蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、花咲く時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

凡人礼讃

2017-08-09 | 華のスロー人
いいなあ、、、
最愛の他人と過ごす晩年。

ねえ、おじいさん。
なんだい、おばあさん。
ほら、あの時、子供達のあの出来事、あなたったら、、、
そりゃ、そうさ、、、あれは、なあ、、、

見て、この風景、前に住んでたところを思い出しますねえ。
あの家は、ひどかったけど、懐かしいなあ。

静かに語り合う過去、支え合う暮らし。

いいなあ、、、

やがて、片方がいなくなっても、もう一方は淡々と生きていく。

晩年にならないと到達しない心境だとしたら、まだ晩年とは言えない、生臭い年齢の今。
落ちついた老年の自分が想像できない。

欲が一切なくなって、塩分も脂も旨味もなんにもなくなって、ひたすら薄味になれば到達できるのだろうか。
(無味になると、無味乾燥だけど)
強欲なわたしは、強欲は、生きる意欲とセットになっているかも知れない。

ある芸術家は、自分の才能に行き詰まり、作品作りをやめるのと同時に、自らの生命を断った。
生きることは、生み出すこと。
エネルギー、情熱が芸術を生む。
生み出すことが出来ないなら、生きている意味がない。

わたしは芸術家ではない、一般凡人なので、そんな壮絶な追い込みはない。
ぬるく生きている。
が、欲が張っているせいで、自分の首を絞めている。

欲と生命力がセットなら、、、
自業自得の人生と言える。
生み出すものなどなく、ひたすら、自分の欲と闘う。
この欲が、出世欲とか名誉欲とか、独占欲とかなら、まあよくあることだが、もっと低次元の欲。
ぜんぜん建設的ではない、マイナスの力。
そうやって、無意識に「生きること」へのバランスを取っているのだろうか。
水面下で、手足をバタつかせて、涼しげな顔だけ水面から出しているのか。

宗教で救われることも多い。
ただし、わたしの場合、特定の宗教ではない。
宗教は、人間の業の深さを認めた上で、否定せず、なだめてくれる。
フタをして覆い隠すのではなく、鎮めてくれる。
具体的に教えを実践して、写経をするわけでも、お百度詣りするわけでも、巡礼地に赴くわけでもない。
教会に行くわけでもなく、聖書や聖典を読むわけでもない。

そうこうしていると、もうじきお盆。
仏教は、御先祖と子孫たちの縦のつながりを大事にする。
わたしは、義務であるお盆行事をこなさなければならないが、これがついでに身を鎮める効果もあるなら、悪くはない。

しかし、家の仏教継承は嫁の義務ではあるが、そもそも、嫁が嫁いだ家の宗教を守り継承しなくてはならない、この義務そのものに疑問を感じる。

そんな疑問を感じても、盆行事は遂行する。
宗教心からではなく、義務感。仕事。

(嫁が違う別の宗教なら?
嫁がいないと【離別、死別、非婚】、嫁ではない家の人がやり、家の人がいないと、誰がやる?)

しかし、いつになったら、解き放たれるのだろう。
いつまで経っても、迷える中途半端な、生乾きの人物である、わたし。
わたしのモヤモヤが解消されるのは、この世からいなくなる時だろうか。
あるいは、生きている間に、怖い悲惨な目に遭ったら「モヤモヤ」は、のんきな幸せの副作用だったと気づくかも知れない。

とりあえず、今日に感謝。
誰に感謝するのかわからないけれど、自分以外の人に感謝して、さらに自分に労いの言葉をかける。

芸術も生み出さず、ぬるく生きている、不平不満だらけの自分に、よくまあ恥ずかしげもなく、のうのうと生きているなあと、労いの言葉をかける。
まあ、とかく凡人は生きやすい。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 我慢に我慢を重ねてキレる頃 | トップ | 暑い時に、ゴタクは暑い »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

華のスロー人」カテゴリの最新記事