産業界が大学に対し、実践的な人材の育成を求めすぎていることへの批判がこめられている。

 評者が一番興味深く読んだのはやはり第6章の「言論の自由、表現の自由」だ。

 猪木氏は言論の自由や表現の自由を単純に擁護するだけでなく、報道の偏向や虚偽についても厳しく批判する。評者は不勉強でまったく知らなかったが、NYタイムズはロシア革命をめぐる報道で、1917年の革命勃発から1920年の帝政崩壊までの間、実際には起こらなかった事柄を捏造、架空の残虐行為を報道し、何度も「ボルシェビキ体制は崩壊寸前だ」と書き続けたのだという。1920年に発表されたNYタイムズの偏向と虚偽を厳しく批判する論文は、アメリカでジャーナリスト志望者が大学院教育を受けるときの重要文献のひとつになっているという。

 この論文の著者であるリップマンとメルツによるメディア内部からのメディア批判は「Killing the Messenger:100 Years of Media Criticism」 という1989年発行のアンソロジーにおさめられている。

 アメリカに限らず、日本でも虚報、捏造の記事はあとをたたない。評者は幸いにして身近に経験したことはないが、在籍した新聞社でも虚報や捏造が発覚し、本人だけでなく、上層部が責任を指弾される事態を何度か経験した。こうしたことが起きると、結局のところ、記者個人の資質に帰せられてしまうことが多いが、評者の知る限り、誤報や虚報、捏造の問題点を教える、きちんとした記者教育が行われていないことも原因のひとつだと思う。残念ながらアンソロジーの邦訳はなさそうなので、原著をアマゾンで取り寄せて読まなくてはいけないなと思った。

 ちなみに「Killing…」というタイトルはその昔、不都合な知らせをもたらした伝令を(その伝令には何の責任もないのに)王様が殺してしまったという話に由来している。このタイトルは、王様に殺されないために、伝令は耳に心地よいニュースを届けるようになることを暗示しているともいう。 

 博学博識の猪木氏は、こうした話はソフォクレス、プルタルコス、シェイクスピアなど古典文学の中にいくつか似た話が出ているという。こうした心理について、18世紀に活躍した経済学者、哲学者のアダム・スミスは「悪い情報の伝達者というのは、一般に不愉快であり、これに反してよい知らせをもたらす人に対しては、一種の感謝の気持ちをいだく。凶報の伝達者を悪運の創作者とみなし、吉報をもたらしたものを幸運の創作者と考え、伝達者が報告説明した出来事が彼らの手で実現したのだと思ってしまうのだ」。

 現代でも言論の自由が保障されていない社会で、独裁的な政権が、自由なメディアや言論を抑圧しようとすることの背景にはこうした心理とも関係があるのかもしれない。

 だが、筆者は言論の自由の重要性を強調する一方、無批判な礼賛やその乱用ともいえる行為には警戒の姿勢を崩さない。

 筆者はこの章で、最近の日本で問題になっている「ヘイト・スピーチ」を取り上げている。ヘイト・スピーチを一方的に断罪しているのではない。2014年8月、国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に、「毅然とした態度で対処すべく法制を整えるべきだとする調査最終見解書を公表した」と経緯を述べたうえで、「何がヘイト・スピーチになるのか、具体的にその条件を確定することは難しい。(中略)明らかなのは、デモクラシーのもとでは、国民が必要とする情報の散布、知る自由、言論と表現の自由を保障することが重要だとする考えが一方にあり、他方に、こうしたヘイト・スピーチによって社会的な少数派が受ける精神的苦痛を強調する立場があり、両者が対立していることだ」と議論を続ける。言論の自由の無条件な礼賛だけでなく、その行き過ぎにも十分に目を配らなければならないという趣旨のように読める。 

 こうした言論の自由の持つ両面性について、筆者はさらに考察を進める。

 エドワード・スノーデンというアメリカの若者がCIAでの仕事などを通じて知った情報をもとに、アメリカ政府が個人や外国政府要人のインターネットや電話回線を組織的に傍受する大がかりな盗聴行為を行っていると告発したことは記憶に新しい。スノーデンはその後、アメリカでの情報漏洩罪の告発を逃れるためロシアに逃れ、今もロシアでかくまわれている。現在のロシアの社会に言論の自由が保障されているとはいいがたく、このこと自体が大変な矛盾だといえる。

 筆者は言論、出版の自由については現代のデモクラシーに不可欠で、基本的に支持すべきものだという立場を堅持する一方で、その弊害についても懸念を隠さない。

 ここでも猪木氏はトクヴィルを引用する。

 「(トクヴィルが)『出版の自由』に対して、『全幅でためらいなき愛をおぼえるものではない』とする一方、検閲や統制がもたらす禍いを考えると、『言論・出版の自由』を支持せざるを得なかった点に、自由が持つ二面性のディレンマという問題の複雑さ難しさが読み取れるのだ」。

 筆者の見解に納得する人ばかりではないかもしれないが、この問題の持つ複雑さ、難しさは少し理解できるような気がする。 

 筆者は最後に福沢の「文明論之概略」にある「日本文明の由来」を引いて、「西洋文明の根源が『権力の多元性』にあることに議論を集中させつつ、『日本になぜ宗教戦争がなかったのか』に言及している」という。

 「西洋では権力が、教会、王権、貴族、市民というように多元的に存在していたのに対して、日本の権力は一元的であり、『権力の偏重』が著しい点が特徴だと指摘し、宗教も、政治に取り入ること、権力と一体化することに執心し、それがために日本には宗教戦争は起こらなかったと福沢は見る。学問も治者の学問になることに努め、権威主義が蔓延り、宗教も専制を助けることになったというのだ」。

 福沢の慧眼というよりほかはない。文明論之概略は読んだが、そこまで読み込んでいなかった不明を恥じるばかりだ。

 普段、些事にとりまぎれていると、人間の文明の長い歴史を通史としてとらえる、猪木氏のような俯瞰的な見方からはずいぶん遠いところにいってしまう。それを気付かせてくれただけででもこの本を読んだ収穫は大きかった。

 評者のようなリタイアした人間が読むよりも、若い人の方がより知的刺激は大きいはずだ。古代ギリシアの哲学者をはじめ、古典からの引用が非常に豊富だが、いずれも出典だけでなく、引用されている文言の出所の頁が明示され、引用をたどれるようになっている。これは大変ありがたい。バランスのとれた好著なので、若い人は少し無理をしてでも読んでみるべきだと思った。





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