蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

店じまいを考える

2018-01-16 | 老い
昨日、母から電話があった。
「どうしてるの? また来てちょうだい。待ってるよ」

「昨日、19人も集まって、おばあちゃんを囲んで新年会したやん」
「そんなとこ、行ってない」
・・・
姉2時間、私2時間、目の前にいる、これは誰で、それは誰で、延々と同じことを説明したのは何だったのだ?!
さすがに、言葉を失った。
昨日、涙を流しながら書いたブログは何だったのだ?!

「写真見せてくれなかったら、(そんなことがあったかどうか)わからへん」
と、母。
遠方から母の妹がわざわざ訪れてきてくれたりしても即、忘れる。
食べたことも忘れる。
かなり、進行しているようだ。

美味しいものを食べさせたり色々しても無駄だと悟る。
過去の記憶にあることだけ、しかも気分が良くなったり楽しさが蘇るような話題を選んで、思い出を引き出すような話をするしかないか。
過去は過去、現実は現実。
ノスタルジーに浸っていても現実を変えることはできない。
せいぜい、母も周囲も、最大限、快適に過ごせるよう努力するのみ。
自分も行く道なので、見本があるからわかりやすい。まさに道標。
受け入れるも受け入れないも、生物の摂理。
老化とは酷なものである。

さて、わたし。
あと25年の間、自分という店じまい。
棚卸し。
終活とは少し違う、閉店準備。
いかに楽しんで店を閉めるか、いかにあがかずに店を閉めるか。
赤字、黒字、収支数字によっては閉店日が前倒しになることもあるだろうし、ちょっと延命されるかも知れない。
考えている間に、あっと言う間に過ぎそうだ。
店を閉まってからも、とりあえずはまだまだ生き続ける予想だが、医療費圧迫で若い世代に税金を負担してもらうのは気の毒だ。
わたしだけに関しては、店じまいをしたあとは、毎日、少しずつ、天国の階段を登りたい。(誰でもか)
階段が長すぎるようなら、途中でカット、割愛してもらっても構わない。
が、最後の一歩の後に天国があるのが望ましい。
今から、どこかの宗教に入信するのもヒネすぎた信者だろう。
だから、母の提唱していた「宇宙教」か、自分の都合いいことだけを考える「自分教」の教祖、兼任、第一信者(定員1名、自分だけ)となろうか。

こんなことを考えていたら、時間が瞬時に過ぎるが、(今日に限っては)意外と悟りが早かったので、地下鉄、降車駅より、早めに本日のブログは終了できそうだ。
(むしろ時間が余って退屈。
スマホ、新バッテリーの威力はスゴイ)

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