蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、花咲く時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

なにもしたくない時は、なにをすればいいか

2016-11-02 | 老い

わたしには、超絶珍しい、「うっちゃん※」が、来ている。
※鬱の愛称

ミニミニうっちゃんで、存在すらわからないような、かわいいものだ。

うっちゃんが来ると、なにもやる気を起こさせない。
悪意のない、イタズラ小僧。
でも、現代社会では、これに苦しめられる人は多いようだ。

わたしは、そもそも、うっちゃんとは、まったく仲良くもないし、幼いころから無縁だった。
劣等感まみれだったが、うっちゃんは、近寄りも、かすりもしなかった。
劣等生である自分のことで忙しく、自分育てにすべての注意を払い、うっちゃんの存在すら知らなかった。
そんな、まるで無関係なうっちゃん、なにを今頃になって、やって来る?
わたしが、呼んだ?

そもそも、スマホばかり使っているので、パソコンを開けなくなったのも、うっちゃんを来させる、うっちゃんに付け入らせるスキを作った。
固定パソコンなら、一日中、インターネットに延々と取り掛かり、調べ物をしていても、ネットサーフィンをしていても、いろんなサイトに遊びに行っても、時間は、あっという間に過ぎる。ところが、今はスマホに移行している。
だが、スマホは、一日中、かじりつきたくない、という自分なりの思い、ルール、シバリがある。
スマホは、外でするもの、空き時間にするもの、家でずっとやってはいけない、決してメインのポジションにいてはいけないという、自己規制。
ある程度、継続すると、途中で、自己アラームによる「オーバータイム」警報が鳴る。(実際は鳴りません)
アラームの後、ぽっかり時間が空く。


ここのところ、いつも、わたしはスマホで、蝶ブログや、その他のサイトの日記をアップしている。
つまり、外出中にやっているということだ。
移動時間の有効利用。
が、最近、イタズラうっちゃんが、ちょろちょろして、外出を阻む。
行きたくない。明日にしよう。来週にしよう。
なにも今日でなくても、いいだろう。
アタマがどんより重い。
まるで、朝の不登校状態の子供。
・・・・・

うんぬんかんぬん、、、、なにもする気が起こらなくなった。
しかしながら、自分という物体のエンジンが、あまりにも、ぷすっとも動かないので、スマホで調べる。
困ったときは、ググる。レシピも、おばあちゃんに聞くのではなく、おばあちゃんの知恵袋アプリ。
我が家の味は、COOKPAD。
(これで、世の中、わたしだけでなく、人間関係は希薄になったのではないだろうか)

「なにもしたくない時は、なにをすればいいか」

よくもまあ、こんな建設的でないキーワードを探しまくるものだ、と、自分でもあきれる。
老人性うっちゃんか?

決して子供たちが自立したあとの空の巣症候群ではない。
自立に関しては、よくぞ、こんないい加減な母親に育てられて、今日までちゃんと育ってくれたと、我ながら驚嘆と安堵の思いである。
目標とする、一歩先を行く母や姑たちの老いを見て、そして、自分も確実にそれに向かって、ひた走っている実感から、
生きる目的を見失っている感がある。
ロスト。
道標よ、いずこに?  スマホに聞け???

子供たちの、(わたしの)老いに対する悪意のない言動に、とても傷つく。
わたしが、母や姑たちの、自分を律して自立できなくなった「老い」に苛立ち、優しく接することができなかった報い、罰が当たった。
彼女たちに、否定的な態度を取ったからに違いない。
ブーメランか。

しかし、母や姑は、自分の老いによる自身の劣化を認めない。
わたしは、それに苛立ちを感じるのだ。
だれだって、老いは悲しいし、認めたくない。
しかし、事実、真実は真実として受け止めなければいけない。
逃げようとも、真実から目をそむけようとも、事実は事実であり、変えることはできない。
なら、自分を変えて、自分に起こった加齢によるマイナス変化を認めたらよいと考えるのだが、そうはいかないのも、老いから来る劣化か。

迷惑をかけられる若い人々は、舌打ちものだろう。
わたしがそうであったように。
こんどは、わたしが迷惑をかける側か。
孫たちは、成長するにつれ、どんどん世話する範囲が狭まり、母や姑たちは、どんどん持ち時間がなくなり、自分は、どんどんダメダウン傾向である。
中間管理職で、まんなかで、孫や子供、親を支えるポジションだ、頑張らねばと思っていたら、すごいスピードで様変わりしている。
せっかく気合を入れて頑張る覚悟をしていたら、人の役に立つ頑張る時間を通り越して、役に立つどころか、自分自身が思わぬ速度で下降し、お荷物になろうとしている。

子供(娘)が、孫を見、親を見、、、、中間管理職の子供世代に一気に重圧、負荷がかかったかんじである。
(子供からみた「親の親」は、我々が受け持つので、子供世代は「親の親」を見る必要はないが)
子供世代と一緒に親や孫を背負うつもりが、自分が背負われる側になろうとしている。
なんと、思いあがっていたことか。

できるだけ、子供たちに迷惑をかけないようにしようと、決意を固めた。
力になろうなどと、恐れ多い。
出来る限りはお手伝いしようとは思うが、足を引っ張るようでは、そんな状態では、のこのこ出てきてほしくないと、子供たちも思うことだろう。
「こっちはいいから(手伝わなくていいから)、自分のこと、自分でしてちょうだい」と。

血がつながっていると、親に対する思いも、他人とはまた違い、苛立ちも大きい。
わたしが、そうであったように。
苛立っている身から、苛立だたれる身に。
しかし、同時進行は早すぎないか?

老化ジャンルにも、うっちゃんは、いるそうだ。
しばらくは、自分をかまわず、そーっとして、うっちゃんが、どこかに、気ままに出て行ってくれることを待つことにしよう。

子供がしっかりしないで、自立しないで嘆く親もいれば、子供がしっかりしすぎて、自分がお荷物になって嘆く親もいる。
どっちが、いい?

とかなんとか言いつつ、いろいろまだまだ使い道はある親(わたし)ではある。

しかし、この思い込みが、老害の始まりでなければよいのだが。

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